鶴ヶ島市立図書館/鶴ヶ島市デジタル郷土資料

「鶴ヶ島町史」通史編

通史編

第四編 近世

第五章 開発の時代

 慶安検地帳に記載する「入」は、慶安期以前の検地から慶安元年に至る間の開発地を編入した面積と考えられる。その他に在家の小面積を合併したものもあるだろうが、ここではその小面積を一応無視して計算する。
 表―19に見るように、田畑を合算した面積は太田ケ谷村が一番広く四町九反八畝余、次いで三ツ木村二町二反三畝余、脚折村一町八反二畝余、高倉村一町七反六畝余の順である。そのうち水田は太田ケ谷村一町六反九畝余、脚折村八反三畝余、高倉村三反三畝余である。慶安以後の開発はほとんど畑だけであり、埼玉県西部の台地上に広がる畑作地帯の水田は、慶安以前にすでに限界に達するまで造成されたことを示すものである。
hyo表4-19 慶安元年(1648)水帳の「入」
 戦国末期から近世初期の慶安・寛文(一六四八~七二)ごろまでの約百年間は、我国の耕地総面積が約三倍(※)になるというほど急成長をとげた、我国全歴史でも珍しい新田の大造出時代であり、正に「新田時代」ともいうべき時代であった。当町内でもこの時代にふさわしく、これほど広い田畑が開発されたのである。※(『土地制度史』)