宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料

宮代町史 通史編

第三編 近世

第四章 御成道と宮代の道

第二節 近世宮代の橋と舟運

嘉永四年(一八五一)四月、葛飾郡並塚村(ならびづかむら)(杉戸町)上才羽(さいば)地内にある幸手領北側用水の土橋が壊れたため、石橋が建立されることになった。このとき、並塚村の発起人太郎右衛門(たろううえもん)ほか四人は、百間、須賀、笠原沼新田など町域の村々に寄付を募った。これを受けて、百間中島村と須賀村では銭四〇〇文、蓮谷村、久米原村、百間四か村新田、百間金谷原組新田、百間東村新田、百間村ではそれぞれ銭三〇〇文ずつを寄進した(「石橋建立御寄附帳」新井家文書)。一見町域の村々には関係のない場所に架けられる橋へ、なぜ寄付金を差し出したのだろうか。
 実はこの橋は、江戸川沿いの川の湊、矢畑河岸(杉戸町鷲巣(わしのす))、新河岸(しんがし)(堀口河岸・杉戸町鷲巣)、宝珠花(ほうしゅばな)河岸(庄和町宝珠花)の三つの河岸へ通じる道に架けられていた橋であった。この三河岸は年貢米の津出湊(つだしみなと)であり、江戸川を利用して周辺村々の年貢を江戸に廻送していた。

3-86 矢畑河岸跡

 宝珠花河岸は、元禄三年(一六九〇)の河岸運賃調査で江戸迄の廻送運賃が定められた幕府公認の河岸場であった。また矢畑河岸と新河岸は、安永三年(一七七四)に公式に取り立てられた河岸場であった。舟運は、大量の荷物を運ぶには陸路よりも便利だったため、近世には河川沿いに数多くの河岸場が成立し、にぎわっていた。幕府は河岸問屋から運上金・冥加金(うんじょうきん・みょうがきん)という営業税を上納させることで、その統制を図った。公認された河岸というのはすなわち運上金を納めている河岸問屋が営業しているという意味である。
 さて、この石橋に寄付銭を出した村々は、矢畑河岸へ年貢米を運び、江戸へ回漕していたようである。なお、笠原沼新田(かさはらぬましんでん)のうち百間中島村新田(もんまなかじまむらしんでん)の天保十年「村明細帳控」(岩崎家文書)には、「一、御廻米津出し 矢畑河岸迄村方より道法三里」とある。年貢米の回漕のことを「津出し」といった。「津」とは湊の意味で、湊から出すということである。米俵には荷主や送り先を記した札が付けられた。
 百間中島村名主を勤めた岩崎家には、年貢米を領主である旗本池田氏役人へ積み送ったときの「送り状」や船主へ船賃を支払ったときの領収書、矢畑河岸の問屋からの書状などが伝わっている(岩崎家文書)。問屋はこの場合、河岸場から領主役所や幕府米蔵まで年貢米の回漕を請け負う商人のことである。特定の村や領主の年貢や荷を扱うことにより、経営を安定化させた。このほか西粂原、国納、和戸の御成道付の各村は、権現堂河岸(幸手市権現堂(さってしごんげんどう))から津出ししていた(『日光御成道宿村大概帳(にっこうおなりみちしゅくむらたいがいちょう)』)。また須賀村新田も、明和三年(一七六六)の幕府調査では権現堂河岸から津出していると答えている(戸田家文書)。

3-87 年貢米俵付札(岩崎家文書)