鶴ヶ島市立図書館/鶴ヶ島市デジタル郷土資料

「鶴ヶ島町史」通史編

通史編

第四編 近世

第一一章 伝馬騒動

 明和元年(一七六四)の暮もおしつまった頃に、江戸中を驚かすニュースが伝わってきた。上州・武州の百姓どもが大騒動を始め、鎮まり申さず、その人数およそ六万人か七万人、あるいは一〇万人にも及ぶ暴徒が今にも江戸に押し寄せてくるというのである。この大一揆は、大晦日(みそか)には大手門や桜田門を取り囲んで、元日の御老中の登城を差し止めるつもりだとわめいているとのことである。この知らせが江戸城にとどくと、幕府は早速、関東郡代伊奈半左衛門の家来や、諸国の代官六人を現地に派遣して、暴徒をなだめようとした。しかし、なかなか鎮まらないので、後からも代官一〇人を派遣した。そして、万一の場合に備えて、江戸に入るのを食い止めるために与力・同心を集めて、板橋宿を固めさせた。(「東武百姓一揆集書」)
 このように、江戸城を驚かせた明和の大一揆を「伝馬騒動」とか「天狗騒動」といかいう。この一揆には、鶴ケ島町や坂戸市も深くかかわっているので、その経緯を説明したい。この一揆発生の原因は、次の一枚の回状であった。
  近来、中山道通行多く相成り、桶川宿はこれ迄の助郷(すけごう)高にては人馬不足につき、今度、御代官二人の手代を差し遣わし、村柄を見分し、去る戌(いぬ)年(宝暦四)より未(ひつじ)年(同一三)までの十か年の年貢割付を写し、ならびに、道法(みちのり)等を糺(ただ)した上で、勤め高を極(き)め、右の助郷を極め候間、心得ちがいこれなきよう吟味を受くべきものなり。
    申(明和元年)        御勘定 安藤弾正印
     十一月           御目付 池田筑後印
 この回状は、道中奉行を兼ねる、勘定奉行安藤弾正少弼(ひつ)と大目付池田筑後守の名で通達されたものであった。そして、桶川宿だけでなく、板橋宿から信州和田宿までの二八宿に同文が達せられた。
 ここで問題になっている助郷について触れてみたい。
 中山道の各宿場には、旅客と貨物を運ぶために、伝馬五〇匹と人足五〇人を常備していた。ところが桶川宿では、その内の五人・五匹は「囲(かこ)い人馬」と称して、公用の継ぎ立てだけに使用することになっていたので、一般の使用に供することはなかった。また、一八匹、一八人は「余荷(よない)勤め」といい、不時の用に当てるため取っておいたので、これも使用せられることはなかった。結局、残りの二七匹・二七人が一般旅行者の使用に供せられるにすぎなかった(『埼玉縣史』第六巻)。
 これだけで交通量の増加した旅客や貨物の輸送に応ずることは、とても不可能なことである。幕府はその対策として、宿(しゅく)に近い農村に人馬の課役を命じて、宿常備人馬の補充をさせることにした。宿ごとに近傍数ケ村を極めて「定助郷」とし、のちには五里以上一〇里ぐらいまでの農村まで「加助郷」として加えた。助郷とは元来は「宿場の伝馬が不足したときに、これを助ける農村」を指すのであるが、役務そのものをもいうようになっていた。江戸時代の中期以後は、常備人馬と助郷人馬の数が全く逆転して、大部分の継ぎ立ては助郷に頼ったという。
 しかし、助郷の負担は農民にとって非常に迷惑であった。第一に季節を問わないからであり、第二に伝馬人足には老人・子供や弱馬を出さないよう厳しく指定されていたことである。第三に賃銭が不当に安かったことである。それで農繁期にも、働き盛りの男や馬を宿場にとられることになり、しかも普通の日当にもならない安い賃銭でくたくたになるまで働かざるをえなかった。
 ここではっきりさせておかねばならぬことは、江戸時代の宿場制度は、今日の運輸施設とはその目的を異にしているということである。それは公用の旅行者や貨物の輸送、あるいは休泊や通信のための施設であり、現代のような商業ベースのものではなかった。それで、その賃銭は無賃か公定賃銭を原則とする。そのため、公用人馬を無賃か公定賃銭で継ぎ立てる義務を負わされた宿場は、それに適応する幕府の保護助成金の支給をまって初めてその任務を全うすることができる。ところが、交通量が激増して、人馬の需要が高まっても、財政が遍迫(ひっぱく)した幕府は、公費の節約のため適当な助成金を増額することはなかった。結局は、宿場の疲弊窮迫を、その宿場の周辺の農村に転嫁することによって、その救済をはかることになったわけである。
   〔備考〕
   公定賃銭は「御定賃銭」ともいわれ、一定の資格をもつ公用者が使用するときの賃銭である。「相対(あいたい)賃銭」(旅客と人足との話し合いできめる)は、公用者が御定賃銭の枠をこえた場合か、あるいは一般旅客が使用するときの賃銭で、普通は御定賃銭の倍額ということになっていた。このことは、逆に、相対賃銭が時価に近く、御定賃銭は時価の半額以下であったことを示すものである。
 
 初めのうちは、御定賃銭が民間の賃銭にくらべて幾分か有利であったため、宿場近くの農村も喜んで助郷役の負担に応じた。しかし、時代がたつにともない、物価が騰貴し、民間の人馬賃も高騰したにもかかわらず、御定賃銭の割増しは物価に対応するものではなかった。そこで、窮迫した問屋や助郷村々は、お互いに責任を回避することに努め、問屋は「囲い人馬」の口実のもとに常備人馬の減少をはかり、助郷の村々は村内の事情を訴えて、遠隔の村々へ加助郷を課するよう道中奉行に嘆願した。助郷村々の困窮の実状は「そもそも天下農民のうち、生を定助郷各村々に受くる者ほど不幸な人民は、他にあらざるべし」と嘆くほどであったから、助郷に指定されていない他村に援助を求めるのは無理もなかった。しかし、このような実状に便乗して、不当な利益を得ようとたくらんだものもあった。この伝馬騒動を書いた「狐塚千本鎗」には次のような陰謀を載せてある。四里も五里も隔った遠い村々まで加助郷にしたところで、実際に人夫や馬が宿場へ出て来られるはずはない。結局は金銭で事を済ます「買い人馬」による他はないだろう。そこで、問屋たちは安い人足をかき集めて代理を勤めさせ、その差額をもうけようという計算であるというのである。この陰謀が事実か、単なるうわさに過ぎないのか、事実は不明であるが、過去には問屋がその権限を悪用して不当の利益を貧ろうとしたことは周知のことである。このうわさが真実とされて鶴ケ島町内の三か村が打ちこわしに会っているのである。そしてこのうわさには、次のような尾鰭(ひれ)がついている。「すでに宿役人たちのなかには、これを目あてに雲助や浮浪人を雇い始めたものもある。代官や一部の村役人もからんでおり、道中奉行の安藤弾正も一役買っているそうだ。」
 
 明和元年一一月に助郷が急増されることになった理由は、近頃、中山道の御通行が多くなり、元文年中(一七三六―四〇)までは、定助郷の村々の負担は、一〇〇石につき馬五〇匹・人夫五〇人ぐらいであったのが、最近は二〇〇匹、二〇〇人も勤めるようになったので、助郷村々の百姓の困窮はなはだしくなった。そして、幾度も軽減を訴願するので、幕府もお取り上げることになった。ついては、その代りに助郷の範囲を大巾に拡大する方針に踏みきったのであった。その結果、新しく加助郷になる村々は九二〇か村であった。桶川宿だけでも、足立・入間・高麗・比企・埼玉の五郡で六九か村を数えた(表-41)。
hyo表4-41 宿駅別加助郷差村分布(判明分)
 この新しい加助郷の差村は、高一〇〇石につき、人足六人・馬三匹を負担したが、遠路の村々は金六両を差出すことになるという風聞である。
 幕府がこのような助郷拡大に踏みきった理由は、翌明和二年四月に日光の東照宮大権現の一五〇年忌の大法要を営むため、中山道や日光街道を往来する大名・公家(くげ)たちの通行が一段と激しくなるだろうとの予測にもとづいたものである。
 ところが、問屋からの回状を受け取った新助郷村々では、多年の欝積(うっせき)した心情があった。武蔵北部では宝暦一一年(一七六一)から一三年にかけて、二〇回の出水があり、米作・麦作ともに不作で農村は極度に疲弊していた。その上、この年二月には朝鮮からの使節が来朝したので、その接待費用として、高一〇〇石につき三両一分二朱という、従来の一〇倍近い国役金(臨時税)を仰せつかったばかりであった。そこへ今度の加助郷の強制である。新しく加助郷となった村々は、宿場までの距離は近くても三、四里はある。川を渡り、山を越えて、遠い道を馬を引いてやって来いというのでは、いかにお上の言いつけとはいえ、どだい無理難題である。今まで助郷を勤めなくても、暮らしは楽でないのに、この上、助郷を仰せつかっては「餓死することは必定である。」こうなると「一人残らず江戸表へまかり出て、命限りに助郷御免の御訴訟を申すより他はない」(「尚風録」)ということになった。
 
 武州での強訴の発端となった本庄宿加助郷村の児玉郡関村(現、美里(みさと)村大字関)では、名主兵内(ひょうない)の書いたとされる回状を、加助郷の差村となった八郡一九四カ村に廻すことになった。この回状による呼びかけに応じた農民は、閏(うるう)一二月一六日に、関村近くの十条河原に集合した。その数は数千人に及び、村に残った者は老人・女・子供と村役人だけであったという。あまりに人数が多いので、各村々から二人ないし四人が代表になり、評議したが、結局、明和二年元日に江戸城大手門に詰めて、登城する老中に直訴することで意見が一致した。
 他の宿場の差村でもこのような経過を経て、反対運動の組織化が進められたのであろう。
 本庄宿の強訴勢は二一日に再度の寄合をもち、いよいよ本庄宿へ押し寄せた。そこへ、上州新町宿加助郷の甘楽(かんら)郡・緑野(みとの)郡の村々から強訴勢が合流し、翌二二日に行われることになっていた市(いち)を潰してしまった。ここで一揆としての行動が始まったのである。
 その後の一揆勢進撃の経過は次に示す通りである。

図4-3 明和元年本庄宿新助郷の範囲
北沢文武氏作製

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   〔備考〕
   この日程表は北沢文武氏著『明和の大一揆』所載のものを筆者が郷土向きに加筆したものである。

図4-4 坂戸村周辺
北沢文武氏作製

hyo表4-42 川越近在における打ちこわし状況