宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料

宮代町史 通史編

第三編 近世

第二章 辰新田の開発

第一節 元和五年の須賀(すか)村検地

須賀村の検地では、恐らくベテランの牛田杢右衛門か丸山三郎右衛門が奉行(責任者・総監督者)で、加藤久太郎は帳付けなどの役目であったと思われる。当時、検地のことを「縄打(なわうち)」とか「竿入(さおいれ)」などとも言った。田畑一筆(一枚)を方形に見立て、竹の竿(梵天竹など)を立てて目安とし、縦横の間数(長さ)を縄で測った。縄には間竿(けんざお)という物差しを基にして目盛りがつけられていた。
 十一月十六日は、字東出口の四郎兵衛が名義を持つ畑から検地が始まった。この畑は、掛け合わせて一反五歩の反別(面積)であった。一反は三百歩、一歩は一坪であるから、三〇五坪の広さである。地味や日当たりから、須賀村にあった畑の中でも高い収穫が見込まれるので、上畑と位づけされた。後の資料では、須賀村の上畑は一反当たり五合摺りの玄米八斗の収穫量で換算されているから、四郎兵衛の上畑一反五歩の収穫(分米)は一石六斗弱、籾にして三石二斗ほどということになる。この結果は、野帳に記録された。その清書が検地帳である。このときの検地帳の写しが、辰新田の戸田家に伝わっており、今の一筆は
 東出口
  上畑壱反五歩     四郎兵衛
というように記されている。耕地の縦・横の長さと一筆ごとの米の収穫量・石高である分米は記されていない。それが、原本に記載がなかったのか、写しのためかは分からない。野帳も残っていないが、江戸時代の一般的な検地方法を基に前述のように推測した。なお、江戸時代初期の検地の様相が検地帳以外からもうかがえる例として、文禄四年(一五九五)十月に行われた伊奈忠次による武蔵国榛沢郡荒川村(はんざわぐんあらかわむら)(花園町)の検地がある。
 十一月十六日、勘解由ほか三人が案内して字東出口から行われたのを皮切りに、十八日、二十二日の二日を除く同月二十四日までの九日間で検地は行われた。勘解由・内匠・四郎兵衛・四郎左衛門と九右衛門の五人が単独または複数で案内として出ていた。検地の日程・案内人・施行地は、3-30の通りである。

3-30 元和5年騎東郡須賀村の検地日程 (戸田家文書)

 案内人は、勘解由・内匠・四郎兵衛・四郎右衛門の四人の場合が、十一月十六日、十九日、二十日、二十一日、二十三日の五回と一番多い。勘解由一人の場合は、辰新田を検地した十七日と二十三日の二回みられる。このことから、勘解由は当時同村の最有力の農民であり、特に辰新田の開発に深くかかわった農民であると考えられよう。二十四日はほかの四人と共に屋敷検地の案内人を勤めた。最終日には村の有力者が総出で案内したことになる。
 検地の地目は、前半が畑方、後半が田方中心で、最終日が屋敷の検地であった。十六日の初日は本田の東出口の検地に始まり、その後本諏訪(ほんすわ)、壱ノ割(いちのわり)など辰新田へと移っている。翌十七日は辰新田の畑の検地で、十八日に休んだ後十九日・二十日は本田の畑方、二十一日は本田の田方、二十二日は辰新田の田方と本田の畑方であった。
 一日あたりの検地面積は、どうであろうか。勘解由ら四人が案内した検地初日である十六日が、畑三二町六反四畝二歩、筆数二二五筆と一番広く、次いで最終日前日二十三日の二九町九反一畝二四歩の順となっている。ただし、筆数でいえば二十三日田畑二四三筆、十六日二二五筆となり、二十三日の方が多い。十八日の休日後十九日には畑二八町余を検地しているので、十六日から十九日の間はいずれも二〇~三〇町の面積を検地したことになり、検地役人たちの仕事量のウェイトは、前半の方が高かったといえるだろう。中日に当たる二十~二十二日は、検地面積はそれぞれ一〇町に満たず、二十二日には休んでいる。あるいは、天候が関係していたのかもしれない。
 十一月二十四日、無事検地を終え牛田杢右衛門ら検地役人は須賀村を出立し、須賀村の有力者たちは彼らを見送ったと思われる。出発に当たって検地役人は、滞在費の支払手形などを村方に交付したことだろう。それにしても、自分たちがかかわった今回の検地で打ち出された村高が、その後明治四年(一八七一)の廃藩置県まで、二六〇年近くも農民の土地保有、年貢や人足などの負担、武士の領地知行高など、江戸時代の社会の基礎となる重要な基準となろうとは、誰一人として露とも思わなかったに違いない。