宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料

宮代町史 通史編

第一編 原始・古代

時代概観

 石の道具が暮らしを支えていた時代を石器時代という。この時代はさらに土器を持つか持たないかで大きく二分される。日本の歴史では、前者を旧石器時代と呼び、縄文土器の使用が開始される以前の時代を総称する。絶対年代で示せば、今から約一万三〇〇〇年前よりもさらに古い時代のことを指す。しかし、その「さらに古い時代」は発掘調査の進展に伴って日々刻々と書き換えられる宿命にある。例えば、旧石器時代の存在が明確に確認されたのは群馬県笠懸村岩宿(かさかけむらいわじゅく)遺跡の発見によってであり、僅(わず)か半世紀ほど前のことにすぎない。それが今や、埼玉の歴史でさえ既に三万年以上はさかのぼり、さらに旧人の文化、原人の文化へと追求の手が伸ばされるに至っているのである。当宮代町でも、昭和五十年(一九七五)に山崎北遺跡の発掘調査で初めて旧石器が確認されてから、前原遺跡、山崎山遺跡、逆井(さかさい)遺跡、金原(かねはら)遺跡などと立て続けに旧石器時代の遺跡が発掘調査され、今や町の歴史もおおよそ二万年前までさかのぼることは確実な状況になっている。しかし、当町の歴史はまだ底を打ったわけではない。
 アフリカ起源といわれる原人は果たして日本列島にたどり着いていたのだろうか。新人の祖先もアフリカが故郷だという。日本列島内で確認される新人の文化の系譜はどこにたどることができるのだろうか。その歴史の実態はどのように描くことができるのだろうか。ナウマンゾウやマンモス・ハンターとして日本列島に現れた新人たちの暮らしぶりはまだまだ謎に満ちている。狩人として遊動(ゆうどう)生活を営んでいたことは確かであるが、彼らは火を使い、簡単なキャンプ用の小屋を設けていたとも言われる。そしてキャンプ地では、焼け石によるバーベキューに舌鼓(したつづみ)を打っていたのである。
 しかし旧石器時代の終わりごろから始まった地球の温暖化は、人々に新たな生活スタイルの創造を余儀なくすることとなる。縄文時代の開幕である。地球的規模での温暖化は、南極や北極は言うに及ばず、高山に閉じ込められていた氷を大量に溶かし、海水面の上昇をもたらすこととなった。そして、最も日本列島が温暖化したといわれる約五五〇〇年前には、関東地方でいえば、海は現在の荒川低地や中川低地をさかのぼり、西は上尾市付近、北は何と栃木県藤岡町から茨城県古河市付近にまで入り込んで来ていたのである。群馬県館林市からさいたま市、川口市へと連なる台地(大宮台地)は、まさに海にせり出した半島だったのである。しかし、この海は縄文人にとってかけがえのない海なのであった。遠浅の海は各地に魚介(ぎょかい)類の宝庫である干潟(ひがた)を形成した。海辺のムラはその恩恵に浴し、当時の繁栄の証拠を貝塚として今日に残したのである。杉戸町の木津内(きづうち)貝塚や蓮田市の黒浜(くろはま)貝塚、関山(せきやま)貝塚はちょうどそのころの大規模な遺跡として著名である。豊かな自然がある限りそこに定着すればよかった。だが、当町内には今のところ当時の貝塚の発見はない。しかし、ひたひたと海が内陸へと進み始めていた八〇〇〇年前ごろには、既に前原遺跡が集落として成立しており、その後も地蔵院(じぞういん)遺跡をはじめ、町内には絶え間なくムラが継起(けいき)し続けたのである。当時のムラには恐らく潮騒(しおさい)が聞こえていたに違いない。
 遊動生活から開放された縄文人は、まず土器を煮炊(にた)き用の器として受け入れた。魚介類の調理やドングリなどのあく抜きにも大いに活躍したことであろう。また狩人でもある縄文人は、新たに弓矢と犬の活用を図ることで飛躍的に獲物を増やした。特に猪と鹿の捕獲量は顕著であった。そして忘れてはならない道具に木の伐採や木材加工用の石製の斧(おの)の普及がある。竪穴(たてあな)住居や丸木舟の製作には欠くことのできない道具として注目しておかなければならない。
 しかし、自然物採集に頼る生活は自然環境の変化に大きく左右される。温暖化のピークを過ぎると再び列島には寒冷化の波が押し寄せてきたのである。宮代町付近からも次第に海は退いていった。町内唯一の貝塚である西光院(さいこういん)貝塚はこのころに形成されたものであるが、さらなる寒冷化は食糧事情の悪化を加速した。人々はこうした自然の脅威(きょうい)にさまざまな儀礼(ぎれい)や祈りの強化で対抗しようとしたが、厳しい生活を強いられることになるのであった。こうして今から三〇〇〇年ほど前、宮代町から人々の痕跡(こんせき)が消え失せたのである。
 約一万年にわたった自然物採集文化(縄文時代)は、二三〇〇年程前に北九州地方をはじめとする幾つかの地域で開始された水田稲作農耕と共に終わりを迎えた。大陸伝来の稲作は、ほかにも青銅器や鉄器、機織(はたお)りなどの新技術や文化をもたらした。しかし、縄文時代に確立した生活技術や精神文化のすべてが劇的に変化したわけではない。例えば東日本の初期の弥生土器の文様には縄文が多用されており、縄文土器との決定的な差は無い。また、動植物質食料の捕獲・採取から加工・保存の方法も基本的には継続されている。後に鉄器化されはするが、石の矢じりや槍なども盛んに活用されていたのである。家も竪穴住居のままであった。墓制(ぼせい)も当初は、遺体を一定期間仮埋葬した後、改めて壷などに本葬するという縄文時代起源の再葬墓(さいそうぼ)であり、それぞれの墓に階級差を見いだすことはできない。
 しかし、県内最古の大規模な水田跡を検出した熊谷市北島遺跡をあげるまでもなく、水田開発や灌漑(かんがい)施設の設置などには土木工事や農業を指揮する権力者やリーダーの存在が不可欠であった。彼らは次第に政治や祭祀(さいし)を司(つかさど)る人物へと成長した。兵士や職人などといった集団組織もこのころ同時に分化したのである。墓制も、次第に方形周溝墓(しゅうこうぼ)という区画溝と若干の盛土を持つ西日本からの墓が浸透するにつれ、階級制を示す兆候(ちょうこう)や葬送儀礼(そうそうぎれい)がみられるようになるのである。
 三世紀後半から四世紀にかけて、土地と水、収穫物をめぐる争いが各地で頻発した。中国の文献には、当時の日本(倭国(わこく))は「百余国に分かれ、戦いが絶えなかった」と、また卑弥呼(ひみこ)という女王が即位すると争いが治まったとも記されている。戦いの勝者は次第に霊力と権力を兼ね備えた強力な指導者として近隣の首長層を統合した。こうして誕生したのが畿内のヤマト政権である。この政権は、各地の銅鐸(どうたく)や銅剣・銅鉾(どうほこ)に象徴される伝統的な神々を徹底的に否定し去ると共に、服属した首長には新しく神威(しんい)のシンボルとされた鏡・剣・玉を分与し、さらには世界最大の「仁徳(にんとく)天皇陵」に代表されるような前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)の造営を認可したのである。関東有数の大古墳群である埼玉(さきたま)古墳群の、全長一三五メートルの二子山(ふたごやま)古墳をはじめとした幾つかの大型前方後円墳や、ワカタケル(後に雄略(ゆうりゃく)天皇とされる)とのかかわりを示す稲荷山(いなりやま)古墳出土の「辛亥銘(しんがいめい)鉄剣」の存在などは、畿内のヤマト政権との強い結びつきを雄弁に物語っている。ヤマト政権にとって「さきたまの地」は武蔵国の統一と上野(こうづけ)国(群馬県)への進出の足がかりとなる重要な地点であったのである。
 町内での古墳の発見例は少ないが、姫宮(ひめみや)神社古墳が朝顔形円筒埴輪(えんとうはにわ)を樹立した古墳として注目される。当地でも確実に、ヤマト政権を中心とした政治や権力闘争の一端が演じられていたのである。
 さらにヤマト政権は、朝鮮半島への出兵や中国との通交、そして仏教の受容へとめまぐるしく国としての体裁を整えようとし続けた。そして、ようやく律令(りつりょう)制国家へと歩み始めたヤマトの支配者は、七世紀末ごろには「日本」という国号や「天皇」という王の称号を定め、中国を中心とした国際社会へと船出をしたのである。国内では、東北地方や西南諸島にまで日本国の領域拡張政策が執(と)られるとともに、仏教国家実現に向けて各地に国分寺・国分尼寺の建立を命じた。そして都は奈良から京都へ。その間、政治・経済や文化のほとんどは都が発信元であり、それ以外の地域はあくまでも中央に対する地方でしかなかった。しかし、書かれた歴史とは別に、地方には地方の歴史が厳然と存在していたのである。宮代町の古代は土中からようやく目覚めようとしている。西光院の阿弥陀(あみだ)三尊像造立(ぞうりゅう)への道は、歴史の表舞台に登場してきた東国武士団によって開かれるのであった。