鶴ヶ島市立図書館/鶴ヶ島市デジタル郷土資料

「鶴ヶ島町史」通史編

通史編

第四編 近世

第一二章 武州「世直し」一揆

 明和元年(一七六四)の助郷騒動から一〇二年たって、いよいよ幕府崩壊の前夜に当るとき、武蔵国西部一帯をおおう大一揆が勃発した。この一〇二年の間は武蔵国はわりと平穏に過ごしてきた。全国的には、百姓一揆は五八四件を数えるが、武蔵国ではわずか八件にすぎない。その内、村内不穏のままですんだのが五件で、打ちこわしにまで高まったのはわずか三件にすぎず、それもすべての局地的蜂起にとどまった。
 幕末に近づくと諸物価の狂乱ぶりは目に余るものがあり、殊に慶応元年以降の米価の暴騰は目茶苦茶で、民衆の忍耐の限度を越えていた(図―5・表―46)。これに加えて、治安は乱れ、人心不安で、一揆・打ちこわしは全国的に見られるようになった。もはや幕府権力による時局の収拾は不可能な情況になっていた。
hyo表4-46 幕末の米価一覧表(脚折村)

図4-5 幕末米価表(銀貨で示した米一石の値段)

 慶応二年には、百姓一揆が更に頻発した。二度目の長州征伐のための軍事動員も成果の上らないままうやむやに終ったので、幕府の威信は一層地に落ちた。
 五月になると、大阪では天井知らずの米価騰貴を怒った貧民が打ちこわしに決起した。大阪周辺から始まって、米屋・酒屋を始め富商たちを襲撃した。ついに大阪市中に波及して、被害戸数八八五戸に達した。「市中警衛のむきも、あまり大人数相起こり候ことゆえ、取押え相成らず、傍観いたしおり候のみ」との報告があった。
 それが、五月二三日には江戸のすぐ側まで飛火した。その日、川崎宿で窮民たちが集まって、商家に打ちこわしをかけていたのである。そして二八日には、ついにその激濤は江戸の市中へも襲いかかった。その夜、品川宿で八三戸が略奪された。この事件を口火にして、以後数日間、江戸市中のほとんどが騒動に巻きこまれてしまった。この打ちこわしで先ずねらわれたのは、やはり米屋であるとともに、また貿易関係商人であった。
 翌晩には、芝田町から起こって浜松町辺まで及び、六月になって、麻布・牛込・神田・四谷・本所など、散発的ではあるが各地に起こり、数日間にわたった。六月初旬を過ぎて、漸くこの打ちこわしの嵐はおさまった。しかし、世情不穏そのものが解消されたわけではなかったので、九月になっても徒党による騒動が一週間以上もつづいた。この騒動のさ中に町奉行の門外に張札があり、「御政事売切れ申し候」と書いてあった。これは民衆が、万策尽きた幕府の窮状に対する嘲笑とともに新しい夜明けを渇望したものであろう。
 江戸市中の暴動がようやく鎮静しかけた六月一三日、こんどは秩父郡(現在、入間郡)名栗村の貧農・小作人たちの一揆がもち上った。とみるやそれは、上州の一部をも含んだ武蔵国一帯を席巻する大世直し一揆に発展した。そして一〇万を越える一揆勢は一週間以上も荒れくるった。彼らは「第一横浜向商人」や「穀屋・質屋、そのほか有徳(うとく)の者」をつぎつぎと襲撃しては行く先々で村々の貧農・水呑層を糾合し、各方面に分流していった。そして、寺の釣鐘(つりがね)を鳴らし、法螺(ほら)貝を吹き、太鼓を叩き、「諸人助けのためなり、諸人助けのためなり」と叫びあっていたという。
 
 六月一三日に吾野村で勃発した一揆勢は、早くも翌一四日には鶴ケ島に押し寄せてきた。その模様を高倉村に残る記録によって記してみよう。
  慶応二丑年六月十四日、山方の者ども諸般高値にて、窮民暮しかね候こと出来候こととて、大勢徒党いたし、当郷の交易(貿易)・高利貸ならびに穀屋打ちこわし候。飯能を初め扇町屋辺へも到り候よし。高麗辺・鹿山・上新田才助をこわし、乱妨人は村方へ来り、九右衛門酒蔵へまかり越し候。当節、酒何ほどにて売り候やと尋ね候間、上酒柳(柳樽(だる)、朱塗りの酒樽)壱本壱両と五文、並酒金壱両、下物金三分弐朱などの売りに致し候よし申し聞かせ候処、下値に相拵え候趣き申し、こわし申さず候。帳面二枚切取り申し候。当座帳に御座候えども何にも相さわり申さず候。それより村方の者残らず引廻し、太田ケ谷重右衛門方へ参り、金百両・米百俵施しの約束にて、相談相成り申し候。それより脚折佐右衛門と申す者打ちこわし申し候。天保銭・四文銭等の銭を四斗樽、或は俵に致しこれあり候処、皆打ちこわし候よし。それより坂戸に参り、最初、先(マヽ)はな打ちこわし候跡に御座候穀屋残らず、木藤と申す者こわし申し候。上吉田の両問屋にて昼飯、正代村代吉こわし、松山宿残らず、十四日夜、今宿亀屋と申すを打ちこわし、十五日になり越生宿、但馬屋・日の屋・嶋屋、小杉村日向伊右衛門高利貸し候につき、残らず打ちこわし申し候。
  高麗清流にては、亀太郎殿高利貸しにつき、打ちこわし申し候。右見舞に[  ]一つ、茶碗酒壱升、父九右衛門参り申し候。その外一統打ちこわし申し候。
  右につき、六月十五日炊出し仕り候。むすびに酒、和田橋へも通行へも[  ]出しおき、宿にもおき申し候。十五、十六、十七の三日間の内に米八俵ほど炊き申し候。酒およそ五、六本遣い申し候。村方一同右世話致し候えば、男残らず酒食致し申し候。九右衛門宅にて炊出し仕り候。
  右世話に相成り候間、村方の男残らず相作り、ひや麦・酒肴にて、七月朔日(ついたち)、寛助・亀吉両人にて村方一同へ挨拶申し候。九右衛門宅にて客致し候。酒壱駄・小麦弐俵、右弐俵九右衛門宅より出す、酒は亀吉出す。無事一同中振舞い申し候。浅羽四郎右衛門殿より伊丹(いたみ)(摂津の伊丹酒、最上酒)壱本到来仕り候。上寺にて一同呑み、太田ケ谷重右衛門殿より金三両村方へ貰い申し候。右は勘右衛門方にて一同呑み申し候。
  右一件にて、諸方打ちこわされしものこれあり、或は金百両・米百俵にて相談相成るもあり、其後村方一同にて困窮人取施し申し候。
   一金弐両弐分 九右衛門  一金参分 浅右衛門
   一金 〃   栄吉    一 〃  いよ吉
   一金壱両弐分 清兵衛   一 〃  清蔵
   一  〃   亀吉    一 〃  勇蔵
   一  〃   半兵衛   一 〃  栄五郎
   一  〃   権右衛門  一 〃  勘右衛門
   一  〃   友右衛門
              (筆者は酒屋九右衛門の子)
 一揆の発生とその後の動勢については、幾多の著書や論文があるが、その内で、最近、地元の名栗村教育委員会から発行された山中清孝氏著『近代武州名栗村の構造』によって、その経過の概略を記すことにしよう。
 この一揆発生は慶応二年(一八六六)六月一三日の暮六ツ時(午後六時)であり、場所は上名栗村の浜居場から八ケ原までの通称〝間地〟というところで起こった。頭取は諸説あるが、上名栗村の頭取は大工の紋次郎と桶職の豊五郎の二人であり、下成木村下分の末成の組頭〝悪惣〟こと惣五郎(又の名を喜左衛門)が成木方面の、そして吾野方面の頭取は坂石町分の菊之助こと佐兵衛であったと思われる。これら四人のうち中心人物は惣五郎と紋次郎である。彼ら二人が捕縛された時の申口によると「当六月十日に飯能市場で惣五郎に出会い『米穀値下げに近々飯能に行くから、沙汰次第飯能川原へ集結するように』といわれ、六月十三日の朝、惣五郎の使と思われる〝面体(めんてい)知らざるもの〟三、四人が来て、『十三日夜に飯能川原へ出るように、もし出合わないものがいたら後日仇(あだ)を成す』といわれ、両人で高声に村内に触れてまわった」という。名栗からの参加者は約二〇〇人で、手にはまさかり、鋸(のこぎり)・掛矢(大型の槌(つち))を持って、飯能へ向かった。途中成木勢と合流した。そして、一四日八ツ時(午前二時)頃に飯能川へ到着した。飯能より山寄りの村々からも残らず押出してきて、たちまち穀屋を四軒打ちこわした。
 飯能で凱歌(がいか)を挙げた一揆勢は、扇町屋・所沢の在郷商人や質屋・村役人等のいわゆる非道な物持層を次々に襲撃して行った。東へ向かった一手は引又(志木)で高崎藩の守る大和田陣屋勢と闘い、鉄砲を撃たれて一旦散乱したが再び立て直した。別の一手は多摩郡へ向かったが、田無の農兵隊と衝突した。また青梅・箱根ケ崎・福生(ふっさ)・拝島方面へ向かった一隊は、八王子・日野・駒木野の農兵隊と闘い、五日市でも猟師や農兵隊の鉄砲と闘った。また別の一隊は川越方面へ向かって川越藩士と闘い、飯能から北へ向かった一隊は毛呂・越生・玉川・小川・寄居へ向かい、藤岡・新町等まで進み、忍・岩槻・高崎藩や岩鼻郡代の手兵と交戦、秩父大宮郷(秩父市)の忍藩秩父陣屋を襲撃した。一方、吾野(あがの)谷から蜂起した農民は、一五日に高麗郡から坂戸・松山方面に向かい、各方面に分出した。一手は鴻巣方面に向かい、一手は松山を経て熊谷に向かったが、途中、冑(かぶと)山で根岸家の手勢と衝突している。また他の一手は高坂・唐子・菅谷方面へ向かった。別に高麗川を渡って今宿方面に行った隊もあった。

図4-6 武州「世直し」一揆展開図(慶応二年(1866)六月十三日―二十日)
(森安彦『幕藩制国家の基礎構造』より)

 坂戸周辺の打ちこわしは、千代田恵汎(「坂戸近辺の『武州世直し』一揆」)によれば、六月一五日の四ツ時(午前一〇時)頃に始まったが、その状況は表―47のようであり、その経路は図―7に示す通りである。
hyo表4-47 坂戸宿近辺(市内)における打毀状況

図4-7 武州「世直し」一揆の経路(坂戸周辺)
千代田恵汎氏作製

 この打ちこわし勢は、たちまちに武蔵・上野の二か国に爆発的な状況で拡大して、各地の豪農・村役人・陣屋などを破壊した。またこのような状況に呼応した困窮民は、一揆のオルグに誘発されて、広域・同時・多発的に蜂起し、各地域で打ちこわしを激化させた。その参加者は史料によってまちまちであるが、延べにして一〇数万人であったと思われる。衝撃を受けた幕府・諸藩はあわてて武力討伐に向かった。第二次長州征伐のために主力を派遣して手薄になっていた幕府軍は、各藩や、代官江川太郎左衛門配下の農兵隊と結んで、鉄砲隊を中核として武力鎮圧につとめた。六月一六日には歩兵頭並の河津駿河守が中山道を征服し、高崎藩主は野火止の飛地で大砲を放って鎮圧した。多摩郡、入間郡南部では農兵隊が舶来の洋式銃で打撃を加え、横浜港への乱入を阻止した。上武国境方面に広がった一揆勢には、関東郡代岩鼻役所で木村甲斐守が総力をあげて制圧につとめた。そして六月一七日、新町宿で一揆勢を潰滅させた。同月一九日には関東全域でほぼ鎮静化した。この間わずか七日間であったが、武蔵・上州一帯は無政府状態と化し、各地で世直し世界が成立した。そして一揆後も各地で騒動がくすぶり続け、慶応三年、同四年と上武一帯は大きな一揆が続発し、騒動の原因となった問題は未解決のまま明治までもちこされたのである。
 この一揆で打ちこわしの対象となった村は、武蔵国一五郡、上野国二郡のうち二〇二か村におよび、戸数は五二〇軒であった(表―48)。打ちこわし参加者として取調べを受けたり、捕縛されたりした窮民は、武蔵国一四郡で三二八名、上野国三郡で五六名、その他、相模・甲斐・下野・常陸の出身者が六名おり、総計三九〇名であった(表―49)。
hyo表4-48 慶応2.6武州一揆打ちこわし対象者一覧
hyo表4-49 「世直し」勢のうち身元判明者の郡別一覧
 一揆の頭取とみなされた者は一八名であるが、彼らの郡別、村別を見て分るように、この一揆は一人の頭取が現われて、その指導のもとに周辺に拡大強化されたものではなく、同時に各地に頭取が出現して、一つの目的を目ざして立ち上ったものである。これが広域・同時・多発の一揆だといわれるわけである。表―50は頭取の身分・職業および処罰の一覧表である。図―8は「世直し」一揆勢の組織を示す。この一揆が短期間に各地に拡大したのは、先遣隊(オルグ)の働きが大きかったからである。「先触れとして六人参り」とあるように、数千にのぼる打ちこわし勢の威力を背景にして「世直し」のための要求を豪農・村役人につきつけたのである。
hyo表4-50 武州世直し一揆の頭取

図4-8 「世直し」勢の組織
森安彦『幕藩制国家の基礎構造』より