さいたま市立大宮図書館/おおみやデジタル文学館 ―歌人・大西民子―

音声資料

講演ほか

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大西 今、ご紹介にあずかりました、大西民子でございます。畑和子さんからお電話がございましたとき、お断りされたら畑さんお困りになるだろうな、なんて思いまして、ついお引き受けしてしまいましたけれども、私はお話が上手ではございませんし、それに思い付いたまま現代短歌についてなどと、何をお話ししてもいいような題のつもりでお願いしたのでございますけれども、だんだんに考えてまいりますと、短い時間で、現代短歌とは何かといったようなお話をいたしますのは、大変困難なことであるということに気が付きました。気が付きましたけれども、もう遅うございました。
 現代短歌と軽く言ってしまいますけれども、現代短歌とは何かということについては、なかなか難しい問題があるようでございます。例えば、馬場あき子さんのご主人でいらっしゃる評論家の岩田正さんは、「現代短歌とは、戦争が終わった昭和20年以降の歌のことで、時代的にそれは区分できるものだ」というふうにおっしゃっています。それから、篠弘という評論家がおられますが、篠さんは、「現代短歌とは昭和20年代の末頃から、30年代以降の歌について言うだろう」というふうに述べておられます。篠さんは、時代・年代で区分するよりは、中身で区分したいというお気持ちがあると思います。つまり、昭和20年代の末から起こってきた前衛短歌の影響を受けながら育ってきた歌、それを現代短歌というふうに言おうとしていらっしゃるのだと思います。また、岡井隆さんは、「現代短歌とは、前衛短歌のことである」というふうにズバリ言っておられます。そして、『うた』を主宰しておられる玉城徹さんは、「現代短歌というものを、いつの時代のどんな歌ということを、時代的にも内容的にも区分して規定することはとても困難なことである」というふうに言っておられます。
 つまり、現代短歌というものは何かということについても、今挙げた4人の方々の意見が代表しておりますように、時代区分で戦争以後の歌と考えるか、戦争以後、前衛短歌が起こってきた以降、何かの意味で前衛短歌の影響を受けてきた歌と考えるか、現代短歌とは前衛短歌そのものを指すのだというような考え方、いやいやとてもそんなふうに簡単に割り切れるものではないという玉城さんの説。いろいろございまして、私は迷うわけでございますが、このお話が下手な分を助けてもらおうと思って、ご面倒をかけてプリントを作っていただいたわけですけれども、プリントの歌を選び出しながら、私なりに考えましたことは、現代短歌とはもしかすると、昭和20年代の末、前衛短歌が起こってきて、それ以後の、何らかの意味で前衛短歌の影響を受けてきた歌、それが現代短歌なのかもしれないな、というふうに考えられてまいりました。
 私は女学校の1年生の頃、生まれ故郷が盛岡でございましたから、どこへ行っても啄木の歌碑があるような風土に育ちました。そして女学校の1年生の頃から、歌を作り始めて、もう45年にも6年にもなろうとしております。私が奈良へ参りまして、前川佐美雄さんにお会いできました。前川さんのもとで4年ほど、歌の手ほどきを受けたのでございますが、その私が生まれて初めて、現実に会うことのできた歌人でありました前川佐美雄さんは、私たち学生に向かって、「写真のようなのは歌ではない、絵のように心で描いたものが歌だ」とお教えになりました。写真のような歌でなく、心の中で描いた絵のようなもの、それを歌だとお教えになりました。それは私が生まれて初めて憧れてお会いした、初めての歌人でございましたから、前川さんのおっしゃる言葉は天の声、神の声として私の心に沁み入りました。心で描く絵、そのような素晴らしいものであるならば、歌に命をかけてもいいのではないかと、そういう気持ちが私をよぎりました。もし私が初めてお目にかかった歌詠みが、前川さんのような方ではなくて、写実派の歌詠みであられたとしたら、私は歌をそのまま何十年も続けたかどうか分かりませんでした。
 その前川さんのもとで幸せな生活をしておりましたが、長くは続かなくて、戦争が激しくなって、半年繰り上げ卒業ということになりました。昭和19年9月のことでございましたが、私は奈良を去ることが悲しくて、前川さんにお別れに行きました「私は岩手県に帰って、学校の教員にならなければなりません。私の歌などどうなるのでしょうか」。前川さんは慰めて言われるのでした「大丈夫、岩手県にだっていい歌人はいるし、あなたは岩手県にいつまでもいる人ではなくて、多分東京へ出るだろう。東京に出たら木俣修を訪ねなさい。必ず木俣修だよ」。そうはなむけの言葉を言ってくださるのでした。
 それから岩手県に帰って教員になりましたが、私の赴任したところは釜石という、釜石製鉄所のある町でございましたので、終戦間際に何度も艦砲射撃にやられて、町は廃墟のようになってしまいました。私の歌も歌どころではなくて、途切れ途切れでございましたけれども、昭和24年になって東京へ出ようと心を決めて、大宮まで参りました。
 そして昭和24年の秋に、木俣修の門に入りました。この間4月4日に亡くなってしまわれましたが、34年お付きしました。木俣先生は入門して間もない私に、「歌はマラソンだよ」とお教えになりました。「一生走り続けて、そして死んで、棺の蓋が覆われたときにようやく終わるマラソンだ。大丈夫かね」と言われるのでした。「しかもそのマラソンは、敵は誰でもない、自分自身なのだよ。自分の弱い心や怠ける心や、落ちていく心や、そういうものを常に敵にして、生涯走り続けるマラソンなのだが、あなたに耐えられるかね」というように言われるのでした。歌は生涯かけて続けるマラソンのような、むごい修行であるということを、木俣修は教えたのでした。前川さんが言われた、写真のような歌でなく心で描く絵のような歌を、木俣修が教えたように、生涯かけて走り続けて作り続けるという、厳しい歌の修行に、私は思えば入っていたのでございました。
 しかし振り返って自分の歌を考え、先ほどの現代短歌とは何かということに照らして考えますと、私の歌は確かに前衛短歌の影響を受けてはおりますけれども、内容的に言えば、自分がこんなに苦しくて、こんなに悲しくて、一生懸命生きているということを、告白しただけの、コンフェッションっていいますか、告白しただけの歌にすぎないことを考えてしまいます。そして、少女時代に憧れて習った石川啄木の歌そっくりのような歌を、今も綿々と作り続けているような思いもございまして、私の歌は現代短歌ではないなあ、まあ近代短歌というところかなというふうに、このプリントに優れた歌を書き写しながら考えたことでございました。
 現代短歌、こう考えていますうちに私は先ほども申しましたように、昭和20年代の末、それは象徴的な出来事として、昭和29年に中城ふみ子という女流歌人が現れるわけでございますが、その前後から後の歌、というふうにだんだん考えられてまいりまして、それは先ほどの4人の評論家の言葉の中で当てはめて考えれば、篠さんの、昭和20年代末からの歌というふうになってくるのではないかと思います。
 時間がございませんので、作品を読んでまいります。1番。『白き海月にまじりて我の乳房浮く岸を探さむ又も眠りて』『白き海月にまじりて我の乳房浮く岸を探さむ又も眠りて』。中城ふみ子の歌でございますが、今ではがんというような病気は私どもの日常にあふれておりまして、恐ろしい病気でございますが、昭和29年頃、今から30年前、そんなにがんという病気は一般的なものではございませんでした。そんな中で、中城さんは乳がんを病んで、乳房を取ってしまうという悲劇に遭われたわけですけれども。
 昭和29年の5月号の『短歌研究』でございましたが、戦後の新歌人集団の活動もようやく下火になって、平和な波風のない歌壇に一石を投じて、新しい波を起こそうとした、当時のジャーナリズムの意向であったと思いますが、昭和29年に第1回短歌研究賞というのが募集されました。そのときに応募して1位になったのが、中城さんの『乳房喪失』でございました。女性が乳房を失うということは、女性の象徴を失うことであり、命を失う以上につらいことであったと思いますが、中城さんはそのことに真っ向から取り組んで、鮮烈な歌を作られました。
 この歌を読んでみますと、私の失われた乳房は、もしかすると白い海月に混じって、どこかの海の岸辺にぽっかり浮かんでいるのかもしれない。幻想の世界でございますけれども、夢の中でその失われた乳房を探しに行こうという歌でございます。じめじめとただ詠むのでなく、それを文学化して表現したということに大きな意味があったと存じますが、その『乳房喪失』の50首を、当時ちょうど30くらいでございました私は、読みながら体が震えるのを覚えた、それほど鮮烈な登場でございました。この中城さんを発端にして、次々に女流の歌が起こり、昭和30年以降、女流の時代、女歌(おんなうた)の時代などというのが現れてくるのだと思います。このあたりから女流の歌も大きく変化してきているように思います。
 2番の歌は、この方も先日亡くなりました、寺山さんの歌でございますが、『マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや』『マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや』。マッチを擦ると、一面に霧の深い海が見えただけ。この海に漂って浮かんでいる日本という国。その国は、自分の身を捨てて守ることに値するほどの祖国であろうかと、そういう歌でございましたが、当時の敗戦後のしばらくたった、祖国喪失というのでしょうか、そういう思いが描かれている歌でございました。
 3番は『馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ』『馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ』。寺山さん、塚本さん、岡井さんを、3人の巨頭とした前衛短歌の運動は、寺山さん、塚本さん、岡井さんを中心に進められて、昭和30年代初頭の歌壇を彩ったわけでございますが、塚本さんの第1歌集『装飾樂句』、『水葬物語』というのが出ましたのが、昭和26年でございました。そのあたりから、前衛短歌の芽生えはあったわけですけれども、昭和30年代になって、その勢いが隆盛に赴いたということになると思います。
 ご存じのように、前衛短歌というのはフランスの象徴主義というような詩の手法を取り込んで、歌を新しくする運動でございました。戦後、戦争中に失われた人間を回復するために、昭和20年代の戦後の歌は、新歌人集団の人たちによって、そして戦前からいた作家たちによって、人間を歌う、人間回復の期間であったと存じますが、失われた人間を歌う、何を歌うか、人間回復を歌うということに精いっぱいの時期でございました。それをいかに歌うかということに、まだ届かなかったところがあったと思いますが、それをいかに歌えばリアリティーを持つかということを、歌壇にもたらしたのが前衛の短歌であったのではないかと思われます。そのいかに歌うかの表現の方法として、前衛の方たちが、あるいは比喩、メタファー、類比、アナロジーというふうな手法を大胆に持ち込んでおります。
 この馬を洗はばの歌などは、さだめしそのアナロジーの歌であろうかと思いますが、馬を洗うなら馬の魂がさえざえとさえ渡るまで洗わなければならないし、人を愛するならその人をあやめてしまうほど、殺してしまうほど恋するのが本当の愛だというふうに、馬と人の恋を対比させた形で、鮮やかに歌いだした歌でございます。アナロジーというような新しい手法を入れた、塚本さんの代表作のように言われている歌でございますね。
 4番。『肺尖にひとつ昼顔の花燃ゆと告げんとしつつたわむ言葉は』『肺尖にひとつ昼顔の花燃ゆと告げんとしつつたわむ言葉は』。ご存じのように岡井さんは内科医でいらっしゃいます。お医者様ですが、その見ている患者さんの肺尖に、一つ昼顔の花が燃えているほどの炎症が、患部がある。その悪い部分を患者に告げようとして、言葉がたわんでならないという歌ですけれども。肺尖に病があることを、『肺尖にひとつ昼顔の花燃ゆ』と、そういうふうな比喩を使っているわけですね。医者としてその患部のことを患者に告げるのに、言葉がひるんでならない、というような歌。
 5番。『またひとり顔なき男あらはれて暗き踊りの輪をひろげゆく』『またひとり顔なき男あらはれて暗き踊りの輪をひろげゆく』。岡野さんは、釈迢空の最後のまたとないお弟子であられました。戦争を体験しております。戦友たちをたくさん失った体験を持っているわけですが、お盆が来て、盆踊りが踊られている。暗き踊り、薄暗がりの中で踊られている盆踊りの輪が、人数が増えて広がっていく。その暗がりの中に何かしら、顔のない男、戦死者の1人なのでしょう、誰とも分からない戦死した友達が加わって、その踊りに混じっているように思われてならない、という歌でございますね。戦争の痛みを歌うときに、こういう歌い方ができるということは、大きな驚きでございました。
 その次は、武川さんの歌。『忌の日を長くまもりて戦後ありひとりの夜のわが魂おくり』『忌の日を長くまもりて戦後ありひとりの夜のわが魂おくり』。武川さんは体が弱くて、戦争に行けませんでしたが、今60いくつでいらっしゃいましょうか、戦争世代なわけですね。たくさんの友達を、同士を、同世代者を戦争で失って、深い忌中のような、喪のような思いで戦後を暮らしている。お盆の精霊送りのときには、1人で、その戦争で亡くなった人々の魂送りをしようという歌でございます。
 そして吉野さんの歌。『根かたより仰げば星のある空を押しのけて杉の葉叢しげれり』『根かたより仰げば星のある空を押しのけて杉の葉叢しげれり』。根元から上を仰いでいると、杉の大木。星空を押しのけるように杉の葉叢がしげっている、と歌っているのですが、押しのけるように、などと言わずに、空を押しのけて、と端的に歌っていて、これも写生の歌であるよりは、心の表現であるような歌になっています。
 島田修二さんの歌。『ただひとり生まれ来しなり「さくらさくら」歌ふベラフォンテも我も悲しき』『ただひとり生まれ来しなり「さくらさくら」歌ふベラフォンテも我も悲しき』。(註:原歌は『ただ一度生まれ来しなり「さくらさくら」歌ふベラフォンテも我も悲しき』)戦後、国賓歌手のハリー・ベラフォンテが日本に来て公演したことがありました。国賓歌手のベラフォンテが、たどたどしい日本語で日本の古謡である『さくらさくら』を歌う。それを聞いていた作者は、ベラフォンテも自分もたった一人、たった一度生まれてきた命だ、としみじみ感動しております。
 9番。『感情のなかゆくごとき危ふさの春泥ふかきところを歩む』『感情のなかゆくごとき危ふさの春泥ふかきところを歩む』。上田三四二さんはリアリズムの、写実派の作者でいらっしゃいますけれども、何々は何々のようだと歌う、ごときでつなぐ直喩の手法なのですけれども、その直喩が単純ではない歌い方になっていることにお気付きになると思います。春の雪解けのぬかるみの中を歩いていて、感情の中をゆくような感じだと、歌うわけでございます。少しずつ歌の歌い方に変化ができてきているということが、このあたりの歌を読みますと分かるような気がするわけでございます。
 そして女流の歌。『戦争に失ひしもののひとつにてリボンの長き麦藁帽子』『戦争に失ひしもののひとつにてリボンの長き麦藁帽子』。松田さえこさんは佐藤佐太郎のお弟子でございましたが、戦争でリボンの長い少女時代の帽子がなくなってしまった。そのリボンのひらひらと長い麦わら帽子は、作者にとっては少女時代の、というか青春時代の象徴のようなものであったと思います。その麦わら帽子も失ってしまったし、青春そのものも戦争で失ってしまったということを歌おうとしていると思いますが、その麦わら帽子が一つの象徴的な効果を出している歌です。
 11番。『ただ一人の束縛を待つと書きしより雲の分布は日々に美し』『ただ一人の束縛を待つと書きしより雲の分布は日々に美し』。三国玲子さんは鹿児島寿蔵さんのお弟子で、やはり写実派の作家であるわけですけれども。遅い結婚に踏み切ろうとしていた三国さんの、昭和30年代初期の歌でございますけれども、それまで自立して女性の生活をしていた三国さんが、あなたにだけなら束縛されてもいいと決心したと、愛を告白した。その日から雲のありさまが美しく見えるようになったと歌って、格調の高い相聞歌になっており、当時の女性の自立と依存といいますか、そういう二律背反を歌ったような歌になっていると思います。
 次は馬場さんの歌。『足裏を舞によごしし足袋ひとつ包みてわれのまぼろしも消す』『足裏を舞によごしし足袋ひとつ包みてわれのまぼろしも消す』。馬場さんは能に堪能な人でございましたから、初期においてよく能に取材した歌を作られました。作者は何かになりきって、仕舞でも舞っていたのでございましょう。舞い終わってみると足袋が汚れている。その白足袋を包むと、今まで舞台にいて何者かでありえた、その幻も、ともに消すように足袋を一つ包んだ、という歌でございます。舞台の上で何者かになりおおせて舞うことができる。そして再び現実に引き戻される、そういった経緯がこの歌にはよく出ていると思っております。
 13番。『処女にて身に深く持つ浄き卵秋の日吾の心熱くす』『処女にて身に深く持つ浄き卵秋の日吾の心熱くす』。富小路さんは、富小路子爵家のお姫様でしたけれども、敗戦によって一切のそうした恩典を剝奪されて、ちまたに生活力のない父親と放り出されてきた人でございます。彼女の歌う女性の性の神秘の歌は、当時の歌壇の話題になりました。乙女であって体に深く、内部に卵を持っている。そのことを考えて秋の日差しの中に心が熱くなったという歌でございますね。
 山中智恵子さんの歌。『さくらばな陽に泡立つを目守りゐるこの冥き遊星に人と生れて』『さくらばな陽に泡立つを目守りゐるこの冥き遊星に人と生れて』。桜の花が咲き満ちていて、まるで日が差すと泡立つように見える。このもの冥い遊星の一つである地球の上にゆくりなく人間に生まれてきて、今桜を見ている。その桜が泡立つように見える、という歌ですけれど。この冥き遊星、この冥い地球という惑星の上に人間として生まれてきたというようなあたり、現代的な感覚があるように思います。山中さんの歌は、巫女の呪文のような歌だとよくいわれますが、こういうふうに分かりやすい歌を見ますと、優れて現代の歌であるということも考えさせられます。
 16番、安永さんの歌。『紫の葡萄を搬ぶ舟にして夜を風説のごとく発ちゆく』『紫の葡萄を搬ぶ舟にして夜を風説のごとく発ちゆく』。風説のごとくというような比喩が効いている歌でございますね。紫色の深いぶどうを運ぶ船があるということで、その船がまるでちまたのうわさのように、発っていきましたという歌ですね。風説のごとくという比喩がなんとも新しく、奥深いものを感じさせます。
 杜澤光一郎さんの歌。『しゆわしゆわと馬が尾を振る馬として在る寂しさに耐ふる如くに』『しゆわしゆわと馬が尾を振る馬として在る寂しさに耐ふる如くに』。馬がしっぽを振っている、それを『しゆわしゆわ』と表現をしていることが鮮やかな歌でございます。擬態語・擬声語というようなものが昔からありますが、川はさらさら流れ、雨はしとしと降るというような、そういう類型を抜け出して、馬がしゅわしゅわと尾を振っている。その尾を振りながらいる馬を見ていると、馬は馬としてある寂しさに耐え、見ている人間は人間として存在する寂しさに耐えているのだというような思いが、この『しゆわしゆわ』から誘発されて感じられるように思われます。
 次の高野公彦さんの歌。『あきかぜの中のきりんを見て立てばああ我といふ暗きかたまり』『あきかぜの中のきりんを見て立てばああ我といふ暗きかたまり』。高野さんも心の深い歌を作る方でございますが、この1首は割合に分かりいいのではないかと思いました。秋風に立っている首の長いきりんを見て立っていたら、自分という存在の暗い塊のようなものであるということに突き当たった、というような歌ですね。『あきかぜの中のきりんを見て立てばああ我といふ暗きかたまり』。
 次は佐佐木幸綱さんの歌ですね。『真夏陽に磨かれてゆく石一つその中核の闇ぞ恋しき』『真夏陽に磨かれてゆく石一つその中核の闇ぞ恋しき』。幸綱さんらしい歌ではないかもしれませんが、真夏の明るい日差しに磨かれるように光っている石、その石も美しいが、その中核にある闇こそ、自分には恋しく思われるという歌。内面指向のよく出た歌であると思います。
 そして、最近の若い女流の歌。『胎児つつむ嚢となりて眠るとき雨夜のめぐり海のごとしも』『胎児つつむ嚢となりて眠るとき雨夜のめぐり海のごとしも』。(註:原歌は『胎児つつむ嚢となりきり眠るとき雨夜のめぐり海のごとしも』)河野裕子さんは河野裕子さんは、今30代でいらっしゃると思いますが、女性の子どもを産むというような、そういう生理について大胆に、しかも新鮮に歌う作者であると思います。身ごもっていて、まるで自分が胎児を包んでいる袋そのものになって眠ろうとするとき、雨の降っているめぐりはまるで海のように感じられる、ということですが、女性の肉体そのものを、胎児つつむ嚢となりて眠るというような発想が、大変大胆でもあり斬新でもあると思います。
 最後は道浦母都子さんの歌。学生運動をして捕らわれて、獄舎につながれたことのある人でございます。『調べより疲れ重たく戻る真夜怒りのごとく生理はじまる』『調べより疲れ重たく戻る真夜怒りのごとく生理はじまる』。取り調べを受けていて、疲れて夜更けに自分の収監室に戻ってくる。その夜、まるで怒りが噴き出したように生理が始まった。女の身であることの哀執というようなものを歌っていると思いますが、学生運動の一つの歌として考えて、男性の歌う歌と違った、女性ならではの歌が、生理はじまるというような、今までは誰も書かなかったかもしれないようなことを、端的に述べて、女の怒りを表したような歌でございます。
 このような歌を、たまたま目に触れて覚えていた歌を書き出したわけでございますけれども、現代の短歌というのは、このように内面表現、内部の魂を表現する、そういう歌のことをいうのではないかと、ふと思うわけでございます。大体現代短歌、明治以後の短歌を振り返ってみますと、旧派の歌から脱した新派の歌が、まず物を描くことから出発して、そして描くことから、描くことを通して内部を表現するというふうな、反写実ともいうべき方向に進んでいるのかもしれません。戦後の第二芸術論といった、短歌滅亡論を経て、そして前衛短歌の波をかぶって、現代の歌がこういうふうに歌われているということを、私はつくづく考えさせられたわけでございます。
 物の見方、考え方、生き方、それが新しくならなければ、歌は新しくならないと、私の師匠の木俣修は教えました。いかに現象の背後にあるものを見て歌うか。その見方を大事にするように教わりました。そして大切なことは、これは分かりいい歌だからいいと、分からない歌は、意味の不明な歌は分からないから駄目だというふうに、分からないものを否定しては、歌は進まないのではないかと思います。作者が表現しようとしているものが何なのかということを、深く汲み取る態度もなければならないように私には思われます。
 師匠の木俣修に亡くなられてしまった現在、残されているのは、「歌は生涯のマラソンである。敵は誰でもない、他人ではない、自分自身である」というようなことを、いまさらに思い出すわけでございますが、折に触れて、「現象の背後にあるものまで見通す力を持たなければ、歌は深くならない。ただ言葉だけを飾ったのでは心の表現にはならないのだ」と、そう教わったことをいまさらに思い出しまして、これからも現象の背後を見通すほどの眼力を持ち、物の見方を深くして、そして少しでも師匠の教えてくれた歌を、マラソンを続ける中で実践していきたいと考えている私でございます。
 大変拙いことでございましたけれども、前衛の波をかぶりながら歌がこのように歌われているというようなことを、自己表現のためにこのように歌われているということを、お話し申し上げて、ちょうど時間になりましたので、拙いお話を終わらせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。
 
(無音)
 
(了)
 
(講演原稿を自宅にて練習で読み上げた録音テープか?)