宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料

宮代町史 通史編

第一編 原始・古代

第八章 律令国家の成立と展開

第二節 川に生かされた日々

 武蔵国と言えば、高句麗の渡来人が集住して霊亀二年(七一六)に設置(建郡)された高麗郡や、同じく新羅国の渡来人が集住して建郡された新羅郡が知られているが、当時の宮代町が所属していた埼玉郡もその例外ではなく、多くの渡来人が移住していたようである。既に古墳時代には、町内・山崎山遺跡から四世紀後半・埼玉県最古の鍛冶工房跡が見つかっているが、こうした技術は、弥生時代に中国・朝鮮半島から伝わったものである。また、行田市のさきたま古墳群・将軍山古墳(六世紀後半)からは、馬の顔に装着する冑(かぶと)「馬胄」が出土しており、国内では他に一例があるのみである。朝鮮半島では韓国・釜山の古墳等から出土しており、北朝鮮でもこれを描いた高句麗時代の古墳壁画が発見されている。また馬の鞍に旗竿を立てるための鉄製金具も共伴しており、これも高句麗時代の古墳壁画に認められている。なお、実際にこの旗竿を立てた馬の埴輪が、朝鮮半島の衣服を着た人物埴輪等と一緒に行田市酒巻一四号古墳(六世紀後半)から出土している。埼玉郡における渡来人の居住を確実に示すのは、「続日本紀」天平五年(七三三)六月の「武蔵国埼玉郡新羅人徳師ら男女五三人を、請に依りて金の姓とす」という記事である。これによれば、当時既に新羅国の渡来人が暮らしていたことになる。このような渡来人の中には、かなりの数の「僧尼」が含まれていたとされるが、中でも比叡山延暦寺で最澄に次いで第二代天台座主となった円澄は、鎌倉時代の僧・虎関師練が著した仏教史書『元亨釈書』によれば「姓は壬生氏、武州埼玉郡の人」であった。従って彼は、埼玉郡内に居住していた渡来系氏族・壬生吉志氏(推古朝に武蔵国男衾郡に入植した壬生吉志氏の同族)の出身ではないかとみられ(森田悌「花寺と壬生吉志」『渡来人と仏教信仰』雄山閣、一九九四年)、今後の研究の進展がまたれるところである。現在の宮代町域を含む埼玉郡内の各地に、国際化の波は意外に早く押し寄せていたのである。

1-70 筒袖の衣装を着た男子埴輪
(行田市酒巻14号古墳出土 行田市教育委員会所蔵)