宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料

宮代町史 通史編

第三編 近世

第四章 御成道と宮代の道

第二節 近世宮代の橋と舟運

河川舟運の主力は、川船という喫水(きっすい)が浅く船底が平たい舟であった。利根川・江戸川の水運で活躍した高瀬舟などは有名である。町域にも杉戸町境に大落古利根川が流れている。古利根川では舟運がなかったのだろうか。
 結論からいうと、幕府公認の河岸場は古利根川にはなかったので、公には年貢米の回漕はなかった。川沿いの杉戸、粕壁などの宿場でも、河岸問屋が栄えるということはなかった。これは、古利根川下流に松伏堰(まつぶしぜき)(松伏溜井、堰下流の村々に用水を供した)が設けられており、江戸と直結していなかったことによるようである。また、葛西用水(古利根川)川俣元圦(羽生(はにゅう)市)から利根川の水が通水し、かつ農業用の水が松伏で堰き止められる夏季には古利根川は水量が豊富だが、冬季には逆に減少するため、大きな舟の乗り入れに不便であったことも考えられる。運上金を納めることで幕府公認となっていた、江戸川沿いの河岸場の利害もあったことだろう。
 しかし、例えば粕壁宿(かすかべじゅく)の年貢米は、冬季には江戸川の金野井河岸(庄和町金野井(しょうわまちかなのい))に運び出すものの、六~八月は古利根川を利用して回漕しており(享保十八年「村鑑書上ヶ帳」粕壁宿文書)、全く古利根川で舟運が行われていなかったわけではなかった。同じ粕壁宿では年貢米の直接回漕は宝暦十三年(一七六三)には取りやめられるものの(「村明細帳」粕壁宿文書)、文政十三年(一八三〇)にも高瀬舟(たかせぶね)、似高瀬船(にたりたかせぶね)、瓢艜船(にたりひらたぶね)などの川船二一艘を所持しており(「公用鑑(こうようかがみ)」粕壁宿文書)、民間の荷物搬送は依然として行われていた。
 町域にも、近世後期には古利根川を利用して舟運に乗り出そうとする者がいた。先にみた天保四年の字川島橋橋脚拡張は、通船に不便なために行われた工事であった。このとき舟運事業に乗り出したのは、須賀村(すかむら)の浅右衛門(せんうえもん)で、平方村(越谷市)(ひらかたむら(こしがやし))の孫左衛門(まござえもん)から船を買い受けて、船乗り勘蔵(かんぞう)を雇った。
 こうした船は、幕府の川船役所へ登録され、船年貢(船の登録税)を支払った。登録された船には極印が打たれたり、船鑑札が交付されて、登録済みであることを証明した。しかし、脱税船である無極印船での営業があとを絶たなかったため、しばしば幕府は川船改めと称して、村方や河岸問屋所持の船舶調査を行った。
 文政十三年の調査では、百間西原村の川下ケ小船二艘と出水用心田船二艘の計四艘が、村持ちの船として書き上げられた(「覚」新井家文書)。川下ケ小船は古利根川で船荷を運ぶ船であったため、年貢長銭三〇〇文(一艘あたり一五〇文)が課せられた。この二艘は既に鑑札が配布済みであり、極印は打たれていなかった。長銭とは、当時民間で通用していた銭九六文を緡(ぜにさし)に通して銭一〇〇文とみなす九六銭ではなく、一〇〇文は一〇〇文として勘定して上納するということである。出水用心田舟は耕作船とみなされ無税であった。ただし、河川へ出て荷物を運搬するようであれば、川下ケ小船として課税対象となった。

3-88 大正期権現堂川の帆船 (故浜田得一氏撮影 幸手市教育委員会提供)

 なお、幕末期には、江戸の河岸問屋である幸手・粕壁問屋津久井屋利右衛門(つくいやりうえもん)の営業圏には、粕壁町や幸手などとともに、和戸河岸が含まれていた(「奥州積問屋積場所地銘覚書」逓信総合博物館蔵)。