さいたま市立大宮図書館/おおみやデジタル文学館 ―歌人・大西民子―

音声資料

「短歌講座」

昭和59年10月19日

 
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大西 ・・・『墨絵見るごと朝のひととき』『湯の町はひと夜明ければ雪景色墨絵見るごと朝のひととき』。どこかいで湯の町、温泉町に宿って一晩明けたら、翌日は雪景色になっていた。その朝の景色はまるで、墨絵のように美しい景色であったという歌ですね。『湯の町はひと夜明ければ雪景色墨絵見るごと朝のひととき』。そこのところ、そうですね。このままでも雪景色がまるで墨絵のようだったという感じが分かると思うんですが、墨絵見るごとしと入れて、そこで一回止めましょうかね。『墨絵見るごとし朝のひととき』。または、墨絵のごとしでもいいですが。墨絵見ると入れなくても、『墨絵のごとし』、雪景色とあるからね、『墨絵のごとし朝のひととき』でもいいかもしれない。『湯の町はひと夜明ければ雪景色墨絵のごとし朝のひととき』。または、ひっくり返して、『朝のひととき墨絵のごとし』とやってもいいし、どちらか落ち着くほうを選んで、そして歌っていらっしゃればいいと思います。
 一夜明ければというのは口語で歌っていますね。明けたらと歌っていますが。もし、文語にするんだったらどうなるかしら。ひと夜明くれば。もし文語でまとめたいときは、『湯の町はひと夜明くれば雪景色朝のひととき墨絵のごとし』とでもしますと、まとまったいい歌になると思います。
 私が木俣修という先生から教わったことで、忘れないことなんですけれども、「歌の一首も一つのセンテンス、文章だから、一首ワンセンテンスだから、どこかでピリオドをきちっと打つところを作って、一首がまとまった文章でなければいけないよ」って、よく教わったんですけれども。『墨絵のごとし』と終止形でどっかでまとめておくと、この一首もきりっとするんじゃないかな。『湯の町は一夜明くれば雪景色朝のひととき墨絵のごとし』とこうすると、そこでピリオドが打てて、句読点がちゃんと打てますね。丸が打てる。そんなふうに、一首の歌は一つの文章としても成り立つように、きちっと止めるということね。どこで止めてもいいんだけれども、どこかで止めるということも一つの技術ですから、そのことも頭に入れておかれてください。
 9番。『無視という言葉にならぬ完全な排除もありて小会の席』『無視という言葉にならぬ完全な排除もありて小会の席』。これは、心をひやっとさせるような歌です。よく人間の社会の中で、無視するということが、存在を無視するということがある。そのことが、言葉にはならない、完全な排除だって言ってるんですね。無視されることは完全に排除されることだなと思いながら、小さい集い、何かの集いにいましたというところですね。無視されること、一番人間にとって屈辱なんじゃないかな。何か悪口言われたということは、存在を意識されることなんだけれども、なんにも言われずに無視されちゃうってことありますね。たまにありますよ。それが一番つらいことだ、そんなことを作者は考えている。何かの集いの席で、小さい会の席で、完全に無視されたということがある。『無視という言葉にならぬ完全な排除もありて小会の席』。作者自身が無視されたとは限らないですけれども、この歌の場合。ああ、無視されてるなあという誰かを思いやってるのかもしれないけれども、無視ということは完全な排除だな、そう思って、小さい会の席に連なっていたという歌なんですね。
 『排除もありて小会の席』と、うまくしゃれたというか、技巧的にまとめて、こういう歌は名詞止めというのですね。名詞で止まっているから、名詞止めの歌。
 
A- 難しい歌ですね。
 
大西 ちょっと難しいけれども、人間の社会によくあることをきっかりと認識して歌っているんですね。『無視という言葉にならぬ完全な排除もありて小会の席』。そういう場面に行き当たって歌った歌なんですね。これはこれで、心の深い歌ということができるでしょう。ああいうふうに無視されたらかなわないなあと思いながら、作者いるのかもしれませんね。
 11番。『孫抱くを果たせず逝きし母の分われはいつしかひしと孫抱く』『孫抱くを果たせず逝きし母の分われはいつしかひしと孫抱く』。お孫さんを抱くということを果たすことができなくて、お母さんは亡くなられた。でも、自分には孫ができて、お母さんの分もしっかりお孫さんをかわいがろうと思う。で、『いつしかひしと』、ひしひしと心を込めて胸にお孫さんを抱いているということですね。『孫抱くを果たせず逝きし母の分われはいつしかひしと孫抱く』。お母さんはこんなお孫さんのかわいさを知らないでかわいそうだったなと思う。その分自分がお孫さんをかわいがろうと思う。そう思って幸せをかみしめている歌でしょう。お母さんに悪いなと思いながらね。これはこのままよくて、次のページ行きまして。
 13番。『愛さるる幸せ忘れしわがほほに夜風優しく触れて過ぎゆく』『愛さるる幸せ忘れしわがほほに夜風優しく触れて過ぎゆく』。いつの間にか、年をとったせいもあるのか、人に愛されるという幸せを忘れて生きている私だなと思う。そんな私のほほを、夜風だけは優しく触れて過ぎていきますという歌で、寂しい歌ですね。『愛さるる幸せ忘れしわがほほに夜風優しく触れて過ぎゆく』。夜風がほほに触れて優しいことにさえも、心を動かさせられるような、そういう自分だなと思う。愛される幸せをいつしか失って忘れてしまった私だな。自分への思いをひたひたと歌っていますね。
 愛さるる幸せ「を」と入れてみましょうかね。そのほうが緩やかになるかもしれない。『愛さるる幸せを忘れしわがほほに夜風は優しく触れて過ぎゆく』。夜風はと「は」を入れて、『愛さるる幸せを忘れしわがほほに夜風は優しく触れて過ぎゆく』。今、「を」と「は」を補いましたけれども、何々は、何々を、何々へ、何々に、というそういう助詞という言葉は、てにをはと昔は言いましたが、言葉をつなぐ役目をする潤滑油、油のような仕事をする言葉ですので、てにをは、助詞、何々は、何々を、何々へ、というような、言葉の一つ一つをつないで、緩やかに歌うということも大切なことだと思います。『愛さるる幸せを忘れしわがほほに夜風は優しく触れて過ぎゆく』。ああ、でも夜風だけは優しいわと、ほっとしたような気分をよく出していますね。これは浪漫派の歌かな。
 それから、15番。『夫(つま)の手術案ずる子に添い手術灯心静めて消ゆるとき待つ』。夫(つま)の手術、夫の手術でもいいけども、『夫の手術案ずる子に添い手術灯心静めて消ゆるとき待つ』。お嬢さんの旦那さまが手術を受けている。それをしきりに気遣っているお嬢さんの様子。その人に付き添って作者もいる。手術室の前で、手術中という、あの明かりがともっている間、終わるのを待っているわけですが、『夫の手術案ずる子に添い手術灯』。手術灯とそこで切れてね、『心静めて消ゆるとき待つ』としますと、消えるのは手術灯でしょう。そうすると、心静めてが間に入ってしまって、消えると手術灯の間が離れてしまう心配があるのね。だから、『夫の手術案ずる子に添い手術灯の消ゆるとき待つ心静めて』とそこをひっくり返してご覧になると、この歌落ち着きます。『夫の手術案ずる子に添い手術灯の消ゆるとき待つ心静めて』。ひっくり返してみる。そうしますと、『手術灯の消ゆるとき待つ』と、その明かりと消えるという言葉がうまくつながるわけですね。言葉はなるべくつなげて使うということも大切な技術だと思います。『夫の手術案ずる子に添い手術灯の消ゆるとき待つ心静めて』。
 お嬢さんもなかなか大変だけれども、お嬢さんの付き添いである作者もはらはらする。でも、自分は落ち着いていなきゃいけないんだわと思って、心を静めて一緒にいたというのですが、心静めてを下へ持っていくことで、その気持ちが深まるということですね。『夫(つま)の手術案ずる子に添い手術灯の消ゆるとき待つ心静めて』として、心を静めたということを少し大切に表現したほうがいいかもしれないと思いました。こういう場面がしょっちゅうあってはかないませんが、こういうときにしっかりと歌っておかれるのも、後で思い出になりますね。
 17番。『樹木緑花紅に小鳥呼ぶ風爽やかにここぞ楽園』。樹木緑、じゅもくと読むかな、きぎでしょうね。『樹木緑花紅に小鳥呼ぶ風爽やかにここぞ楽園』。こんないい場所があるのかなと思ったんですけれども、18番の歌を読んだらワイキキとあったので、ハワイにいらした、ハワイの歌らしいですね。そう言われると、ハワイは楽園のようなところだと言いますから、樹木は緑に色濃く茂っていて、咲いている花はハイビスカスかなんか咲いているのかな、花は紅。そして、小鳥がさえずっている。風も爽やか。本当に、なんにも言うことがなくて、これこそ楽園だわと思って、ハワイの旅を楽しんでいる様子をよく表していますね。『樹木緑花紅に小鳥呼ぶ風爽やかにここぞ楽園』。私は何かこの歌で思い出す唱歌があったの。君よ知るや南の国という、昔女学校の頃歌った歌で、君よ知るや南の国、その国がいかにも美しい園だっていうことを歌った歌があること思い出したんですけども。君よ知るや南の国に出てくるような、楽園のような世界をハワイで体験なさったのですね。『樹木緑花紅に小鳥呼ぶ風爽やかにここぞ楽園』。また、日本に帰れば苦労な生活が待っているわけだけれども、しばしハワイで楽しい楽園に遊びましょうという歌ですね。
 それから19番。『秋風に揺れいる萎えし朝顔の花数記せし母は逝きたり』。『秋風に揺れいる萎えし朝顔の花数記せし母は逝きたり』。きせしと読むかな。秋風に揺れて、もう咲き残った朝顔が萎えて、しぼみかかって揺れている。その朝顔の花を、亡くなったお母さんはよく数えて、きょうはいくつ咲いた、きょうはいくつだったというふうに朝々数えて花を記していたお母さんだったけれども、そのお母さんもいなくなって、秋風に揺れながら咲いている朝顔は寂しそうに見えるのでしょうね。『秋風に揺れいる萎えし朝顔の花数記せし母は逝きたり』。お母さんがいなくなったことを、また秋風の中の朝顔で懐かしく、悲しく思い出しているのでしょう。
 このままでもいいのですが、朝顔にかかる言葉として、秋風に揺れいる朝顔であり、萎えし朝顔なので、朝顔に二つの形容がかかってくるのですね。『揺れいる萎えし朝顔の』と続くよりも、『秋風に萎えて揺れいる朝顔の』のほうが、言葉としたら優しいかもしれません。『秋風に萎えて揺れいる朝顔の花数記せし母は逝きたり』。萎えて揺れいる朝顔。そこのところで、花数記せし、きせしでもどちらでもいいですが、記せし母は逝きたりとするか、母も逝きたりとするか、どっちかなんですが、『秋風に萎えて揺れいる朝顔の花数記せし母も逝きたり』。少し柔らかくなるかもしれない。お母さんももういないわあ、という感じね。母も、とすると。この「も」もさっきのてにをはの一つなんですけれども、「も」という言葉は、何々も、何々も、というような、並列の言葉であると同時に、感情を込める言葉でもあるんですね。『花数記せし母も逝きたり』。お母さんももういないわという感じで少し感情がこもるかもしれませんね。そんなところをちょっと考えて。
 21番。『薄緑芝生の脇に赤々と友の館に鶏頭の咲く』『薄緑芝生の脇に赤々と友の館に鶏頭の咲く』。芝生が薄緑に広がっている。その芝生の脇に、ケイトウが咲いているお友達の館っていうんだから、館というのには、立派なおうちでしょうね、立派なおうち。広いお庭を持ったおうち。そこを訪問したらしいですね。『薄緑芝生の脇に赤々と友の館に鶏頭の咲く』。薄緑の芝生と、赤々と咲いているケイトウと、その色の対照を作者は出したかったのかもしれませんね。『薄緑芝生の脇に赤々と友の館に鶏頭の咲く』。
 このままでも構わないんですけれども、言葉と言葉をつなげる役目というか、そういうものがもし必要だとすると、薄緑ってそこで切れちゃうんですね、薄緑。そういうようなところを切らないために、例えば、緑なすというような言い方がある。『緑なす芝生の脇に』、とするとつながるんじゃないか。『緑なす芝生の脇に赤々と』。薄は消えますけれども、『緑なす芝生の脇に赤々と友の館に鶏頭の咲く』。花は要らないでしょうね。『緑なす芝生の脇に赤々と友の館に鶏頭の咲く』。そして花は取っても咲くだから、花に違いないでしょうからね。『緑なす芝生の脇に赤々と友の館に鶏頭の咲く』。いい風景を、お友達のおうちで捉えて歌っていますね。21番はよろしいでしょう。
 次は23番。『挿されたる木犀の花小さく冴えあらがうごとし強き香放つ』『挿されたる木犀の花小さく冴えあらがうごとし』、さからうかあらがうか、どちらでも読みますが反抗すること、『あらがうごとし強き香放つ』。花瓶に挿したモクセイの花が小さくさえざえとしている。そして強い香りを放っているのを嗅いでいると、まるで逆らうみたいに、反抗するみたいだなと思った。小さい花なのに、何となくあらがうように強い香りを放っていたということですね。『挿されたる木犀の花小さく冴えあらがうごとし強き香放つ』。この歌では、小さく冴えと歌っていて、ここで作者はモクセイの花の、あの黄色の、オレンジ色の花をよく見たのでしょうね。『挿されたる木犀の花小さく冴えあらがうごとし』とありますけれども、下に続けるのにはどうする? あらがうごとくですね。『あらがうごとく強き香放つ』とすれば、下の句が一つにまとまって、しっかりすると思う。『挿されたる木犀の花小さく冴えあらがうごとく強き香放つ』。まるで、小さいけども、力を見せて、反抗するかのように強い香りを放ってやまない。そういう、モクセイの存在感というようなものを歌おうとしていらっしゃるのでしょう。
 25番。『喪のおのこ泣く母姉を諸に抱き瞳うつろに幼痛まし』『喪のおのこ泣く母姉を諸に抱き瞳うつろに幼痛まし』。この歌が少し分かりづらかったんだけれども、どういうことでしょう。『喪のおのこ泣く母姉を諸に抱き』、両手に泣いているお母さんとお姉さんを抱きしめながら、瞳がうつろに見えている幼、幼子が痛ましく感じられる。その喪のおのこっていうのは、男の子っていう意味でしょうね、男の子。その男の子と下にある幼というのはどんな関係でしょうね。『喪のおのこ泣く母姉を諸に抱き瞳うつろに幼痛まし』。さっきのお話で、作者が歌いたいことを心ゆくまで歌うことが第一だと申し上げましたが、それが読む人に分からないとしょうがないとも申しましたけれども、読者にちょっと分かりにくくはありませんか。『喪のおのこ泣く母姉を諸に抱き瞳うつろに幼痛まし』。
 26番を見ると、どなたかが亡くなったことが分かる。『身まかりし嘆きのるつぼひつぎ打つとわの別れに泣き音しのびぬ』とあって、どなたかが亡くなったことだけは分かるのですが、『喪のおのこ泣く母姉を諸に』。
 
B- これは弟さんかなんかやないんですかね。姉さんとお母さんを抱いてるっちゅうのは。小さい弟さんのことを抱いてあるんじゃないんでしょうかね。違いますか。
 
大西 どうなんでしょうね。
 
B- そんなふうに解釈を。
 
C- 幼い子どもじゃないですか。
 
B- だから。
 
C- お姉さんも悲しみが分かる。
 
B- お姉さんとお母さんを、その小さい弟さんだか、小さいお子さんが抱いてるっていうことなんでしょうけどね。
 
大西 この歌でね、結局文章には主語と述語があって、何々が何々をしたということになるわけだけど、この歌の場合何が主語になる?
 
(音質不良にて起こし不可)
 
大西 ね。喪になった、人を喪った、肉親を喪った男の子が、という主語があるとして、喪のおのこが主語として、そしてどうしたん?
 
(音質不良にて起こし不可)
 
大西 泣いて、亡くなったのは一家のご主人かな。
 
B- そういうふうに。男の子の、お父さまに当たられるんじゃないでしょうか。
 
大西 お父さんが亡くなって。
 
B- この話ではまだ分からない。
 
大西 その喪った、多分長男の人が泣いているお母さんとお姉さんを両手に抱くっていうのだから、割に大きな男の人でしょうね。
 
D- 17歳でした。
 
大西 17歳。そして、そのお子さんが、泣いているお母さんとお姉さんを両手に抱くようにして慰めているわけですね。そして、最後の幼は誰でしょう。
 
D- 幼顔が残ってる。まだ、幼く。
 
大西 幼子も残っている。
 
D- 17歳ですから、まだ子どもと大人の境。
 
大西 同じ人。
 
D- はい。
 
大西 そうですか。なるほどね。
 
B- 幼顔が残ってるから、その幼顔を見て、何ていうか、かわいそうだっていう感じを出したんでしょうね、と思いますね。まあ17歳ぐらいか知らんけれど、まだ幼顔が残ってるから、それがかわいそうだってことを分けたんですかね。と思いますね。
 
(音質不良にて起こし不可)
 
大西 難しいことだね。それを歌うのはね、一首の中でね。
 
B- でも、そういうふうに解釈できますね。
 
大西 幼痛ましっていうと、幼子というふうにここで解釈されちゃうのね、客観的に考えると。うんと同情して考えるといろいろ考えられるんだけれども、歌を理解するときにあまり同情を期待してはいけないの。冷静に読まれたときにどう読まれるか。同情を拒否する態度でね、きっかりと歌わないと、ああじゃないか、こうじゃないかということになるわけだからね。
 
D- 幼子って、大体いくつぐらいの方を常識では言うんでしょうか。
 
大西 10歳未満でしょうね。10歳未満。
 
B- そうですよね。
 
大西 17歳っていうと青年、少年か青年かね。
 
B- 少年ですからね。少年の部ですね。でも、この場合ではその、顔に幼顔が残ってるのを見て書いたんだろうと思いますね。
 
大西 結局、一首の中でね。
 
A- (####@00:28:59)抱くっていうんだから、(####@00:29:03)。
 
大西 17歳だから、もう、泣いているお母さんとお姉さんを慰める、しっかりとかばってあげるぐらいの男の子なんですね。その男の子が、諸に抱くっていうのも、これも本当はおかしい。
 
A- ちょっとね。
 
大西 もろ手としか読めないからね。もろ手に抱いて。
 
(無音)
 
大西 例えば、一首の中で勝負するってことは難しいことなんですが、五七五七七の中で言うことには限界があるのね。ある程度のことしか言えないから、それを意識しながらまとめていかなければならない。そのおのこが長男であったとして、『いまだ幼顔の残れる悲し』みたいな言い方で下の句をまとめたいですね。『いまだ幼顔の残れる悲し』。
 そうですね、難しいけれども、『泣く母と姉をかばいつつ長男のいまだ幼顔残れる悲し』とかなんかしないといけないかもしれないね。『泣く母と姉をかばいつつ長男のいまだ幼顔残すが悲し』とか。なんか、しないと。
 
A- そうですね。それは読者にはっきり分かりますね。
 
大西 『泣く母と姉をかばいつつ長男のいまだ幼顔残すが悲し』とでもしましょうか。