宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料

宮代町史 通史編

第三編 近世

第二章 辰新田の開発

第一節 元和五年の須賀(すか)村検地

このときの検地帳は、須賀村の戸田家に伝わる古文書から発見された。戸田家の古文書の多くは、母屋にあった小ダンスに納められていた。長い歴史の中で、古文書が整理されてきたことを示すものであろう。
 戸田家は、家伝では須賀本村にある本家は戸田姓の武士の系譜を引くという。近世になって帰農・土着した土豪的な武士の家であったと推測される。元禄十五年(一七〇二)の質地証文(戸田家文書)では、「八左衛門島 戸田権兵衛」と戸田姓を名乗っている。同家は、近世以前もしくは初頭に八左衛門島に分家を出した。それが戸田家文書を伝えた家であり、前出の権兵衛を経て、近世中期には政右衛門(まさうえもん)を世襲名とし、須賀村の名主や組頭など村役人を勤めた。したがって、伝来する数々の古文書は、須賀村にかかわる内容のものが大半である。時期的には、村役人であった近世中期、享保ごろに作成されたものが多い。

3-31 須賀村小字図

 さて、この戸田家は、辰新田の開発とともに八左衛門島から辰新田へ移転して来たという。慶安元年(一六四八)の須賀村新田「田畑之帳」(宝永四年写・戸田家文書)には、権兵衛の屋敷地は四畝一〇歩と八畝三歩と記されている。さかのぼること約三〇年、元和五年の検地帳では、前者の名請人(土地一筆の登録者)は辰新田沼はた(端)の九右衛門(くえもん)であり、後者は島屋敷の源左衛門(げんざえもん)である。両名のうちいずれかが戸田権兵衛の祖と推測できるが、先に述べた八左衛門島=島から移転したという戸田家の伝承を踏まえると、源左衛門である可能性が高いであろう。下って宝永三年(一七〇六)の質地証文(戸田家文書)では、九右衛門(元和検地にみえる九右衛門と同家であろう)は、田畑と共に屋敷四畝一〇歩を戸田権兵衛へ質入れしており、慶安の「田畑之帳」にある権兵衛の屋敷四畝一〇歩は、もともと九右衛門家の屋敷であったことが分かる。つまり、戸田家文書を伝えた戸田家は、元和の検地帳で「島(八左衛門島)」に屋敷をもつ源左衛門家であり、伝承よりやや下って権兵衛のときに、九右衛門の「沼はた」の屋敷をも持つようになったということである。