宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料

宮代町史 通史編

第一編 原始・古代

第四章 水辺に暮らす

第二節 ムラの移動

既に第二章で触れたとおり、縄文時代のムラは約八〇〇〇年前の前原遺跡が町内では最も古く、現在までに七軒の住居跡が発見されている。しかし、その七軒がそのまま当時のムラの景観を形作っていたわけではない。例えば第一号住居跡と第三号住居跡は、家の向きがずれており、しかも上屋が重なり合うほどの近接関係にあることから、とても同時に存在していたとは考えられない。この事例から、少なくともこの前原ムラは二時期以上にわたって形成されており、同時期に建っていた住居はおそらく三~四軒ではなかったかと推測されるのである。これらの三~四軒は、中央広場を挟むかのように、二軒ほどが対峙(たいじ)して建て替えられていったようであり、その結果として七軒の住居跡が当地に残されたのであった(第一号から第四号までの一群と、第五号・第六号・第九号の一群が向かい合って建てられていた)。その後、前原ムラがなぜ突然放棄されるに至ったのかについてはよくわからないが、こうした住居の配置関係は、その後の縄文時代を通して形成され続けた環状集落の一つの原点をみる思いがする。この時期(草創期・早期)の遺跡は町内で二〇か所確認されている。

1-36 前原遺跡住居配置図(撚糸文期)

 その後の町内での遺跡数の推移を列記すると、前期が一七か所、中期が二四か所、後期が二九か所となる。この数字だけを見れば、町内の縄文遺跡は時代と共に順調に増加の一途をたどってきたと言うことができる。遺跡の数がそのままムラの数であると仮定すれば、町内は次第に賑(にぎ)やかになってきたということを意味する。
 ここで人口の変遷を少し見ておこう。小山(修三)方式といわれる人口推定法によると、縄文人一人当たりの居住面積を約一坪(三・三平方メートル)、住居跡の平均面積を一二平方メートル弱、一遺跡に同時存在する住居跡の数を七軒強と仮定することで、一遺跡当たり二四人という数値が導きだされる。この数値は、前期から晩期までは統計的に差がないのでそのまま活かそう。しかし、草創期・早期は住居跡数が少なく、かつ遺跡への定着度が低いことから、一遺跡当たりの人口は八・五人と算出される。つまり、宮代の縄文時代の人口は、草創期・早期一七〇人、前期四〇八人、中期五七六人、後期六九六人、晩期〇人という推移を示すのである。

1-37 宮代町縄文時代の人口変遷(( )内は遺跡数)

 もちろん、こうした数値はあくまでも現時点での仮の数字に過ぎない。しかし、数値は具体的であるだけに、後期の六九六人から、一気に宮代は無人の荒野になってしまうという突然の凋落(ちょうらく)現象を示し、非常に衝撃的である。将来的な遺跡の発見を割り引いて考えたとしても、その断絶は大きい。しかも確認されている後期の遺跡とは、いずれも中葉までが主で後葉は一遺跡のみである。という点をも考慮すればなおさらであろう。以後の晩期から弥生時代にかけての宮代には一体何が起こっていたのだろうか。
 約一万二〇〇〇年前に始まる地球の温暖化は海水面の上昇を招き、関東平野の奥深くまで海水の進入を許した。この現象は縄文海進といわれ、今の中川低地はそのほとんどが海と化していたといわれる。当時、海水に洗われていたと推測される台地の上には、当時の人たちの食料残滓(ざんし)の捨て場でもある貝塚が点々と存在している。もちろん宮代にも潮の香りが満ちていたはずである。この海辺という環境は、言うまでもなく、貝に象徴される海の資源を手に入れやすいということを意味する。前期の繁栄は、海抜きには語れない。

1-39 西光院貝塚出土の貝

 また一方で、気候の温暖化は宮代周辺にも落葉広葉樹の森を進出させていた。落葉広葉樹の森は、クリやクルミ、ドングリなどの木の実が豊かであり、そこにはまた多くの虫や鳥、小動物たちが群れ集う場所でもある。縄文人がこうした山の幸を見逃すわけがない。宮代に暮らした縄文人たちは、こうした海の幸、山の幸を上手に利用していたことと思われる。
 しかし、再び気候の冷涼化か始まり、海は前期を境に汀線(ていせん)の後退が始まる。海退である。海の幸が次第に遠のいていったのである。いきおい彼らは生活のウエイトを森へと移行せざるを得なくなった。それを証明するかのように、彼らの道具箱には打製石斧、石皿、磨石、凹石(くぼみいし)といった植物質食料に関係の深い道具類が次第に増えていった。海から遠い地域ほどこうした傾向は著しい。中期の人々は徹底して落葉広葉樹の森に適応することで、つまり植物質食料への比重を高めることで、当面の危機を乗り切ろうとしたのである。もちろん中期まではこうした方策で矛盾は生じなかった。宮代では、引き続き人口増を維持しているのである。さらに県内の他地域や、広く関東・中部山岳地方の遺跡数の推移を見ると、中期が他時期を圧倒的に凌駕(りょうが)していることに驚かされる。しかも大規模集落が多いのも中期の特徴とされているのである。縄文中期人たちの落葉広葉樹の森への適応は見事というほかあるまい。
 しかし、気候の冷涼化は海退だけではなく、同時に落葉広葉樹林帯の南下現象をも招いていた。森の生産力は次第に低下していったとみなければならない。そうした状況の中で中期の人口増は達成されていたのである。中期終末ごろにはさらに気候の悪化があったといわれるが、この時期、とりわけ関東西部から中部山岳地方にかけての遺跡数は極端に減少している。とうとう森の生産力の下降曲線と人口の増加曲線との交差が現出してしまったのである。過剰と思われるほどの植物質食料への依存が命取りとなったのであろう。
 県内における遺跡数も、一部の地域を除いて、後期以降急激に減少している。ここに言う、一部の地域とは後期の貝塚を残す地域を指し、宮代はその北限に当たる。ここは県内の他地域よりも、当時海が近かったせいか、森への依存度を低く押さえることができ、さらなる人口増を継続することができた。しかし、宮代の周辺でも、とうとう後期前葉には豊かであった海と森の両者を一度に失ってしまったのである。人々の動揺は激しかったことであろう。宮代周辺の後期の人々は、生活スタイルの根本からの変革を迫られたのであった。
 中川流域は、関東造盆地運動の影響を強く受け続けた地域でもあり、海の後退は周囲に複雑な地形の水辺を生んだ。流域の縄文人はそこに注目を寄せる。つまり、水辺の復権を目論むことで危機を乗り切ろうとしたのである。そのためにムラを従来の台地先端部から、水辺利用に便利な谷頭部へと移すことにした。久喜市御陣山(ごじんやま)遺跡周辺、白岡町清左衛門(せいざえもん)遺跡周辺、岩槻市裏慈恩寺(うらじおんじ)遺跡、同田端前(たばたまえ)遺跡、同真福寺(しんぷくじ)遺跡周辺などの後・晩期の遺跡はほとんど例外なく、開析された谷の最奥を中心に展開されていることに、改めて注目すべきであろう。
 さらに、中期後半以降になると、大宮台地周辺からは低湿地あるいは穏やかな水域環境の積極的な活用を示す丸木舟が、確実なところで四遺跡一九点以上、出土伝承や断片、部材としての再利用、櫂(かい)の出土をも加味すると相当数検出されている。ムラの舟着場には幾つもの丸木舟が舫(もや)われており、中川低地にできた広大な池や沼沢地(しょうたくち)は漁場として、またムラ間を連絡する航行用の水路として大いに開拓されたに違いない。後・晩期の遺跡からしばしば検出される土器片錘(どきへんすい)や土錘(どすい)・石錘(せきすい)、軽石製の浮子(うき)は網漁労等の活発化をうかがわせよう。
1 称名寺式土器(金原遺跡)2 称名寺式土器(金原遺跡)3 称名寺式土器(金原遺跡)
4 称名寺式土器(前原遺跡)5 堀之内式土器(藤曽根遺跡)6 堀之内式土器(藤曽根遺跡)
7 堀之内式土器(金原遺跡)8 加曾利B式土器
(山崎山遺跡)
1-38 縄文時期後期の土器

 宮代周辺で見られたムラの移動は、中期までの「豊かな森」を主にした依存生活の破綻(はたん)と、新たな「水辺」環境への積極的な取り組みを開始した後・晩期社会への移行を象徴的に示す。
 それにしても、後期後葉以降、宮代の人々はどこへ行ってしまったのだろうか。久喜か、白岡か、岩槻か、あるいは海を追って南下していったのだろうか。

1-40 遺跡の立地図
中・後期の遺跡立地と丸木船の出土地