宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料

宮代町史 通史編

第四編 近現代

第一章 行政村の形成と発展

第一節 戸長と戸籍

明治五年二月十五日、太政官から地所永代売買禁止解除の布告が発せられ、同月二十四日には大蔵省から「地所売買譲渡ニ付地券渡方規則」が交付された。地券渡方規則によれば、売買および譲渡の所有権移転のときだけ地券を発行するが、近い将来すべての土地に地券を発行し、地券を土地所有者の証しであることを示すものにするとしている。このことから地券発行の目的は、土地の売買を認めると同時に、土地所有者の把握を行うためのものであったことが分かる。
 同年七月四日の大蔵省通達によって、すべての土地所有者に対して地券が発行されることとなり、埼玉県では同月二十七日に県下町村へ通達し、地券発行に伴う調査のための土地一筆限帳(とちいっぴつかぎりちょう)の作成を命じている。また、同年八月十九日には「地券御発行ニ付小前帳取調方心得」を各区に通達し、具体的な調査方法や一筆限小前帳の作成方法などを指示している。
 地券調査は町村を単位として行われ、宅地・田・畑・山林・原野一筆ごとに番号・反別(面積)・持主・地代金を記した一筆限帳とその地引絵図を作成した。町村ごとに作成された一筆限帳とその地引絵図は、県庁に提出され検査を受け、問題がなければ地券が発行されている。当初明治五年十月十五日が提出期限であったが、翌六年三月に入っても未提出の町村もあり、調査が終了したのは同年五月末のことであった。当町の村々でも一筆限帳や地引絵図が作成されており、現在確認されているものは次のとおりである。
 地券は、県が町村ごとに一括して作成し、地券証印税と引き換えに町村へ引き渡した。そのため町村では事前に地主から地券証印税を徴収し、地券引き渡し後には地主の請書を県へ提出しなければならなかった。地券の発行は町村ごとに行われており、最も早い町村では明治六年四月、多くの町村は同年十月から十一月であった。当町の村々への地券引き渡し状況を見ると次のとおりである。
 地券発行のための調査の最中である明治六年六月八日、課税について石高制を廃止して反別とする太政官布告が出され、同年七月二十七日には地租改正法が布告された。政府は地租改正によって、江戸時代の地域や領主によって異なる従来の租税制度の不均衡を是正し、公平画一なものとしようとした。しかし、地券調査発行事務が進められている中で布告されたものであったため、地券調査の地代金を基に課税されると負担増大するとして多くの町村が反対をし、大きな混乱を招いている。地券調査は土地所有者の把握、地租改正は租税の不均衡の是正と異なる目的のために実施したものであるが、その調査内容が酷似していたため、混乱を招いたものと思われる。

4-5 地券 (折原家文書)

 地租改正事業は、まず各村の土地の検査と一筆ごとの測量を行う地押丈量から開始された。地押丈量は、田・畑・宅地・山林・原野・池沼などすべての土地に地番を付し、地目・面積・所有者を確認した上で全体の地図を作成している。その後測量器を使用した丈量(じょうりょう)が行われ、完了すると県へ地図と地引帳(じびきちょう)を提出し、検査を受けている。埼玉県下の多くの町村は、明治八年四月から五月にかけて地押(じおし)丈量に着手している。この結果、多くの町村は反別が大きく増加し、県全体の耕地面積は一五万八〇〇〇町歩から一八万二〇〇〇町歩へと一五・七パーセントの増加となっている。特に田は四万六〇〇〇町歩から六万六〇〇〇町歩へと四二・五パーセントの大きな増加となっている。
 地押丈量に引き続き行われたのが地位等級調査であった。地位等級調査は地形の便宜により二〇町村から三〇町村を連合して組合を作り、その中で中央に位置する中等以上の模範村を選び、組合村の区戸長・地主などが立ち会い、模範村の比較的上等の土地を基準とし村内の一筆一筆を比較・検討して地位等級を決定し、その後に組合各村もこの基準によって地位等級を決定し、県の検査を受けるものであった。その後、組合間の地位等級の調整を行い、地位等級が決定されている。県はこの作業の完了期限を明治十年七月としていたが、同年九月になっても半分にも達していなかった。
 同年十一月には地価算定の基準となる米麦相場が決定され、地租改正はいよいよ大詰めを迎えたが、その内容の困難さから改正作業は県へ一任された。県では提出された地位等級の見直しと同時に地租の算出を行い、翌十一年十一月二十日新税施行伺いを提出し、地租改正事務局総裁大隈重信から許可を得て、山林・原野を除き地租改正を終了している。地租改正の結果、埼玉県の地価額合計は五六五九万円余りとなり、新地租額の合計は地価額の二・五パーセントの場合で田が二三パーセント減、畑・宅地が一四三・二パーセント増、合計が一・三パーセント増であり、三パーセントの場合で田が七・六パーセント減、畑・宅地が一九一・九パーセント増、合計が二一・六パーセントであった。新しい地租は明治十一年度から納めることとなったが、同九年分・十年分も増加分を追徴されることとなったため、多額の未納金を生むこととなった。その後山林・原野の地租改正が実施され、すべての地租改正事業が完了したのは同十三年のことであった。