宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料

宮代町史 通史編

第四編 近現代

第一章 行政村の形成と発展

第一節 戸長と戸籍

慶応三年(一八六七)十月、徳川慶喜の大政奉還、同年十二月の王政復古(おうせいふっこ)の大号令とともに維新政府が発足した。翌四年一月三日鳥羽伏見の戦を皮切りに戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まり、慶喜追討のため征東軍が関東へ下った。同年四月十一日には江戸城が開城され、関東も維新政府が支配するところとなった。その後、県内では彰義隊(しょうぎたい)の流れを汲む振武軍との間で交戦があったが、当町が戦禍にさらされるような争いは起こっていない。
 同年閏四月には、「政体書」が発布され、府藩県が設置されている。県域には、川越・忍(おし)(行田市)・岩槻の三藩と飛地を有した一三藩と一橋家の領地が藩として設置され、天領・旗本領地は武蔵知県事(けんちじ)支配となっている。当町の村々は、百間東村、百間中村、百間金谷原組、百間西原組、百間中島村、須賀村、国納村、和戸村および百間村、蓮谷村、東粂原村の一部が武蔵知県事支配に、百間村、蓮谷村、東粂原村の一部が佐倉藩に、西粂原村が一橋藩になっている。武蔵知県事の支配地は、明治二年(一八六九)正月二十七日に大宮県となり、同年九月二十九日に浦和県と改称している。一橋藩は、同年正月に小菅県となり、西粂原村は翌三年六月四日に小菅県(こすげけん)から埼玉県へ管轄替えとなっている。

4-1 佐倉藩第50区戸籍番号書上 (折原家文書)


4-2 佐倉藩印
(折原家文書)

 明治四年七月十四日に廃藩置県が布告され、藩は県と称するようになり、同年十一月十四日に埼玉県が成立した。当時の埼玉県の領域は、埼玉郡二七万八七〇〇石余り、足立郡一一万一一〇〇石余り、葛飾郡六万七〇九〇石余りで、現在の埼玉県領域の東半分であった。旧忍・岩槻・浦和・小菅などの諸県の支配地が移管され、旧藩県時代の錯綜が整理され、一円的な領域となり、当町の村々はすべて埼玉県に属している。最終的に旧各県から土地人民が引き渡され、埼玉県の支配下におかれたのは、明治五年三月十七日のことであった。このときに百間村と百間西原組、百間中村と百間金谷原組、百間中島村と蓮谷村、東粂原村と西粂原村・国納村、百間東村にそれぞれ事務を統合した。

4-3 町域における藩県の変遷

 当初、埼玉県庁は岩槻に置かれる予定であった。しかし岩槻は治政よろしからずとの事で旧浦和県の庁舎が仮用されることとなった。また、埼玉県が現在の管轄区域となるのは、同九年八月の熊谷県の一三郡の合併を待たなければならない。