宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料

宮代町史 通史編

第三編 近世

第七章 多少庵と農民の文化

第二節 寺子屋と四書五経

 近世の庶民教育の中心は寺子屋であった。寺子屋で勉強したことをさらに奥深く学ぶことは農民にとって機会を得ることは難しいことであったが、中には江戸などでさらに高等な学問に接する機会を持つものもいた。このような機会を得た人々が帰村した後や江戸幕府崩壊後に徳川氏の家臣が江戸近郊の村々に移り住んで塾や道場を開き、その知識や技術を農民たちに教授することは、江戸時代の後期にはかなり広範に行われていたようである。
 当町においても、西粂原村の矢部造酒之丞(やべみきのじょう)が、明治初年に幕府儒者であった和気天造という程朱学派の儒学者を招いて漢学塾を開いている。また、当町周辺では、久喜の代官早川八郎左衛門によって遷善館(せんぜんかん)が作られている。享和三年には亀田鵬斎(かめだぼうさい)が招かれ、儒学を講義しており、近隣の農民たちに大きな影響を与えている。鵬斎の弟子であった中島撫山(なかじまぶざん)は、もともと江戸両国に漢学塾を開いていたが、その後久喜新町に移り、久喜周辺の教育に大きな影響を与えた。本郷村(杉戸町)には慶応年間に文蔚堂という大作暢が師匠であった漢学塾が開かれていた。
 国学では、橘守部が幸手町に文化六年から文政十一年まで居住しており、国学を教授しており、心学では天明五年に大島有隣が大島村(杉戸町)に関口保宣や藤城吉右衛門とともに恭倹舎(きょうけんしゃ)を作って心学教化活動を行っていた。大島有隣(おおしまうりん)は、関東心学の最後の統率者とされ、各地で講義をしており、その足跡は中国地方にも及んでいる。
 武道では、清久村(久喜市)に戸賀崎熊太郎暉芳が神道無念流の道場を開き、その活動は明和年間から明治にも及び、門弟は二千人余であったという。惣新田(幸手市)には岡田総右衛門寄良が柳剛流の聖武館という道場を開き、嘉永五年から昭和十年まで活動が続いていた。佐左衛門(杉戸町)には松田源吾義教が柳剛流の道場を開き、文政年間から嘉永五年にかけて千五百人余の門弟を集めたという。

3-161 小児教訓と御手本
(岩崎家文書)