宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料

宮代町史 通史編

第三編 近世

第二章 辰新田の開発

第一節 元和五年の須賀(すか)村検地

慶長二十年(元和元年・一六一五)に豊臣家が滅び、徳川幕府による元和偃武(げんなえんぶ)の世が始まってまだ間もない元和五年のこの日、須賀村の有力者であった勘解由(かげゆ)、内匠(たくみ)、四郎兵衛(しろべえ)、四郎左衛門(しろうざえもん)の四人は、緊張した面持ちで牛田杢右衛門(うしだもくうえもん)、丸山三郎右衛門(まるやまさぶろううえもん)、加藤久太郎(かとうひさたろう)ら三人の侍とその付き人たちを待っていたに違いない。あるいは、前夜に既に侍一行は須賀村に到着していて、村の誰かの家に宿泊し饗応(きょうおう)を受けていたかもしれない。三人の侍は恐らく馬に乗っており、付き人たちは徒歩で侍に従い、筆・墨・帳面といった筆記用具や、縄や竿(さお)、梵天竹(ぼんてんだけ)といった測量用具を持っていたことだろう。一行の総勢は五~一〇人前後であったと思われる。この侍たちは、関東郡代伊奈半十郎忠治(いなはんじゅうろうただはる)の家来で、検地役人として土地の測量調査(検地)のため派遣された者たちであった。
 三人のうち牛田杢右衛門は、関東郡代伊奈氏初代であり、地方(じかた)巧者として世に名高い備前守忠次(びぜんのかみただつぐ)のときからの家来であった。慶長十二年八月二日から十四日にかけて行われた、忠次による武蔵国原之郡(のち播羅郡)上奈良郷(熊谷市)検地の検地役人中にその名が見える。以後、同十四年九月二十一日・二十三・二十四日に比企郡小美濃郷(川島町)、忠次没後も伊奈氏の家来として同十七年三月十三日に騎西郡(きさいぐん)尾ヶ崎郷(岩槻市)、同二十年閏(うるう)六月二十二日に大里郡沼黒村(ぬまぐろむら)(大里村)などの検地役人を務めたベテランの農政担当者であった。また、丸山三郎右衛門は、同二十年六月二十四日、伊奈忠治による大里郡美輪村(大里村)検地の役人を務めている。加藤久太郎については、慶長期の検地には名が見えない。
 さて、検地役人と須賀村案内人の会話の中では、天正十八年(一五九〇)後北条氏が滅んで、それまでこの土地と縁もゆかりもなかった中部地方の大名徳川家康が領主となった驚きや戸惑い、また、先の慶長六年、付近の村々と共に、これまた遠く奥州の伊達という大名の鷹場に指定されたことなどが語り合われていただろう。もちろん、今回の検地と台帳(検地帳)作成にかかわる段取り、やり取りが話の中心だったと思われる。例えば、須賀村や百間村(もんまむら)などこの辺りの村々や土地の様子について、調査の日程についてなどである。時には調査に温情を加えたり、生産条件の悪い田畑は見逃してくれるように頼んだかも知れない。
 案内人をはじめ須賀村の農民たちは、わざわざ役人が派遣され実施される「検地」という行為自体に当惑していたと考えられる。というのは、それまでの時代、岩付太田氏や後北条氏のころには、土地の面積や作人、収穫量などの明細を土豪たちが申告する「指出(さしだし)」と呼ばれる検地だったからである。もっとも、天正十年から始まった豊臣秀吉による太閤検地や、徳川氏が関東入国後行った天正検地・慶長検地の噂は、きっと耳にしていたことだろう。ことに「慶長の苛法」と称された伊奈忠次による常陸国の検地や、「辰之総検」と呼ばれた慶長九年の検地での過酷な打ち出し、厳しく詳細な検地の噂は、彼らをさぞかし緊張させたことであろう。

3-29 金剛寺付近の須賀村