宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料

宮代町史 通史編

第四編 近現代

第三章 学校のはじまり

第一節 寺子屋から学校へ

 江戸時代の後期から明治時代の初期には、多くの寺子屋があり、庶民教育機関となっていた。日本人の識字率の高さは、寺子屋における「読み書きそろばん」の教育によるものといわれている。西粂原の矢部家にあった漢学塾である寧倹義塾も、庶民教育機関の一つであったが、ここでは、寺子屋より高度な内容の教育が行われていたようである。
 寧倹義塾の創立者矢部酒造之丞は鼎湖(ていこ)と号し、嘉永五年(一八五二)八月五日の西粂原村に生まれた。六歳で蓮田村の友賢に学び、後に江戸に出て福沢諭吉の門下に入って学び、各地から福沢の下にやってきた門下生の中で切磋琢磨されたようである。明治初年に自宅に寧倹義塾を開設した。旧幕府の朱子学派の儒者和気天造を招くなどして教授し、酒造之丞は、経書や歴史書を講じたという。一般の寺子屋より、高度な内容が講じられていたようである。門下生は数十人いたというが、明治政府によって学制が公布され、明治六年(一八七三)に村内に西條学校が開校したことに伴い閉塾となった。酒造之丞は、西條学校でも教鞭を取った。
 酒造之丞が古希を迎えた大正十年(一九二一)、門下生らによって記念碑が建立された。「鼎湖矢部先生寿蔵碑」とあるこの碑は、現在も矢部家の門前に建っているが、台座を含めて三メートル余の高さを有し、表面には酒造之丞の事績が記され、裏面には一〇〇名の門下生・発起人の名が連ねられている。酒造之丞が、幕末から明治初年の激動期に村の教育に尽くした功績を知ることができる。
 酒造之丞は、寿蔵碑が建立された翌々年の大正十二年に、七二歳で没した。

4-25 矢部酒造之丞
(矢部氏所蔵)