鶴ヶ島市立図書館/鶴ヶ島市デジタル郷土資料

「鶴ヶ島町史」通史編

通史編

第五編 近現代

第六章 産業

第一節 人口

 明治四年(一八七一)、明治新政府は府県と藩を含む初めての「全国惣体(そうたい)ノ戸籍法」を公布した。これにもとづき、翌五年から六年春にかけて編成されたのが壬申(じんしん)戸籍である。明治五年の干支(えと)(壬申(みずのえさる))をとってこの名がある。
 その後も、人口調査の必要は叫ばれつづけ、明治三五年には「国勢調査ニ関スル法律」が公布された。しかし実際には、第一回国勢調査の行われた大正九年(一九二〇)までの間、厳密な意味での人口統計調査は実施されていない。
 鶴ケ島の人口は、昭和三五年までは微増状態がつづいた。昭和三五年以降の増加分の多くは社会増によるものである。昭和三五年から四〇年頃にかけては、工場誘致(ゆうち)条例による工場建設に伴う増加が多く、それ以降は、当地方が東京のベッドタウン化したため、転入者が増加したのだと考えられる。
 年度別人口動態を見ると、昭和五五年の社会増が突出しているが、これは、住宅・都市整備公団の富士見団地への入居が原因である。
 これを世帯数でみると、昭和三五年から六〇年までの二五年間に、一一・六倍になっており、人口も七倍以上に増加している。これは、全国的にみても異例な現象である。この点については、様々な視点から評価が加えられるべきであろう。
hyo表5-46 国勢調査人口・世帯数の推移

図5-12 国勢調査人口の推移
国勢調査から作成


図5-13 年度別人口動態
住民基本台帳から作成

 日本全国では、この間の人口増加率は一三〇パーセントとなっており、埼玉県は二四一パーセントである。県単位の増加率としては埼玉県は全国有数の高い数値を示している。わが町の事例は埼玉県の人口増の主因を代表的に示すものであろう。
 一世帯当りの人口は、昭和三五年を境として、以降は激減する。これは、全国的な傾向でもあるが、当町の場合、住民の平均年令が三〇・六歳(昭和六一年一月現在)と、県内で最も低いこととあわせ、学生など若年層の流入割合の大きいことを物語るものである。