宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料

宮代町史 通史編

第三編 近世

第五章 江戸時代の宗教と信仰

第二節 村々の寺社の由来

百間東村の鎮守である。五社神社が位置する所は、古くは西光院という古刹があったところから「寺村」と称されていたが、元禄八年(一六九五)百間村から分村して百間東村となった。神社の創立は、養老年間(七一七~七二四)に行基がこの地に来たら五人の翁が出現し、「我々は仏法護持のため、さまざまな霊地に身を置いたが、中でも当地は天地に比べるもののない霊場である。我々は熊野三山の翁、近江日吉の翁、白山の厳老である。」と告げて姿を消した。行基はこのお告げに従ってこの地に西光院を建て、境内に寺の鎮守として祀ったのが始まりであると伝える。祭神は、天之忍穂耳命(あまのおしほみみのみこと)、天津日子根命(あまつひこねのみこと)、久須毘命(くすびのみこと)、天之穂日命(あまのほひのみこと)、活津日子根命(いくつひこねのみこと)の五柱を祭っている。その後百間領の惣領守となったが、建物は既に大破していたので、古来氏子の由緒などを糺(ただ)し、領内の人々の助力を得て勧進すべく、元禄十二年西光院住職と弟子で五社神社の別当職大蔵防秀応が、本殿改修の寄進を進め、完成した本殿が今日現存する建物である。本殿は、昭和四十九年(一九七四)に解体修理が行われた。社殿は、五間社流造りで蟇股(かえるまた)や虹梁(こうりょう)、三斗の組物などは文禄慶長期の形式をよく伝えており、埼玉県指定文化財となっている。拝殿、社殿は、赤土によって張床状に整備された上に建てられている。社殿内部は、一間四方の座が五座あり、各座に一柱の神様が鎮座しているほかに元禄十四年五月吉日銘の神鏡が祀られている。神鏡は、戸崎村(百間東村)鈴木源左衛門、西百間村(百間中村)嶋村新之丞、百間東村鈴木治左衛門、旗本永井氏の家臣と考えられる当所住青井七右衛門勝政、法印権大僧都宗〓が納めたものである。鏡の収納箱内には、神鏡のほかに祭神の本地仏である阿弥陀如来、不動明王、千手観音、釈迦如来、毘沙門天の像が奉安されている。本地仏と神鏡は、明治初年の神仏分離令により、神社から西光院の阿弥陀堂に移され、その後、現在の神社に奉安された。

3-125 五社神社本殿


3-126 五社神社鏡

 境内神社の一つである雷電社は、本殿の右裏に位置し、近世後期まで現存していた鰐口には、「奉鋳鰐口武州太田庄南方百間山光福寺之内雷電宮当住也 天文廿二年癸丑正月一日別当権少僧都祐信并神主」と刻まれており、創立の古さがうかがい知れる。
 境内には、百間東村の中野南枝(なかのなんし)の弟子達が文政三年に造立した句碑や、明治九年銘の藤原大権現、天保七年銘の大杉大明神、寛延二年銘の第六天などがある。拝殿には、文政九年銘の俳句額が奉納されている。額の序文を書いた連渓庵徐松は、江戸六庵の一つであった多少庵を百間村に移し、俳号を鬼吉と改称した。