宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料

宮代町史 通史編

第一編 原始・古代

第三章 潮騒が聞こえる

第一節 海を臨む台地

宮代町を代表する縄文時代前期の遺跡に地蔵院遺跡がある。地蔵院遺跡は、東武動物公園駅から南東へ約二・五キロ、大谷耕地の水田を見下ろす台地上に位置する。付近には、西原自然の森が広がり、百間小学校、西原公民館などがあり、標高九メートル余りの安定した台地上に形成された集落である。これまでに六回の発掘調査が行われ、六軒の縄文時代前期の住居跡が検出されている。集落の形成された時期は、およそ五〇〇〇年前であり、道仏北遺跡に後続する諸磯(もろいそ)a式から諸磯b式土器が使われていたころである。古利根川からの距離は二キロほどであるが、貝塚の形成された形跡は今のところ見当たらない。

1-23 地蔵院遺跡配置図


1-24 地蔵院遺跡(昭和63年度)5号住居跡の出土土器


1-25 地蔵院遺跡(昭和63年度)の5号住居跡

 縄文時代前期の住居跡は、方形の平面形態をとるものが一般的である。前期前半のものは長方形ないし長台形のものが多い傾向にあるが、地蔵院遺跡の造られた前期後半には、正方形に近付き、長方形でも長軸・短軸比の小さいものが増加する傾向にある。柱の数も前期前半の六本柱から四本柱主流へと変わる。炉は住居の中央よりやや奥へ寄った位置に作られることが多いが、住居の建て替えなどに伴って、移設された痕跡がしばしば認められる。地蔵院遺跡でも住居の建て替えは頻繁(ひんぱん)に行われていたようで、複数の炉と移設された柱の痕跡を持つ住居跡がいくつか見られる。地蔵院遺跡から見つかった縄文時代前期の集落は、その全体を発掘調査したわけではないため、集落全体の規模や住居の配置などについては明らかではないが、おそらく一〇~一五軒程度の、当時としてはごく平均的な規模の集落といえよう。
 地蔵院遺跡の発掘調査の大きな成果の一つに、霞ヶ浦周辺を中心とする関東地方東部に広く分布していた浮島(うきしま)式土器と、関東地方西部から信州方面に分布の中心を持つ諸磯式土器とが、同じ住居跡内で高い率で共存していたことを確認できたことが挙げられる。浮島式土器は、胴部に貝殻による模様をつけることを特徴とする海辺の土器、諸磯式土器は、篠竹を裂いたり、削ったりした、竹管による線描き模様を特徴とする内陸の土器と言い換えることができる。この両者が住居跡の中で同時に使われていたとすれば、別々の土器を作る集団が混在していたか、頻繁に交渉を持っていたことの証とみることができるのである。
 土器は、同じ時期に作られたものであっても、地域によってさまざまに異なった模様で飾られる。これらの模様は、親から子へ、子から孫へと継承されながら少しずつ変化していく。考古学者は、同時代に作られた、地域によって異なる模様の土器をグルーピンクして土器型式(けいしき)と称し、地域性を読み解く空間軸としている。また、同じ土器型式内で継承されるうちに変わっていく模様を時系列に整理し、編年と称して時間の推移を読み解く時間軸とし、年表のない縄文時代の文化や時間を測るものさしとして土器を利用している。地蔵院遺跡で確認されたデータから、諸磯式のどの段階の土器と浮島式のどの段階の土器とが同時存在する土器なのかが分かる。また、両者の分布圏がどのようなものであったかを知る大きな手がかりになるのである。
1 黒浜式土器(道仏北遺跡)2 諸磯式土器(前原遺跡)3 浮島式土器(前原遺跡)
4 勝坂式土器(金原遺跡)5 加曾利E式土器
(地蔵院遺跡)
6 加曾利E式土器(金原遺跡)
7 加曾利E式土器(金原遺跡)8 曾利式土器(地蔵院遺跡)
1-26 縄文時代前期・中期の土器

 諸磯式土器と浮島式土器とが共伴する好例としては、白岡町の茶屋遺跡やタタラ山遺跡、蓮田市の黒浜貝塚群、岩槻市の掛(かけ)貝塚などが知られている。これに地蔵院遺跡の例が加わったことで、宮代町を含む埼玉県東部地域は、諸磯式文化圏の東縁部にあって、関東地方東部の浮島式文化圏の人々とかなり頻繁に接触し、交流していた様子が浮かび上かってきたといえよう。
 縄文時代前期の人々が去った後、地蔵院遺跡は、しばらく縄文人の生活の場として利用されない時期が続くが、縄文時代中期後半に至りもう一度集落が形成されている。これまでの発掘調査によって、やはり六軒の住居跡が確認されている。
 一般に、縄文時代中期、特にその後半の加曾利(かそり)E式土器が使われたころになると、遺跡の数が急増する傾向が見られる。近隣の白岡町や蓮田市、岩槻市などでもこの傾向は顕著である。ところが、宮代町では、この時期を迎えても遺跡の数が増加する傾向は一向にみられない。宮代町域で遺跡数が飛躍的に増えるのは、縄文時代後期の到来を待たねばならない。なぜこのような傾向を示すのか明らかではないが、何らかの環境的要因で、宮代の台地が集落を形成するのに不都合な場所となっていたのか、大きな集落を維持するだけの生産力がなかったためと思われる。そのような状況の中で、地蔵院遺跡は、縄文時代中期の人々が集落を形成する条件を満たした数少ない場所であった。
 当時の集落は、大規模なものになると数一〇~一〇〇軒を超える住居跡が見つかる例も決して珍しくない。そうした集落は、台地の縁辺に円形又は馬蹄形(ばていけい)に住居跡が並んで検出される事例が多く見受けられる。地蔵院遺跡の中期の集落は、前期の集落同様その全容を把握するには情報量が不足しているため、今後の調査に結論をゆだねたいと思うが、住居跡の密度などから類推するとそれほど大規模な集落ではないように思われる。
 中期に集落を構えた人々も、前期の人々と同じように、周辺地域の人々と交流を持っていたことが分かる。地蔵院遺跡に暮らした人々が使っていた土器は、関東地方一円に広く分布する加曾利E式土器と呼ばれるものだが、僅かながら、甲信地方に分布の中心を持つ曾利(そり)式土器が出土している。この中には、もとの器形をうかがうことのできる大きな甕形土器も含まれている。
 縄文時代の人々が、他地域の人々と交流を持つ形態の一例として、物々交換という交易が存在したと推測されている。互いの地域の特産物や余剰品(よじょうひん)を交換し合い、それぞれの地域で入手できないものを獲得する方法である。例えば、鏃(やじり)やナイフのような鋭利な刃物の材料となる黒曜石や、美しい色をした石のペンダントやイヤリングなどが挙げられる。黒曜石は、火山噴出物に含まれる天然のガラスであるが、宮代から最も近い産地は、現在の長野県和田峠付近といわれている。地蔵院の集落に住んだ人々も、ムラの特産物を携えて、遠く信州まで交易の旅に出たのかもしれない。そのとき見た信州の土器をまねて作ったか、何かの容器として持ちかえった曾利式土器が大切に扱われ、地蔵院のムラに残されたのかも知れない。