鶴ヶ島市立図書館/鶴ヶ島市デジタル郷土資料

「鶴ヶ島町史」通史編

通史編

第三編 古代・中世

第五章 郡郷の変遷

第二節 郡郷の解体と変質

 平安朝の半ばを過ぎた承平五年(九三五)頃より『和名類聚抄』に掲載された郡・郷という地方行政制度は、にわかに変動し、平安末期には大きく変容した。先ず郡については、入間郡が二分されて入西郡と入東郡に分れたが、この例は、葛飾郡が葛東郡・葛西郡に、埼玉郡が埼東郡・埼西郡に、東京都の多摩郡が多東郡・多西郡に分れたように多くは東・西・南・北という方位によって分れている。
 郷以下については次の一覧表で示す通りである。
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このように郡が分割され、郷が細分された原因は、本来の律令制度の原則は、国―郡―郷の三段階の地方行政組織からでき上っていたのが、平安末期の国政改革ですっかり変化したからであった。それは、新しい郡も郷もみな同格の地域的な徴税単位となり、それぞれに「郡司・郷司」などの役人が任命され、地域内の租税を徴収して国司に上納するようになったからである。その基底には、班田制の崩壊により、律令制にもとづく郷編成が有名無実になったためであり、今一つは、大開拓時代とよばれる平安末期の、新しい土地開拓による中世的な土地所有の成立であった(内田実「東国における在地領主制の成立」)。

図3-10 地方支配組織の変化

 この新しい郡郷は国衙が行政上、上から編制したものではない。通常「私称の郡」というように、律令制の郡・郷が解体する過程で、自然に形成されたものである。その自然とは、在地領主と深いかかわりをもつ自然である。彼らは、「開発領主」としての地位を相伝して「根本私領」をもち、また、戦功によって他の荘園や公領の所職(しょしき)(権利)を獲得し、これらを生活の頼みとして「一所懸命(いっしょけんめい)の領地」といったが、この領地の強化・拡大の過程で、新しい郡・郷が生れたのである。
 それで、新しい郡・郷とは、在地領主の領有の一つの単位である。郡名の在地領主が先ず成立し、その次に郷名の在地領主が成立した。彼らは、新しい郡・郷の郡司・郷司に任命され、また、国府政庁の在庁官人と兼任することが多かった。
 一方では、本所と呼ばれる中央の大貴族や有力な社寺に属する私有地としての荘(荘園)、また荘園に類似したものとして、中央の役所などの所有する「保」も生れてきた。もつとも荘園の数がこんなに多いわけではなく、郷というべきを単に荘と呼んだものが多数あった。また、荘園であったとしても、多くは所有者である本所の名は判明しない。
入間郡
河肥荘 旧名細村を中心に入間川流域の肥沃地。

(本家) 後白河天皇→後堀河天皇→室町院暉子内親王

(領家) 新日吉(いまひえ)社  (荘司)河越重隆

浅羽荘 高麗川・越辺川流域の肥沃地。

坂戸・堀込・粟生田・浅羽・葛貫(つづらぬき)他二〇か村。

久米荘 所沢市内久米。

柳瀬荘 所沢市内の旧柳瀬・松井・吾妻・山口の各村にわたる柳瀬川流域。

吾妻荘 所沢市北秋津付近。

狭山荘 所沢市山口の一部。

桂荘  桂川という細流に沿う地。入間市東金子・金子。

葛茂(くずも)川荘 葛茂川という小流に沿う地。川越市西南部の山城・藤倉。

入東(にっとう)荘 狭山市北入曾付近。

山田荘 入間川・都幾川の合流する低地。

川越市内を含む五〇三カ村。貞観寺領である。

仙波荘 旧高階(たかしな)・上福岡・大井・水谷の地域。

古尾谷(ふるおや)荘 郡の東部、入間川流域の低地。川越市古谷・久下戸。鎌倉八幡宮領。

勝呂(すぐろ)荘 高麗川に面した低地。上浅羽・下浅羽。浅羽荘と交錯。

堀江荘 越辺川に沿い、平野と山岳部。越生町・毛呂山町。

宿谷(しゅくや)荘 毛呂山町宿谷。

入西(にっさい)荘 越生町堂山。

春原荘 春原庄広瀬郷とある(「法恩寺年譜」)、狭山市旧水富付近。

榛原(はいばら)荘 場所不明。宝亀一一年(七八〇)の「西大寺資財流記帳」に「入間郡榛原庄布一枚」と記載されている。

鶴ケ島町若葉台遺跡をこれに比定する意見がある。

(山下守昭「若葉台遺跡について」)

広瀬荘 貞観一四年(八七二)「貞観寺田地目録帳」にある貞観寺領である。

粟生田(あおおだ)荘 坂戸市か。西大寺領。

国延名(くにのべみょう) 坂戸市島田付近。

是永名 越生町。

則次(のりつぐ)名 毛呂山町箕和田。

恒弘名 越生町鹿下・田代付近。

高麗郡
浅羽荘 藤金。

山田荘 上広谷。

加治荘 入間川上流、上総(かみつふさ)郷よりの転。飯能市内。

山本荘 前掲「貞観寺田地目録帳」にある。日高町内か。

吾那保(あがなほ) 飯能市内、旧吾野(あがの)村・東吾野村。


図3-11 鶴ケ島周辺の郷村分布図

 このように荘名を称えるところが多い。これは国衙領としての郷が私領化して、荘名で呼ばれるようになったからである。実力のある豪族武士にとっては、鎌倉時代になると、権門勢家などの保護はもはや無用であった。また、国司制度が衰退して有名無実になってくると、国衙領が私領と化するのは当然であった。
 〔備考〕
(1) この資料は主に『埼玉縣史』第三巻によった。

(2) 「保」は、平安末期から中世を通じての地方行政単位である。中央官庁領や国衙領の地域的行政単位として現われ、荘園制の発達に伴って、郷とともに荘・郷・保と並称された。(『角川日本史辞典』)

(3) 「名」は「名田」と同じ。荘園・国衙領の年貢・課役等の賦課単位である。開墾あるいは買得で獲得した田地の年貢・課役等の納入責任者の名をつけたもの。例えば「国延名」は、国延なる人物が納入責任者である。