鶴ヶ島市立図書館/鶴ヶ島市デジタル郷土資料

「鶴ヶ島町史」通史編

通史編

第四編 近世

第一四章 支配関係

第一節 江戸時代の支配者

 当町内の一一か村、六新田の支配形態については、大名や代官・旗本が一か村を一円に支配することは、当町内ではまれであった。多くは、一つの村が分郷されて、二人あるいは三人の領主の支配を受けた。二人の領合は両給、三人は三給といい、総称して相給といった。
 これは、徳川家の家臣団の知行割の基本方針にもとずくものであった。万石以下の下級家臣は、江戸付近、それもせいぜい江戸から一夜泊りの範囲に配置された。江戸から一夜泊りといえば、だいたい一〇里以内ということになる。とすれば、江戸を抱える武蔵をはじめ、伊豆・相模・上総・下総ということになるが、特に武蔵に多かった。このことは、幕府の台所を支える蔵入地(直轄領)についても同様であった。
 武蔵国の総石高九八万石余のうち、幕領(代官支配地)は四八万石余で全体の四九パーセント、旗本領は三〇万石近くで三二パーセント、大名領が一七パーセント、寺社領が二パーセントという内訳である。また、旗本自身の分付状態をみても、五、二〇〇人の旗本のうち、地方渡しを受けた知行取が二、二六四人(四四パーセント)いたが、これらの旗本は関東地方に八〇パーセントと圧倒的に多かった。
 このことは、将軍の旗本、すなわち親衛隊として、緊急有事の際に、江戸へ馳せ参ずるための許容される距離であった。
 ところが、武蔵国に旗本知行地が、このように集中することは、必然的に分郷形態をとることになる。これが当町内に相給支配関係の多いことの原因である。しかし、この分郷・相給支配は、幕府の方針でもあった。これが幕府にとって有利な点は、
 (1)家臣の知行を公平に配分し、それによって家臣の権力を分散させること。
 (2)農民の統制を強化して、それぞれの支配者に属する田畑・百姓を明確にすること。
 (3)納税の単位を明確にして、村役人の不正を防止すること(※註1)。
 しかしその結果は、旗本は知行地の年貢を取るだけで、警察権や裁判権は幕府の権力内に吸いこまれて、いわば官僚予備軍となってしまったのである。
  〔註〕
  (1) 北島正元『江戸幕府の権力構造』
 表―52は武蔵国における大名・旗本・寺社の単独支配や、それらの入組支配を示したものである。
hyo表4-52 近世初期における武州の知行形態
 表―54~64は当町内における旧各村々の支配者の一覧表である。

表4-53 町屋村


表4-54 上新田村


表4-55 中新田村


表4-56 下新田村


表4-57 高倉村


表4-58 脚折村


表4-59 三ツ木村
※『風土記』に「この地正保の頃は松平伊豆守信綱領分なり、その後遷替ありて清水殿の領知たりしが、今は御料所となり、川崎平右衛門支配せり、云々」とある。


表4-60 太田ケ谷村


表4-61 藤金村


表4-62 上広谷村


表4-63 五味ケ谷村


表4-64 戸宮村

 当町内の各村々を支配したのは次の通りである。