宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料

宮代町史 通史編

第一編 原始・古代

第二章 はじめてのムラ

第二節 前原ムラの景観

今から約八〇〇〇年前、標高九メートルほどの高台に、町内で初めての本格的な竪穴(たてあな)住居を持つムラが形成された。前原遺跡である。
 前原遺跡では、昭和五十五年に行われた発掘調査で九軒の竪穴住居跡が発掘されたが、そのうち七軒が八〇〇〇年前の住居跡であった。これらの住居跡は、基本的に調査区の西部の台地を南北に走る窪地を境として東側に四軒、西側に三軒発掘された。住居跡はおおむね台地の先端部付近に造られている。形態は、いずれもほぼ長方形を基本としており、台形や楕円形をしたものもある。いずれも掘り込みは浅く、それぞれ壁に沿って柱の穴が並んでいる。炉を持つものと持たないものがあるが、七軒のうち二軒が炉を持っており、他の一軒にも床に熱を受けた跡が確認されている。大きさは、おおむね一辺が三メートルから四メートルほどの小型の住居である。掘り込みは、確認面から見て一〇センチから二〇センチと浅い。一号住居跡は約二×三メートルと最も小型の住居跡であったが、北側に炉を持つ。五号住居跡は約三×四メートルを測り、壁に沿って柱穴が巡るこの時期の特徴的な住居跡である。石鏃(せきぞく)や磨石(すりいし)、礫(れき)や剥片(はくへん)類が多く出土した。六号住居跡は、住居の半分が撹乱を受けていたが、しっかりした炉を持つ。竪穴の掘り込みは最も深く、炉の周辺には五九点もの多くの焼礫(しょうれき)が残されていた。
 調査区の西部にあたる南北にはしる窪地の西側には住居跡が三軒集中しているが、付近には同時期と考えられる集石、炉穴、土壙(どこう)等の遺構の集中がみられる。また、窪地の東側は二軒が近くにあり、他の二軒は全く離れている。炉穴もやや離れたところにある。

1-15 前原遺跡全測図


1-16 前原遺跡第5・6号住居跡

 なお、この時代に用いられていた土器は撚糸文(よりいともん)土器と呼ばれ、器面には縄を巻きつけた棒を縦に転がすことでできる文様が特徴的に見られる。口縁部はやや厚く、砲弾形をした形の土器である。比較的小型のものが多い。前原遺跡から出土した土器は、器形が推定できるもので口縁の直径が二〇センチから三〇センチ、高さは二五センチから三〇センチほどであった。口縁の直径が一五センチ前後の非常に小型のものもある。ほとんどの土器は、底が尖っているが、平らな底の土器も一点確認されている。また、文様を施さないいわゆる無文の土器が多いのもこの時期の特徴である。
 石器は、主に加工具としての磨製石斧(ませいせきふ)や打製石斧(だせいせきふ)、砥石(といし)、調理用具としての石皿(いしざら)、磨石・凹石(すりいし・くぼみいし)、スタンプ形石器、焼礫(やけれき)、狩猟具(しゅりょうぐ)としての石鏃(せきぞく)、その他、錘(おもり)等がある。その内訳は、石鏃九八点、削器(さっき)一二点、磨製石斧一二八点、打製石斧一〇一点、スタンプ型石器二一四点、磨石・凹石四五七点、石皿(片)九八二点などであるが、とりわけ磨製石斧やスタンプ形石器の顕著な存在は特徴的である。また、焼けた礫(石)九一六三点、焼けていない礫(石)九二八九点の計一万九〇〇〇点もの礫の検出も、もともと石の乏しい当地にあっては注目せざるを得ない。おそらく遠方からもたらされたものであろうが、このことは一体何を物語っているのだろうか。例えば、スタンプ形石器の石材の分析データによれば、遠く群馬県利根川上・中流域から運ばれてきた可能性の高いことが指摘されており、当時の交易の一端が示唆されている。

1-17 前原遺跡出土スタンプ形石器

 なお、焼けた礫は、集石遺構(しゅうせきいこう)のように幾つかのまとまりをもった分布は認められないが、窪地東側にある三軒の住居跡を取り囲むように帯状に広く分布していた。また、石斧、礫器(れっき)、石鏃の分布や、チャートを石材とする薄片類の集中分布、すなわち石器製作の場も認められる。こうしたことから、住居跡を中心として道具の生産や、調理の場などが考えられ、ムラ人たちの暮らしぶりを垣間(かいま)見ることが出来る。さらに、前原遺跡の人々の精神文化を伝える三点の石偶(せきぐう)の発見も注目されよう。
 また、縄文時代にはこうした土器や石器のほかにも木や骨、角などを素材とした道具があったことは良く知られている。森に囲まれた縄文集落では樹木の加工技術の発達は目覚しく、樹木を素材とした容器や弓などさまざまな道具が作られている。住居建築においても富山県桜町遺跡では縄文時代中期にさかのぼる貫孔(ぬきあな)工法の存在を実証する建築部材の発見があり注目を浴びた。その他では、縄文時代の高度な漆塗り技術の存在を忘れるわけにはいかない。前原遺跡からは、土器や石器、土製品、石製品の類しか検出されなかったが、樹木を加工した道具「木器」もおそらく多く駆使されていたに違いない。
 このように町内には、今から約八〇〇〇年前、南に開けた高台の一角を切り開いたムラがあり、石器や土器などのさまざまな道具を駆使した人々の暮らしがあった。また彼らは、私たちの予想をはるかに越えて、さまざまな文物や情報を得ていたことも判明している。人々の暮らしがあれば、そこには必ずネットワークが介在しているのである。