さいたま市立大宮図書館/おおみやデジタル文学館 ―歌人・大西民子―

音声資料

「短歌講座」

昭和59年10月19日

 
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(無音)00:00:00~00:00:20
 
大西 2回、今週と来週と、2回で短歌入門講座のようなことをお願いされたわけでございますけれども。もうこの中には、歌を作って、何カ月にも何年にもなられる方もいらっしゃると思うし、本当に初めて作られた方もおありだと思うんですが、一応、入門講座、基礎講座という、そういうことでお話をさせていただきたいと思います。
 歌っていうのは、ご存じのように、五七五七七と、定型という、形の決まった詩なわけですけれども。源をたどると万葉集から、もっと古くたどると、古事記とか、日本書紀とか、そういうところにも歌われている形なわけで。古事記とか日本書紀の頃から万葉集までの間、1300年ぐらい前のことですけれども、その歴史の中で、五七五七七という短歌という形が定着してくるのには、長い歴史がかかっているわけですし。片歌とか旋頭歌とか長歌とか、いろいろな歌の形が最初はありましたんですけれども、日本人が自分の考えを、気持ちを表すのに、五七五七七という形が一番ふさわしい形として、1300年も残ってきたわけなんですね。そして、万葉集の後、古今集、新古今集というふうに、たくさんの歌集が作られて、歴史をたどってきたわけですけれども。
 その五七五七七の形は、いまだに、新しい命をもって作られ続けているということで、幕末の志士などが、捕らわれて亡くなるときに辞世の歌を詠みました。そのときも、自分の思いを込めて歌うのに、五七五七七という歌の形が一番ふさわしいものだったのでしょう。それで、辞世の歌っていうのが、いまだに残されているわけです。近くは、三島由紀夫という人が、作家が自殺をしますけれども、あのときも、あまり上手じゃなかったけれども、歌を作っているんですね。そのように、最期の場面に及んで、自分の思いを述べたいというときに、歌の形にする。そして、40年前の太平洋戦争のときも、学徒出陣というので、たくさんの兵隊さん、亡くなりましたけれども、そのときに、最後に「お母さん」と呼んで亡くなる方もいたし、戦死するときですね、最後にやっぱり歌を作って残した人もいるんですね。そういうふうに、人間の魂を打ち明けるのに、一番ふさわしい形として歌があるわけで。それまで歌を作ったことのなかった兵隊さんが歌を作るということを考えますと、歌は、日本人なら誰でもできる、日本語を知っていれば誰でもできるという形であるんですけれども。五七五七七という中で、自分の思いをしっかりと述べて、しかも読んだ人に分かるように作るということは、これは割合に簡単ではないのですね。そこに修行が必要だし、修練も大切なわけですね。
 私が歌を作り始めたのは、女学校の1年生のとき、12、3歳のときでした。それはなぜかというと、私は盛岡に生まれたんです。それで、ご存じのように、盛岡は石川啄木の故郷であるわけですね。どこへ行っても啄木の歌碑があるんです。啄木は、あまり秀才でありすぎたために、故郷の渋民村を追われて、放浪の旅に出て、そして、歌を作り続けて26歳で亡くなってしまうんですね。そういう数奇な運命をたどって、歌を作り続けた石川啄木っていう人に、少女でしたから、少女時代の憧れとして、歌をまねをして作っておりました。女学校のお友達は、大体、歌や俳句を作っておりましたけれども、私だけが馬鹿の一つ覚えのように、それから50年も歌を作り続けて、今年、この間60歳になりました。花束をいただいたんで、「これ何」って言ったら、「先生還暦です」って。そんなはずないと思ったんですけれども。もう、だから、12歳から歌を作り続けたとして、48年間も歌を作り続けているわけですね。そして、いろいろな賞をいただいたりもしたんですけれども、自分の思いを十分に歌えて、よくできたなと、自分の思いがしっかり歌えるなと思う頃には、もう30年たっておりました。30年たった頃、やっと自分で納得できる歌が作れるようになっていたと思う。だから、誰にでも作れるかわり、奥が深くて、なかなか到達しない道であるわけですね。
 私は、昭和24年から、木俣修という、去年の4月に亡くなった先生に、昭和24年からお付きしたのですけれども。木俣先生は、短歌を本格的に始めようとする私に向かって、「歌は一生続けるマラソンだよ」とお教えになりました。「マラソンっていうのは、走り続けなければ勝てないんだよ。そのときに、マラソンに敵がいるかというと、歌の場合は敵は自分一人だ。怠けようとする自分や、くじけようとする自分を敵として、自分自身で戦いながら、走り続けるマラソンなんだ。そして、そのマラソンが終わるのは、ひつぎのふたが覆われるときだ。死んだときにそのマラソンは終わるんだ。走り続けて一生を終わるのが、歌のマラソンなのだよ。やっていけるかね」とおっしゃいました。私は、一生懸命そのとき、昭和24年だから、27、8だったでしょうか、「一生懸命やりますから」ということで、教わって始めたんですけれども。本当に自信を失ってしまって、やめたくなったりいろいろいたしましたが、何とか励まされたり、自分で勉強したりして、ここまでやってきたわけです。だから、特別に才能がある方は別として、歌というのはなかなか上達しないものなんですね。それが、もう、ごく普通のことで。だから、思うように歌えないからといって、すぐ投げ出してしまうようなものではなくて、一生続けて、どこまでいけるか自分を試してみるような、そんな文学なのだろうと思います。
 で、歌の最初の心構えとしては、五七五七七という定型を守りながら、思いの丈を、ともかく心ゆくまで、思ったことを歌ってみるということが1番であろうと思います。その自分が思ったことを思い通りに歌ってみて、それが、読んだ人に分かってもらうということが2番目だろうと思います。人に分かってもらえなくてはつまらない。分かってもらうためには、言葉の約束を守らないと、自分ではそんなつもりじゃないのに、読んだ人は別の意味に解釈したりしますから。言葉を正しく使って、読んだ人が分かるようにするというのが、2番目だと思いますね。まず歌いたいことを歌って、それが1番。そして、それが読んだ人に分かるように歌うことが2番。そして、できれば、読んだ人に感動を与えたい。なるほどな、と感心させたい。それが3番目であろうと思います。そして、人に感動させた最後に、その歌が、歴史上に残って、死んだ後も歴史に残って文学史に記される、そういうような命の長い歌を作るというのが、最終の目的であろうと思いますね。万葉集には4500首も歌が残っていますけれども、今読んでも、いいと思う歌はそうたくさんはない。名歌と言われるものはそうはないものなのですが、できれば後世にも残るような歌を作ることができたら、歌人冥利というか、歌を作ったかいがあるものだと思いますけれども。そこまではなかなかいかないと思いますね。
 例えば、明治時代でいうと、与謝野晶子という人がいました。あの人は大変歌をたくさん作って、子どもが11人か2人いまして、子どもを養い、ご主人の与謝野鉄幹という人も、あまり生活能力のない人だったから、与謝野晶子は一生懸命働いて、夫を養い、子どもを育てなければならなかった。そのために、歌を作って売って、子ども育てなければならなかったから、たくさん歌を作ったんですね。5万首も作ったと言われている、一生の間に。その中に、じゃあたくさん名歌があるかっていうと、そんなにはないんですね。何首もない。与謝野晶子であったって、そんなに、後世に残って名歌と言われて、永久に残るような歌は、そうはたくさんないんですね。だから、晶子ほどの人でも、そんなには、よう名歌を作るわけではない。そういうことを考えますと、自分なりの歌を作って、できるだけ上手になって、そして終わるのがいいんじゃないかなと私などは思っております。
 で、歌を作る上に、そういう、思ったことを思い通り歌う、人に分かるように歌う、できれば人を感動させたい、そう思いながら歌を作っているわけですけれども。その、歌を作る上に大事なことっていうのは、言葉をたくさん知っていることだと思います。悲しいといっても、いろいろな悲しさがあると思うんですね。たくさん言葉を知る、そのためには、たくさん辞書を引くということが大事であろうと思います。この言葉が本当にふさわしいかどうかっていうのは、字引を引いて、確かめてみるということが大事だと思うし、それから、物を見るときに、よく物を見て、思い浮かんだらちょっとメモしておくということも大事だと思います。
 今、この方に車に乗せていただいて、大宮からまいりましたけれども、雨の中にセイタカアワダチソウが咲いていました。そして、車がストップになって、信号で待っているときに、ふと車の窓の外を見たら、セイタカアワダチソウが咲いていて、もう終わりのほうの花なんですね。『咲き残る泡立草は雨の中』、上の句ができた。ちょっとしたときに、『咲き残る泡立草は雨の中』、下の句を考えて付ければいいでしょう。そういうふうに、何か見たときに、ハッとこう考えて、心に留めておく。でも忘れっぽいから、書いておかないとだめなんですね。ちょっと浮かんだ言葉をメモしておく、ということも大切なことであろうと思います。『咲き残る泡立草は雨の中』。そのときに、自分がどんな感じを持っていたかっていうことを、下の句で七七と付ければ、一首の歌ができる。そういうふうに、ものを見たときに、サッと感じて、書き取っておくということが大事だと思います。
 五七五七七というのは、短いようでも曲がりくねった言葉遣いですから、一気に、五七五七七とできることはなかなかないので、上の句だけでもいいし、下の句だけでもいいから、思い浮かんだときにちょっと書いておく、メモをする習慣をつけるということも大事でございますね。主婦の人たちは、時間を切れ切れにしか持っておりませんから、じっくりと考えて、五七五七七をまとめる時間はなかなかないものですから。ポケットに、メモ帳と、鉛筆のちびたのを持っていて、そして、思い浮かんだときにちょっと書いておく。そして、ちょっと時間があったときに、みんなが寝てしまった後、まだ眠くないようなときにでも、たとえ30分でも1時間でも、机の前で、その切れ切れの言葉をつないで歌にしてみる。そういう習慣がつきますと、歌というのは、自分のものとして残っていくと思います。そういう努力をしないでいては、なかなか歌はできないものであろうと思います。切れ切れの時間を利用して、思いついた言葉をメモしておいて、それをまとめる時間を見つけるということ。そういうことを心がけていらっしゃれば、歌というものはおのずからできていって、そして、一生のうちに、何百首か何千首か、できあがっていくんだろうなと思います。
 きょうのこの講座では、語彙を増やす、言葉をたくさん知るということ、それから、どんな場合に歌を作るかというようなことを知る材料として、毎日の全国大会と、朝日の全国大会で、いい成績を収めた歌を、何首か引いてきてあるわけです。それを読んで、ああ、こういう歌もあるんだというようなことを、参考にしてね、そして歌を作っていかれるとよろしいのではないかと思います。
 
(無音)00:15:54~00:16:08
 
大西 プリントを作っていただきました。『秀歌鑑賞』の1というプリントでございますが、これは、6月に行われた第5回毎日全国大会の、入選した作品でございますけれども、それぞれの歌い方をして、それぞれの生活を歌っている、いい歌が並んでいると思います。
 1番の歌の3首は、仙台のクマガイさんという人の、59歳の男の人の歌だったんですけれども、この人は仙台で小さい印刷屋さんをやっているんですね。そして、今、不景気である。そして、こちらでもたくさん雪が降りましたけれども、仙台だから、もっとたくさん雪が降った。そういう雪の中で、不況で困っている印刷屋さんの生活というのを歌っていて、1位になった歌なんですが。『二月危機切り抜けてなお先暗しシグナル見えぬまでに降る雪』『二月危機切り抜けてなお先暗しシグナル見えぬまでに降る雪』。2月はニッパチといいますか、仕事をしていると2月と8月が不景気だとよく言われますが、2月の危機はようやく切り抜けた。でも、お先真っ暗だ。そういう事業の状況を言っているわけですが。折しも雪がたくさん降っていて、信号が、シグナルが見えないほどに雪が降っている。お先真っ暗だなということと、雪が降っていて信号が見えないなということが重なってね、先行きの不安を伝えているわけですね。『二月危機切り抜けてなお先暗しシグナル見えぬまでに降る雪』。
 『追いこまれ命を絶ちし同業の友を意識す朝の出がけに』『追いこまれ命を絶ちし同業の友を意識す朝の出がけに』。『好況の兆し伝うる中央紙このみちのくに及ぶ日はいつ』『好況の兆し伝うる中央紙このみちのくに及ぶ日はいつ』。同業者の中には、追いこまれて自殺をしていったお友達もいる。自分だって死んでしまいたいぐらいつらいんだ。朝、工場に出掛けようとして、その自殺してしまった同業者のお友達を意識してしまった、という歌なんですね。だから、世の中の不況というものが、小さい企業を追い詰めている。そういう中で暮らしている、1人の勤労者の生活がよく出ている歌。そして、だんだん景気はよくなるようだということを、中央の新聞は伝えている。でも、このみちのくの仙台に、その景気のよさが及んでくるのはいつのことだろう、まだまだ先は暗いな、という感じが、この3首の中によく歌われているんですね。印刷屋さんだなんてことは、後で分かったことなんですけれども。ともかく3首を読んでいると、小さい中小企業というのでしょうか、そういう中で、不況の中で苦しんでいる生活というのが、折しもの大雪の中でね、しっかりと描かれている。こういう歌が第1位になって文部大臣賞を取ったんです。
 歌っていうのは、たった3首だけれども、そういう生活の全部をね、歌うこともできる、そういう歌なんですね。歌の形だということ。そういうことを知らせてくれる歌であると思います。そしてちょうど、この冬は大雪でしたから、みんなが雪の被害を受けている。作者もそうした雪の中で、不景気な事業をやっている。未来もなかなか暗いけれども、その暗さに負けて、自殺してしまった友達もいる。それぐらいつらいんだけれども、好況の兆しを中央の新聞紙は伝えている、そういうことを頼みにして、なお、しっかりと仕事をしていこうっていうような、そういう生活の姿勢も、この3首の中には出ているんですね。そういうところがよくて、これが文部大臣賞を受けたと思います。こういうふうに、たった3首の歌ででも、この生活の実態というようなものを表現できるのが、歌の威力でもあると思うんですね。
 第2位になった歌。群馬県の53歳の女の方でした。『雪晴れの逆光に立つ人の影鉄骨組まれし空に槌振る』『雪晴れの逆光に立つ人の影鉄骨組まれし空に槌振る』。『山なせる土に挑みてショベルカーまだらの雪ごと一気に掬う』『山なせる土に挑みてショベルカーまだらの雪ごと一気に掬う』。『雪山風すさぶ畑に積まれゆく出荷の白菜肌みずみずし』『雪山風すさぶ畑に積まれゆく出荷の白菜肌みずみずし』。さっきの歌は、生活をそのまま叙情的に歌っている歌でしたけれども、2番目の歌は、今度は写生をした歌なんですね。雪晴れの逆光、逆光線の中で鉄骨が組まれている。その鉄骨の上で、槌を振っている、ハンマーを振っている人の影が、まるで影絵のように見える、というのが1首目ですね。しっかりと情景を見て写生している。鉄骨が組まれた空の上のほうで、槌を振っている、ハンマーを振っている、そういう人の姿が見えている。次の歌では、山なせるというのは、山になった土に、まるで挑みかかるようにして、ショベルカーがその土を運んでいるんだけれども、まだらになって残っている雪ごと、全部一緒に、一気に掬って、ショベルカーが動いて、作動しているという歌なんですね。ショベルカーの動きをダイナミックにとらえて、しっかりと写生した歌なんです。そして、3首目の歌では、雪山の風が冷たく吹いている畑に、白菜が出荷されようとして積みこまれている。その白菜の肌が、冷たい風の中でみずみずしく感じられた、という歌なんですね。それもよく、『白菜の肌みずみずし』というように、よくしっかりと写生をしている歌だと思います。
 3番目の歌。『信管に触れし夢見てうなされぬ不発弾処理班の兵たりしわれは』『信管に触れし夢見てうなされぬ不発弾処理班の兵たりしわれは』。『浴びせくる放火のしばしやみしとき蟻になりたしとわれは思いき』『浴びせくる放火のしばしやみしとき蟻になりたしとわれは思いき』。『夜の雨雪になるらし戦にて負いし傷跡かすかにうずく』『夜の雨雪になるらし戦にて負いし傷跡かすかにうずく』。この人は、戦争に行ったことのある、戦争で傷を負った男の人であるということが、歌を読んで分かりますね。不発弾を処理する班の兵隊であった自分は、今でも40年前の戦争の夢をよく見る。信管に触れて爆発してしまいそうになった夢を見てうなされた、自分は不発弾処理の兵であったんだ。そして、戦争中、浴びるように砲火が降ってくる、そういう中で、人間はこんなに砲弾を恐れて、恐れおののいているんだけれども、伏せをしていたら、その地上にアリが這っていたのでしょう。そのとき私は、アリになりたいと思った。アリなら安全なんですね。弾がそんなに当たらない、小さいものだから。でも、人間の自分は、いつ砲火にやられるか分からない。『蟻になりたしとわれは思いき』なんていうのはね、その砲弾を避けて土に伏せっているときに、フッとアリを見た。そのアリがなんともうらやましかった。アリなら安全なのにな。人間だからねらわれて撃たれてしまう。『蟻になりたしとわれは思いき』というようなことね、戦争に行った人でないと歌えない歌ね。そして、だんだん寒くなって、夜、雨が雪に変わっていく寒い晩、戦争で負傷した傷跡が、かすかにまたうずきだして、そして、戦争で苦労した思い出がよみがえってくるという歌で。こういうふうに、戦争に行ったことのある男の人は、戦争中の思い出を、いまだにたくさん歌っています。それほどに戦争というものが、傷の深かったものであることを、よく知らされると思うんです。
 この3番目までの歌を読んできて、私が申し上げたいと思うことは、歌というのは、古くはいろいろな派閥がありまして、写実派とか浪漫派とか、アララギだとかコスモスだとかと、いろいろな派閥が、今だってないことはないんですけれども、大きく分けると、自分の思いの丈を述べるという、どちらかというと浪漫派というのでしょうかね。
 
(無音)00:28:11~00:28:48
 
 大きく分けますと、自分の気持ちを思いきり訴えていくという、浪漫派というんでしょうかね、心もちを大事にして歌う歌い方と、それから、写実派と言っていいと思うんですが、2番目の歌は、きっかりと物を見て写す、実際のことを写すという、リアルに物を写すという、そういう傾向と、そしてその中間と、いろいろあると思うのですけれども、どちらの歌がいいとか悪いとかいうのではなくて、その作者の個性によると思うんです。写真のように、絵はがきのように、きっかりと風景を詠みたいなと、写してみたいなと思う人と、それから自分の夢とか感情とか、悲しさとか、うれしさとか、そういうものを直接に歌で訴えたいなと思う人、それを仮に浪漫派というならば、そういう歌い方の人と、それを折衷した歌い方をする人と、いろいろいらっしゃるだろうと思います。
 歴史上でいえば、与謝野晶子などは浪漫派ね。浪漫派で、『柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君』っていうふうに、自分の青春の思いを、思いの丈を歌うでしょう。そういう浪漫派もあれば、それから正岡子規のように、『藤の花』『たたみの上に』『藤の花ぶさみじかければ』、『瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり』と歌った正岡子規。藤の花は短いので、畳の上に届かなかった、というふうに、きっかりと、藤の花の花ぶさが短かったことを歌っている正岡子規という人。そういう、写実派というようなものもあるわけで。今でもその大きな流れは残っておりまして、正岡子規が開いた一派は、今も『アララギ』という大きな雑誌で残っております。で、アララギは写実派だと一般には言われていますが、必ずしも写実だけではなくて、今のアララギのたくさんの歌人を見ますと、心情的なこと、感情を主にして歌う人・・・。