宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料

宮代町史 通史編

第三編 近世

第二章 辰新田の開発

第二節 元和五年須賀村の耕地と耕作者

検地帳の屋敷地についてもみてみよう。この場合の屋敷地は、建物や前庭だけではなく、屋敷付の畑や林、蔵など諸施設を含んだものと考えられる。最大の屋敷面積を持つのは、兵庫の二反二畝歩で、最小は彦兵衛の三畝一歩である。案内人のうち三人は一反以上の屋敷地を持っている。平均の屋敷面積は約九畝である。
 屋敷面積の階層構成表である3-36をみると、五畝~一反未満が二四人で中核をなし、一反~一反五畝のものも多い。耕地同様中層のものが構成の中心となっている。また、3-35に戻ると、田畑一町以上の持ち主はすべて屋敷地を持っていることが分かる。

3-36 元和5年須賀村名請人別階層構成(屋敷地面積、戸田家文書)

 屋敷の場所は、字名では「屋敷」三〇人(うち兵庫二筆)、「島屋敷」四人、「沼はた」一五人であった。戸田家の伝承や検地帳の記載順などを考え合わせると、元来の古い集落が「屋敷」、「屋敷」と同時期かその後の開発による集落が「島屋敷」、さらに江戸時代須賀村新田(辰新田(たつしんでん))の開発による集落が「沼はた」ではないかと推測される。「屋敷」には一反以上の広い屋敷持ちが多く、「沼はた」には、四~七畝程度の比較的小規模な屋敷持ちが多い。中世以来の農民が旧地に広い屋敷地を持ち、それらの家にいたものや新興の農民が新たな開発を担い、須賀村の居住地域を広げていったと仮定できるかも知れない。