宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料

宮代町史 通史編

第三編 近世

第四章 御成道と宮代の道

第四節 日光道中と宮代

近世町域の道は、粕壁・杉戸・幸手(かすかべ・すぎと・さって)など、日光道中の宿場町へと通じる道であった。
 日光道中は、ほぼ現在の国道四号線の道筋にあたる。粕壁~杉戸間は一里二一町、杉戸~幸手間は一里三五町の道法であった。粕壁宿の大橋(新町橋付近)で古利根川を渡り、途中堤根村(つつみねむら)(杉戸町)には立場が置かれ、茶屋が建っていた。現在は幸手の志手橋で日光御成道と合流しているが、近世にはそれよりかなり手前、上高野付近で西側に折れ、中郷用水を渡った先で合流していた。利根川を房川の渡しで渡り、栗橋には関所が置かれていた。栗橋関所は、公式には対岸の中田宿の地名をとって「房川渡中田関所」といわれていた。なお栗橋は、利根川改修以前は元栗橋(茨城県五霞町)にあたり、元和七年(一六二一)利根川改修の失敗により元栗橋が荒廃したことから、寛永元年(一六二四)ごろ現在の栗橋に宿と関所と渡しが移転した。将軍通行の際には舟橋が設けられたことは、前節で述べたとおりである。

3-101 日光道中と日光御成道の道程

 日光道中は文字通り江戸と日光を結ぶ街道で、江戸幕府の定めた五街道の一つであった。江戸日本橋から日光坊中まで三六里一一町余、二一宿(徳治郎宿を上中下とすれば二三宿)が置かれ宿継ぎにあたった。もっとも、日光が重要な目的地となるのは徳川家康死後、日光東照社成立後のことであり、近世初期には奥州方面への街道として整備された。その名残から、江戸~宇都宮間は奥州白河(おうしゅうしらかわ)(福島県白河市)へと向かう奥州道中と併用であった。奥州道中は文禄三年(一五九四)に千住大橋が架設されたころから整備が始まり、慶長期には宿駅に旅客や荷物を運ぶため馬を常備させる伝馬制が定まっていったといわれる。道筋は、初期には古利根川沿いの自然堤防上を通っていたようだが、次第に宿場間を直進するように道筋を切り替えていった。地域によっては、古街道の伝承が残るところもある。日光道中は、正保元年(一六四四)の日光鉢石宿設置、慶安元年(一六四八)日光杉並木(日光―今市間)植樹などにより、現在私たちがイメージする道筋となった。
 こうした街道の整備は、当初は軍事上の目的が大きかったと思われるが、徳川氏の治世が安泰のものとなると、次第に目的が変化していった。江戸と地方間の公用交通や通信が増加し、軍隊の移動は寛永一二年に制度化された参勤交代に伴う大名行列が主になっていった。日光道中には、奥州の諸大名が通行した。

3-102 正徳2年日光道中通行参勤大名一覧
(『新編埼玉県史』通史編三より転載)

 日光道中がほかの五街道と異なっていた点は、徳川家の聖地日光への参詣路であるということであった。将軍家の参詣は御成道筋を通行するものの、名代や一般武家の参詣路は日光道中であり、また、日光山経営に関係する交通も多かった。奥州筋の諸大名が参勤途中に日光へ参詣することもあった。
 なお、「日光道中」という呼称は、当初「日光海道」「日光道」などとされていたものの、正徳六年(一七一六)海沿いを通らないのに「海道」とするのはおかしいとして、公式には「日光道中」と定められた(「御触書寛保集成(おふれがきかんぽしゅうせい)」)。