鶴ヶ島市立図書館/鶴ヶ島市デジタル郷土資料

「鶴ヶ島町史」通史編

通史編

第四編 近世

第七章 貢租の種類とその動向

 「年貢さえすまし候えば、百姓ほど心安きものはこれなく……」(「慶安の御触書」)には違いはないが、「百姓とごまの油は絞れば絞るほど、出るものなり」(勘定奉行神尾春央(ひで))ということも間違いのない現実であった。江戸時代初期には、前代の太閤検地に引続き、検地が行われたが、これは領主が農民から否応なしに年貢を取るための手段であった。この時期の幕府の農民に対する法令には、地頭や代官の勝手気儘な年貢徴収を禁じ、農民保護をうたったものが多いが、これとても、幕府の将軍や閣老たちが慈悲深かったせいでは決してなく、保護を名目として年貢徴収を統一し、完璧(ぺき)にすることが狙(ねら)いであった。
 「東照宮上意」として伝えられる幕府の治農方針は「難儀にならぬほどにして、気ままにさせぬのが百姓共への慈悲なり(※註1)」また「郷村百姓共をば、死なぬよう、生きぬようにと合点(がつてん)いたし、収納申しつけるよう」という家康の言葉に代表されている(※註2)。
 その意味を具体的に説明したのが、家康の側近第一の重臣、本多佐渡守正信である。彼はその著書といわれる「本佐録」で「先ず一人ひとりの田地の境目をよく立て、さて、一年の入用・作食(さくじき)(農民の食料)を積もらせ、その余りを年貢に取るべし。百姓は財の余らぬように、不足なきように、治むること道なり」としている。
 徳川政権が年貢の取方を全面的に受けついだといわれる豊臣秀吉は「年貢はその年々の稲のできぐあいをよく調べたうえ、その三分の二を領主が取り、残る三分の一を農民に取らせるようにせよ」といっている。農民が収穫物の三分の二を年貢に取られるということは、農民の生活にどのような意味をもつことになるであろうか。
 人間の労働の成果は、これを明日へ命を支えてゆくに必要な部分(これを必要労働部分という)と、それを上まわった、蓄積にまわしたり他人に利用させたりすることのできる部分(これを剰余(じょうよ)労働部分という)との二つに分けることができる。江戸時代の農民労働の成果の配分は、図―1に示したような三つの場合が考えられる。

図4-1 収穫配分図

 第一は、Ⅰのように、領主が取立てる年貢が非常に多くて、農民の必要労働部分にまで食いこむ場合である。しかしあまりに搾り取れば、その一年だけは沢山年貢が取れるだろうが、翌年からは取れなくなる。食料や種子の分まで取られては生産しようにもできないからである。つまり、農民の再生産分だけは残してやるのが年貢徴収のこつである。
 第二は、Ⅱのように、農民の労働の成果の全剰余労働部分を搾取する場合である。「東照宮上意」の「生かさぬよう、殺さぬよう」な線とは正にこのような線である。それは具体的な数字に直すと、豊臣秀吉が定めたように、その年の稲の出来高の三分の二を年貢に取立てることであろう。それは、稲以外に冬作の麦その他の収穫があったとすれば、ほぼ「六公四民の年貢」ということになるであろう。
 第三は、Ⅲのように、領主の取分が下がり、農民の手もとには、年貢を納めたあとに、少量ではあるが一定量の剰余が残る場合である。
 このようにして、農民の手もとに一定の剰余が残るようになると(これを農民的剰余の成立という)、その影響はあらゆる方面に及んだが、その一つに小作の問題がある。
 江戸時代の耕地の質入れ・質取りは、農民甲が乙から金を借りるときに、甲は自分持の耕地を乙に質に入れて、乙から金を借りることである。その場合、乙は甲が質に入れた耕地を自分で耕作し、その収穫物から年貢を差引いた残りが貸した金の金利になる。というのが本来の質入れ・質取りの原型である。この場合は、金の借主甲は、別に金利としてお金を乙に支払う必要はないわけである。
 しかし、農民的剰余が成立すると事態は変ってくる。質取りした乙は自分で耕作せず、甲以外の第三者丙に耕作させて(小作に出す)、丙の出す小作料のなかから、自分の貸金の金利を手に入れようとする人々が出てきたのである。この小作形態は、小作人丙は、必要労働部分で小作地を経営し、残りで年貢と小作料を支払えるだけの農民的剰余がないと成立しないわけである。
 質入主(甲)に小作させるのが直小作、第三者(丙)に小作させるのが別小作である。いずれにせよ、最近まで続いた農村の小作料問題は、農民的剰余が成立した結果現われた、地主・小作人間の剰余配分の問題である。