さいたま市立大宮図書館/おおみやデジタル文学館 ―歌人・大西民子―

音声資料

「短歌講座」

昭和58年10月21日

 
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大西 ・・・『鼻眼鏡して』。上の句と下の句でなるほどなという続き具合が分かりますね。水商売をしたらしい、粋な老婆であったから、御職のようだという言葉が出たんですね。そうでなかったら、御職なんて言わないだろうな。水商売をした人なんだというようなことを、上の句でもにおわせる。なかなか工夫して歌っていますね。作者は御職って言葉、知ってたんかな。私は知らないで辞書を引いてしまった。『この椿庭の御職と評しける粋な老婆は鼻眼鏡して』、面白い状態ですね。
 それから18番。『液まかれ枯れしまま立つ雑草に心惹かれつ帰り来たりき』『液まかれ枯れしまま立つ雑草に心惹かれつ帰り来たりき』。除草剤なんでしょうね、液と言っているけれども。除草剤をまかれたので、枯れたまんま立っている雑草があった、その雑草に心を惹かれながら、心惹かれつというのは、惹かれつつということでしょうね。心を惹かれながら、帰ってきましたっけ、と過去のことにしてますが、今帰ってきたのならどうなる? 帰り来たりき。今、帰ってきた。
 帰り来たりきだとね、遠い過去になってしまうのね。帰ってきたことでした、いつかっていうような。遠い過去になってしまう。今、帰ってきた過去ならどうなるかな。帰り来たりぬとか、帰り来たりつとかになるんですね。『液まかれ枯れしまま立つ雑草に心惹かれつつ』と入れたほうがいいかもしれない。緩やかになるかもしれない。『心惹かれつつ帰り来たりぬ』。「ぬ」のほうが、この場合いいかもしれない。帰り来たりつとすると、上のほうに「つ」がたくさんあるから、『心惹かれつつ帰り来たりぬ』。
 
(無音)00:02:33~00:02:47
 
大西 この間、朝日の全国大会がありましてね、その中の入選した歌で面白い歌があったの。『雑草のがわよりすれば除草剤は原爆落とされしごときものかも』『雑草のがわよりすれば除草剤は原爆落とされしごときものかも』、面白いでしょ。雑草のがわからすれば、除草剤ってのは原爆が落とされたような、そんな大変なことなんだっていう歌があってね。入選していましたけれども。そういう歌い方もある。『原爆落とされしごときものかも』、面白い発想だね。雑草のがわからすれば、ということ。人間はひどいことするというような意味がね、その歌だと分かってね、面白かったんですけど。この歌では、やっぱり優しい心を歌っているんですよね。雑草、液をまかれて枯らされてしまった雑草、枯れたまま立っている雑草に心を惹かれながら帰ってきましたということですね。いいですね。
 それから20番。『わがうちの修羅を見し日もありたるに時去りゆけば淡き悲しみ』『わがうちの修羅を見し日もありたるに時去りゆけば淡き悲しみ』。若い頃、自分の心の中に修羅、渦巻くものですかね。渦巻く心があるのを、そういう状態を自分の心の中にいた日もあった。でも、時が去っていってしまって、その修羅も今は淡い悲しみとなってしまったという歌ですね。『わがうちの修羅を見し日もありたるに時去りゆけば淡き悲しみ』。そのどろどろの修羅が胸の中に渦巻くような日もあった。愛憎が激しかったのでしょうね。愛と憎しみがね、渦巻いて、修羅のような内面がある日があった。でも、時がたってしまって、その修羅も今では淡い悲しみとなって残っているだけだという歌ですね。時の経過によって、人間というのは清まっていくんですね。そういう状態を表しているのでしょう。なかなか工夫して歌っていますね。
 それから22番。『大地震戦争もありき古希超えて余生は静かに我が暮らしたし』。我がと「が」を入れたほうがいいかもしれない。『大地震戦争もありき古希超えて余生は静かに我が暮らしたし』。『われ暮らしたし』よりも、我がのほうがいいようですね。大正12年の大震災、それも経験したし、長い太平洋戦争も経験した。いろいろつらいことがあった若い頃。大正12年よりも前に生まれて、古希を超えた、70歳を超えたお年の人ですね。古希を超えた今は、余生は静かに、もう大地震も戦争もなくて、静かに暮らしたいものだ、若い頃は苦労ばっかりしたわ、という感じが歌われていますね。大正大震災も戦争も体験して、つらいことばっかりあったわ。でも古希を超えた今は、余生は静かに暮らしたいもんだなと、作者の願いがこもっていますね。そして大地震を体験したということで、この辺の関東辺りに生まれて暮らしていた人だってことも分かりますね。いろんなことが分かって、この人の歌になっていると思いますね。『大地震戦争もありき古希超えて余生は静かに我が暮らしたし』。いいでしょう。
 それから24番。『人のため世のためと思う驕りあり至らぬわれを省みもせで』『人のため世のためと思う驕りあり至らぬわれを省みもせで』。これは23番の作者ですから、ボランティア活動をしていらっしゃるのね。そしてボランティアをしながら、この自分がしていることは、人のため世のためだと思っているような、そういう心驕りが、作者自身の中にある。人のため世のためにやってることなんだからというような、驕慢な、傲慢な気持ちがありはしないだろうかと、自分を省みているんですね。いたって至らない私であることを省みもしないで、ボランティアという立派な活動をしているんだという驕りを、つい持ってしまう。非常に内省的な、反省の深い歌ですね。『人のため世のためと思う驕りあり至らぬわれを省みもせで』。ボランティアをしていらしても、こういう気持ちがあれば、きっといい活動をなさることでしょうね。至らない自分だということを省みながら、それを補おうとして、ボランティア活動をして、人のお役に立とうとする、そういう気持ちなんでしょう。『人のため世のためと思う驕りあり至らぬわれを省みもせで』。常に反省しながら、ボランティアはいかにあるべきかというようなことを考えていらっしゃる作者なのでしょう。
 それから26番。『こおろぎのか細く鳴くを耳にして遠くなりたる子どもとの距離』『こおろぎのか細く鳴くを耳にして遠くなりたる子どもとの距離』。秋になってコオロギがすだく。そのコオロギの声を聞いていると、子どもとの距離も遠くなったなと思う、という歌ですね。『こおろぎのか細く鳴くを耳にして遠くなりたる子どもとの距離』。そこの上の句、『こおろぎのか細く鳴くを耳にして遠くなりたる子どもとの距離』。それは子どもとの距離は、物理的な距離でもあるかもしれないし、心理的な、心情的な距離かもしれないんだけれども、親と子の距離が遠くなったなと思ったということなんですが、そのことを言うために上の句があるわけだから、続けたいんですね。『耳にして』と切らないで、『こおろぎのか細く鳴くを』何とかなので、『遠くなりたる子どもとの距離』と、ちょっと上の句と下の句を続けたい思いがあるんだけど、それにはどうしたらよろしい? 『こおろぎのか細く鳴くを』。
 
-- 聞くにつけ。
 
大西 今、前の方がおっしゃったんですね。聞くにつけということがある。聞くにつけ。『こおろぎのか細く鳴くを聞くにつけ』てもということですね。『聞くにつけても遠くなりたる』。聞くにつけ、少し口語的かな。
 
-- 子どもが結婚したんですかね、これは。
 
大西 どうでしょう。別居しているのか、それとも母屋に住んでいるのか分からない。ともかく、物理的にも心情的にも、子どもとの距離ができてしまったなと思う心なんでしょ。それは結婚したかしないか、別居してるかしないか分からない。でも、距離っていうのはあるわけでしょう、一緒に住んでいても。心の上での距離、それを歌おうとしているんじゃないのかな。聞くにつけという言葉がある。それから、『こおろぎのか細く鳴くを聞きおれば』という言葉もあるね。『聞きおれば遠くなりたる子どもとの距離』。聞きおれば思う、ということですね。聞きおればぐらいのほうが優しいかもしれない。耳にしてと切るよりは。『こおろぎのか細く鳴くを聞きおれば遠くなりたる子どもとの距離』。結婚したのかどうかって、そういうことを、歌の背後にある事実というものをね、必ずしも追いかける必要はない。その表されたものを鑑賞すればよろしいのです。子どもとの距離、物理的な距離、心情的な距離、両方なんだろうな。距離が遠くなったなと、秋の夜長に思うということですね。よろしいですね。
 28番。『その父母を旅に送りし寝わらわの夜はぬいぐるみを抱きて眠る』『その父母を旅に送りし寝わらわの夜はぬいぐるみを抱きて眠る』。お父さんお母さんが旅行に行ってしまった、寂しくてしょうのない女の子。夜になるとぬいぐるみを抱いて眠っていますと歌うのは、おばあちゃまでしょうかね。祖母にあたる人なのでしょうかね。『その父母を』ということで、寝わらわにとっての父母であることが分かる。で、旅に出ていって留守である。その留守の間、女の子はかわいそうにぬいぐるみを抱いて眠っているわと。おばあちゃまの孫を見る優しい視線を感じさせる歌ですね。『その父母を旅に送りし寝わらわの夜はぬいぐるみを抱きて眠る』。いいですね。
 それから30番。『風送る武者絵のうちわにうたた寝の夢はたどりぬねぶた祭を』『風送る武者絵のうちわにうたた寝の夢はたどりぬねぶた祭を』。武者絵の付いたうちわで風を送っているうちに、うたた寝をしてしまった。うとうと眠ってしまった。その夢路で、ねぶた祭、故郷の街かな、故郷の街の、ふるさとの街のねぶた祭の夢を見ていたという歌ですね。『風送る武者絵のうちわにうたた寝の夢はたどりぬねぶた祭を』。あの東北地方のねぶた祭、東北地方の出身の作者かもしれませんね。なぜねぶた祭の夢を見たのかというと、武者絵のうちわなんですね。ねぶたでは武者絵の付いた灯籠を掲げて練り歩く、そんなお祭だと思いますけれども、武者絵のうちわであおいでいたせいだろうか。うたた寝をしていたらねぶた祭の夢を見てしまったという歌なんですね。『風送る武者絵のうちわにうたた寝の夢はたどりぬねぶた祭を』、工夫して歌っていますね。『風送る』っていうとね、誰かに風を送ってあげているような感じもしないではないんですけれども、どうでしょう。『風送る武者絵のうちわに』。あっさり分かりやすく、『あおぎいし』くらいでもいいのかもしれないですね。『あおぎいし武者絵のうちわに』。自分自身であおいでいたのでしょうから、『あおぎいし武者絵のうちわにうたた寝の夢はたどりぬねぶた祭を』。風送るっていうと、自分であおいでいる感じでなくなるかもしれないね。
 それから32番。『ゆく夏を追うごと鳴くや蝉時雨鎌倉山古寺への道しるべ』『ゆく夏を追うごと鳴くや蝉時雨鎌倉山古寺への道しるべ』。ゆく夏だから、夏の終わり頃。ゆく夏を追うように蝉時雨が、セミがしきりに鳴いている。蝉時雨というのは、セミがたくさん鳴いていて、時雨のように降る状態を蝉時雨って言いますね。そうすると、蝉時雨が鳴くということは言えるかな。蝉時雨が降るっていうのね。だから、蝉時雨が鳴くということはないわけ、ね。蝉時雨が降るというふうに言うのでしょうね。『ゆく夏を追うごと降るや蝉時雨』。
 
-- 降るやって。
 
大西 降る、「や」があるから。「や」っていうのはこの場合は、疑問の「や」でもあり、感動を表す「や」でもあるのでしょう。『ゆく夏を追うごと降るや蝉時雨』。もし、「や」を気になって取りたければどうしますか。『ゆく夏を追うごとく降る蝉時雨』、それでも構いませんよ。『ゆく夏を追うごとく降る蝉時雨』、「や」が気になるなら。作者は「や」で感動を表しているのかもしれない。『ゆく夏を追うごとく降る蝉時雨』、『ゆく夏を追うごと降るや蝉時雨』、どちらでもよろしいです。『鎌倉山古寺への道しるべ』。蝉時雨っていうのは名詞ですね。名詞で止まっている上の句。下の句も道しるべと止めて、字足らずですね。『鎌倉山古寺への道しるべ』、後ろに何か置きたいな。道しるべは何て言いますか、あることを。道しるべがあることを何て言う? 道しるべが立つって言うでしょう、立つ。道しるべ立つでいいんじゃないでしょうか。『ゆく夏を追うごとく降る蝉時雨鎌倉山古寺への道しるべ立つ』と入れて、道しるべをちゃんと立たせましょうか。『道しるべ立つ』、いいですね。
 それから34番。『夢に会う子はわが腕(かいな)すり抜けて振り向きもせで野を走りゆく』『夢に会う子はわが腕すり抜けて振り向きもせで野を走りゆく』。亡くなった子どもはもう会うことがないけれども、夢にだけは会う日がある。でも夢に会っても、子どもは私の腕をすり抜けて、振り向きもしないで走っていってしまうという歌ですね。お子さんを亡くした人の歌。そしてここでは亡き子と書いて、「こ」と読ませていますね。そういう振り仮名の仕方を、非常に嫌う先生もいます。亡き子ならなきこと字余りにしてもちゃんと言うべきだと。亡き子と書いて「こ」と読ませたり、それから老いた母と書いて「はは」と読ませたり、亡き母と書いて「はは」と読ませたり、そういう振り仮名はいけないという先生もいますから、お気をつけください。この場合だったら、『夢に会う亡き子』って詠んじゃっても構わない。「き」を入れて、亡き子と入れても構わないんじゃないでしょうかね。『夢に会う亡き子はわが腕すり抜けて』、そのときはうでと読めばいいんですからね。あんまり字余りになるようだったら、うでと読めばいい。『夢に会う亡き子はわが腕すり抜けて振り向きもせで野を走りゆく』。
 亡くなった人は、夢の中に出てきても何か食べないとか、ものを言わないとか、いろいろ言いますけれども、この作者の見た夢の中のお子さんは、抱きとめようとしても腕をすり抜けて、振り向きもしないで走って去ってしまうんですね。私もよく死んだ人の夢、見ますけれども、ものも言わないで後ろ向きで立ってたりすることがありますね。いろんな夢に亡くなった人が出てきますけれども、この作者が見た夢では、振り向きもしないで走り去ってしまったという歌ですね。『夢に会う亡き子はわが腕すり抜けて振り向きもせで』、しないで、という意味ですね。振り向きもしないで、野を走り去ってしまう。いつもはかない夢しか見ないんですという歌ですね。いいですね、この歌ね。
 それから36番。『思うことばかりに過ぎて考うることは明日へ秋の灯を消す』『思うことばかりに過ぎて考うることは明日へ秋の灯を消す』。ものを思うことばっかりに時間を過ごしてしまった。もうあとは明日にして、秋の灯を消して寝てしまいましょうという歌ですね。物思いばっかりしていて、何もはかどらない。もう灯を消して寝てしまいましょうという歌ですね。
 ちょっと、思うということと、考えるということと、重なる感じかな。『思うことばかりに過ぎて考うることは明日へ秋の灯を消す』。何かもう少し工夫をして、内容を盛ったほうがいいかもしれませんね。淡い感じがするね。考えることと思うこと。そして明日へ残して灯を消してしまおうという歌ですね。何か淡い感じがするから、もう少し。
 
-- 分かりやすい。
 
大西 少しまとまらない感じというかな、そういう感じがしますから、何か少し足すといいかもしれないね。『思うことばかりに過ぎて夜の更けぬ』とかね。そこへちょっと、夜を置いて、『思うことばかりに過ぎて夜の更けぬ』。そして下の句を、『秋の灯を消して今は眠らん』とかね。何かそのようにして、内容を濃くすることがいいかもしれない。少し内容が薄いかもしれませんね。
 
(無音)00:25:04~00:25:16
 
大西 『思うことばかりに過ぎて夜の更けぬ秋の灯を消して今は眠らん』とかね。何か内容を少し足したらいかがでしょうか。『秋の灯を消して今は眠らん』とか。『思うことばかりに過ぎて夜の更けぬ秋の灯を消して今は眠らん』というようにでもして、秋の夜の物思いを深めていったらいいかもしれませんね。
 それから38番。『沈みゆく夕日の湖に白鷺は塑像のごとく杭に佇む』『沈みゆく夕日の湖に』、夕日のうみに、と読ませているかもしれませんね。『夕日の湖に白鷺は塑像のごとく杭に佇む』。塑像の塑は、右側が月ですね、月。
 
(無音)00:26:22~00:26:35
 
大西 こうじゃないでしょうかね。土で練り上げた塑像という言葉があるでしょ。彫像、彫られた像ですね。まるで、夕日の湖に、白鷺は彫られた像のようにじっと動かないで佇んでいますという歌ですね。『沈みゆく夕日の湖に白鷺は塑像のごとく』、生きているんじゃなくて、まるで像のように、彫像のように、塑像のように杭に佇んでじっとしておりましたという歌ですね。夕暮れの湖の静かな中で、白鷺がじっとして杭に止まっている場面。ちょっと絵になるような場面ですね。『沈みゆく夕日の湖に白鷺は塑像のごとく杭に佇む』、風景をしっかりと描いています。歌というのは、さっきも言いましたが、描くという、何かをありのまま描くという一つの作用があるのね。描くということ。これは、38番の歌は、描いているんじゃないかな。しっかりと描いている。『沈みゆく夕日の湖に白鷺は塑像のごとく塑像のごとく杭に佇む』。
 それ比べて40番の歌は、今度は自分の思いを述べるという。描くということと述べるという、自分の考えを語るという、二つの作用を歌は持っているんですけども、38番は描くほうね。そうであれば40番のほうは、自分の考えを述べるほうの歌ですね。『亡き夫(つま)のよわいも超えて誕生日迎えし朝(あした)強く生きなむ』。自分の考えを述べているでしょう。描くか述べるか、その両方であることもありますけれども。40番の歌では、作者の考えを述べているということが言えるでしょう。亡くなったご主人の年齢を超えて誕生日を迎えた。その朝(あした)、その朝思ったこと、強く生きような。生きなむというのは、生きようという希望を、作者の願望を表す言葉ですね。生きていこうな、生きていきたいなという願望を表す言葉です。亡くなったご主人の、『よわいも超えて』、誕生日を迎えた。今朝は強く生きようとしみじみ思ったという歌ですね。これは志を、自分の思いを述べる歌になっている。さっきの歌は描く歌でしたね。どっちでもいいんですよ。
 それから42番。『はやばやに冬支度して病める母置物のごとひそと座しおり』『はやばやに冬支度して病める母置物のごとひそと座しおり』。これは面白い歌ですね。どこが面白いの?
 
-- 置物のごと。
 
大西 そうそう、『置物のごと』が面白いね。早々に寒くなってきたので、お母さんは病気がちで、冬支度をしてしまった。そのお母さんがまるで置物みたいにひっそりと座っていましたという歌ですね。『置物のごと』ってのは、うまい言い方だな。お母さんの気配というか、様子をよく表していますね。しかも早々に冬支度して、おこたなんかしちゃったかもしれないね。置物みたいにひっそりと座っていますという歌ですね。『はやばやに冬支度して病める母置物のごとひそと座しおり』、面白い歌です。置物のごとの比喩が効いていますね。
 それから44番。『靴底に青虫つぶす樹下にして子らと飼育せし昔立ち来る』『靴底に青虫つぶす樹下にして子らと飼育せし昔立ち来る』。木の下で青虫を靴の底で踏みにじって・・・。