さいたま市立大宮図書館/おおみやデジタル文学館 ―歌人・大西民子―

音声資料

「短歌講座」

昭和58年10月14日

 
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大西 きょうは館長さんがいらっしゃらないから、この方が孤軍奮闘なのよね。いつもは館長さんがいらして何かおっしゃって、いいところなんだけれど。孤軍奮闘で大変です。
 
(無音)
 
大西 かみつきませんから前のほうにどうぞ。かみついたりしませんから。
 
(無音)
 
大西 『現代短歌入門のノート』というプリントをお渡しいたしてございますけれども、これはこの間、2週間ほど前に横浜に、横浜の歌人会ができた15周年記念とかいうので呼ばれまして、そして200人ほどいらっしゃる所で講演したときのノートなんです。横浜歌人会っていうのは、割合に長く歌を作った方が多いものですから、どんな話をしたらいいのかなと思って考えた末、現代短歌、今の短歌っていうのはどういうふうに今、歌われているんだろうというようなことが分かるような歌を選んだんですね。つまり、現代っていうことを考えると、戦争からもう30何年、40年近くたっておりますね。そういう中で、歌の世界も随分、変わってきているわけですね。そのどんなふうに歌が変わってきたのかなということを見て、それを参考にして、じゃあ私たちの今、作る歌はどういうんだろうというようなことを考えていこうと思って選んだ歌なんです。
 従って、現代短歌とは何かって言えば、普通は私たち現代に生きている人間が作っている短歌って考えちゃえば、非常に簡単なわけですけれども、そういうことではなくて、もっと専門的に考えると、現代の短歌というのは、明治以降もう百何十年もたって、あそこで短歌の革新が行われましたね。そして明治天皇の御製のような『あさみどり澄みわたりたる大空の広きをおのが心ともがな』っていうような歌を私たち小さいとき習いましたけれども、あれは旧派の歌といって、平安時代以降ずっと続いてきた歌い方なんですね。古今集あたりからずっと続いて、江戸時代も歌われてきた旧派の歌なわけですね。それが明治の30年代になって、正岡子規とか、与謝野晶子、鉄幹とか、そういう人たちが出てきて歌の革新が行われて、そして現代の言葉で現代の気持ちを歌う歌にしようというのが新派の和歌なんです。劇にも新派っていうのがありますけれども、旧劇と新派とありますけれども、ちょうどそれと同じように、現代の心を現代の言葉で歌おうとするのが新派の歌なんですね。
 その新派の歌が出来上がってからも、明治30年代のことだから、それ以降100年近くたっているわけです。そして100年の間、歌が全然進歩しないできたかといえばそうではなくて、例えば戦争の前は、軍部の統制が激しくて、そして無産党っていう、今でいえば共産党のような人の歌は弾劾されて罰せられますね。そういう時代があって、戦争に入ると今度は戦争をたたえるような歌をどの歌人も作らせられたわけです。当時は翼賛会とか、情報局とかいうのをあったことをご存じだと思うんですけれども、そういうようなところの力が加わってきて、人間が例えば、戦争に行きたくないと歌いたくても歌えなかった。みんな、戦いは正しいもので、天皇の命令があればいつでも勇んで出掛けていくというような歌しか作れない時代が戦争中だったわけですね。
 そういう圧迫された時代が終わって、今度は戦争が済んで解放されたとき、人間が何を歌ったかというと、昭和20年代から30年頃までの歌は、ともかく解放されて生きている人間を歌うようになってきたと思うんです。それが昭和20年代なんですけれども、何を歌うか、人間が生きていくその姿を歌うということが戦後の歌であったわけですが、これからまた10年ほどたって昭和30年になりますと、少しまた歌の世界が変わってくるんですね。ということは、前衛という歌の運動が起きてくる。塚本邦雄とか、岡井隆とか、寺山修司というような人たちが活躍しましてね、そして歌の世界にも、外国のおもにフランスですけれども、フランスの象徴詩というような手法を持ち込んできて、歌を新しくしようとする運動が前衛の運動であったわけなんです。その前衛の人たちが活躍したのは昭和30年から34、5年頃までなんですけれども、その人たちは何を目指したかというと、戦争中に圧迫されていた人間を歌うということで歌はよみがえったわけだけれども、いかに歌うか、どんなふうに歌えば、どんな方法で歌えば人間がもっとリアルに、もっと正しく歌えるかという運動が、前衛の運動であったわけですね。
 前衛の花盛りっていうのは、昭和30年代の初め頃にしぼんでしまうんですけれども、その前衛短歌の運動が短歌の世界をリードする時代があった後の歌というのは、その前の歌とは随分、違ってきているんですね。何を歌う、人間を歌う、それをいかに歌うかということを加味するようになって、現代の歌が随分、そこの昭和30年頃を境目に曲がってきているんです。前衛に反対であった人たちも、いかに歌うかというようなそういう出された問題に対して考えざるを得なかったから、歌がぐーっと変質してきているって言えると思うんです。その結果、前衛であろうとなかろうと、歌う歌が大変変化してきている。何を歌うようになったかっていうと、結局人間の持っている内面の世界、人間の心の中にあるどろどろしたもの、人間の悩み苦しみ、そういうようなものを、ただ悲しいとか、ただ苦しいとか歌ったんでは駄目なので、それをどんなふうに歌えば出てくるかという、いかに歌うかという問題が加味されてきて、そして現代の歌が成り立っていると思うんです。私たちは日々の悲しみや苦しみを、こんなに苦しいのよ、こんなに悲しいのよと歌う、それも歌でございますけれども、専門家が歌う現代の歌っていうのはどういうのかっていうことを、ここにちょっと例を引いたわけなんです。
 例えば1首目。『白き海月にまじりて我の乳房浮く岸を探さむ又も眠りて』『白き海月にまじりて我の乳房浮く岸を探さむ又も眠りて』という、中城ふみ子という人の歌があるんですけれども、この歌ふっと読んで分かりますか。『白き海月にまじりて我の乳房浮く岸を探さむ又も眠りて』。読んだだけで分かりますか、何を歌っているのかなって。一見分からないでしょ? こういう歌が現代の歌の始まりなんですね。この中城ふみ子さんていう人は、昭和29年に乳がんでお乳を手術した人なんです。そして、その乳がんで失われた乳房ということは、女の人にとって命の次ぐらいに大事なお乳なんですけれども、それをがんのために失ってしまった。取られてしまった。今ではもう、がんっていうのは人間の死亡率の何十パーセントだかを占めて高いけれども、昭和29年っていうとね、まだそんなにがんは多くなかった。発見されなかったのかもしれないけれども、がんという名前はあまり普及されていなかった時代なんです。その頃に中条さんは乳がんを病んで、そして乳房を取られてしまった。そのことをしきりに歌うわけなんですね。ただ、その悲しみに打ちひしがれてだけいないで、そのがんで乳房を失えばどうなるというような人間の叫びをね、歌にしていったわけなんですね。
 がんに負けないで歌を作った、そういう見事な女の人です。ちょうど私と同じぐらいで、その当時28、9だったと思いますが、そんな年齢で北海道に住んでいましたが。この中城ふみ子さんは、その当時、昭和29年の『短歌研究』という雑誌が新人を募集したんですね。そのときに、乳房喪失という、乳房を失ったという名前で50首の歌を出して、見事に入選したんです。入選して、その写真が雑誌に載ったんですけれども、もうそのとき中条さんは白い病衣を着て横たわっている写真しか載らなかった。もう病床にあったんですね。そして輝かしく新人として歌壇に登場したんだけれども、もうその8月には死んでしまったんですね。肺がんに転移して、肺のほうまで駄目になってしまって死んでしまう、たった3カ月のことだったんですけれども、中条さんの名前は、ばーっと歌壇に広がった。ということは、乳がんというような病気に負けてしまわないで、そのことを文学として生かして歌ったという見事な花の咲かせ方だったんですけれども、そういう生涯を短く終わった、30そこそこで亡くなった女の人なんですが、北海道の帯広に住んでいたかな。北海道に住んでいて、そして、彗星のように現れたと言われましたけれども、歌壇にぱっと花を咲かせて、散っていった女の人なんです。その人の歌は、今までのようにありのままを分かりやすく描く歌ではなくて、ちょっとひねって、そして自分の悲しみを告げる歌だったんですね。
 この一首を見ると、自分の取られてしまった乳房、どこへ行ってしまったんだろう。実際には多分、病院の標本室に浮かんでいるかもしれないね、アルコール漬けになって。でも作者は、その自分の失われた乳房が、どっかの海岸に行けば白いくらげに交じってぷかぷか浮かんでいるような気がする、幻想の世界ですね。だから、自分の乳房が白いくらげに交じって浮かんでいるかもしれない。その乳房を探しに行こう。実際に探しに行くわけにいかない、でも夢の中で、その自分の失われた乳房を、どこかの浜辺へ行って、くらげと一緒に浮かんでいるかもしれない、その乳房を探しに行こう、というのがこの歌なんですね。失われた乳房ということを、あの乳房は標本室のアルコール漬けになっているのであるっていうのが現実なんだけれども、その現実を超えた世界で、自分の失われた乳房を探しに行こうと歌うような歌、それが昭和30年代の歌の始まりであったわけです。
 で、その当時、寺山修司さんとか、塚本邦雄さんとか、岡井隆さんとかいうような人たちもその前衛の運動をしていたわけですけれども、その人たちと同じように、普通のリアリズムのありのままを、見たまま聞いたまま歌うんではなくて、それをいろいろ工夫して歌うことによって、よりリアルに、より自分の悲しみを伝えるような方法になっていく、そういう歌の運動が前衛の運動であったわけです。ですから今でも、歌の先生たちには前衛というと眉をしかめて拒否反応を示す人が非常に多いのですけれども、今、考えてみると前衛というのは、いかに歌えばより歌らしく、より詩として命を持つかということを、歌の世界に持ち込んだ大事な運動であったと私は思います。その頃から歌が次第に変わってきている。ただありのままを見たまま聞いたまま、思ったままを歌うんではなくて、そこに一ひねりも二ひねりもして、歌を詩として文学として高めようとしたのが前衛の歌であった。それ以来、私たちの作る歌も少しずつ変化をしていったわけなんです。
 私もちょうどその頃、29か30だったんですけれども、その中条さんの50首の乳房喪失という歌を読んだとき、自分の胸がうずくような思いでその歌を読みました。ああ、乳がんで乳房を失えばこんなに悲しくて、こんなにつらいんだなということを歌を通して分かる、そんな感じであったわけです。ただ乳房が取られて悲しいよーって歌った以上にね、文学として高められた世界があって、そして読む人の心を打つというのが中条さんの歌でございました。それ以来、女の人の歌も大きく変わってきて、女の生き方、女の悲しみというようなものを奥深く歌うようになった。表面的だけでなく、奥深く歌うようになったと思うんです。
 本当は中条さんの歌をたくさん引いて、こんなふうな歌もあるということを言うといいんですけれども、時間がないから一首だけ引いた。一首引くのに何を引こうかなと思ったけれども、超現実的な、現実の世界を超えた世界。眠って夢に見て、自分の失われた乳房をどこかへ探しに行こう、もしかするとどこかの海岸でくらげと一緒に浮かんでいるかもしれない、私の白い丸い乳房よと歌っている歌。この一首を引いたのですけれども、その一首によっても、中条さんがどんなふうに、がんというようなものを歌ったかということを推し量っていただきたいと思うわけです。
 そして、前衛の歌の運動が昭和30年代に始まりますが、その頃に三羽烏と言われた前衛の作者は、この間、劇作家で、天井桟敷というのをやっていた寺山修司さん、それから大阪に住んでいた塚本邦雄さん、それから東京でお医者さまをしていた、北里研究所でお医者さまをしていましたが、岡井隆さんというような人たちが前衛の運動を盛り上げていったわけです。
 2番。『マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや』『マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや』。寺山さんは、その頃早稲田大学の学生で、まだ20歳そこそこの若者でした。そして、中条さんの後すぐ、また新人賞で入賞して歌壇に出たのです。その後、歌の世界に飽き足らなくなって、ドラマの世界に入っていって、劇作家になり、天井桟敷を作るのですけれども、その前は歌詠みであったわけですね。
 この歌でも一通りの歌ではなくて、なかなか深みのある歌なんです。海の船の上でしょうか。マッチを擦ると、そのつかのま、瞬間に海が見える。その海には霧の深々とかかっている。その向こうには祖国日本がある。でも、その祖国というのは自分の身を捨ててまで守るような祖国であろうか、というような批判が歌われているわけです。戦争中までは、自分の身を捨てても祖国を守るというような、抽象的な一般概念でみんな戦争に駆り立てられていったわけだけれども、戦後、祖国というのは何なのか、個人を捨ててまで守るものなのかというような、重大な疑問がみんなの胸にあったわけだけれども、それをこのような歌にしているわけですね。身捨つるほどの、自分の身を捨ててまで守るほどの祖国なんてあるのかしら、人間があっての祖国じゃないか、というような思いが込められている。こういう歌を寺山さんは作っていくわけなんですね。今まで、ただマッチ擦ったら霧が深かった、それで終わるような歌ではなくて、身を捨てるほどの祖国はあるのかと自分に問いかけ、人にも問いかけていく。そういう歌は文学としての広がりを持つようになったということが言えるかもしれません。
 文学としての広がり、ただの自分の告白、私は悲しい、私は苦しい、私は何を見たというような簡単なものではなくて、一首の中にいろいろな思いを込めて、自分にも問いかけ、読者にも問いかけていく、そういうような歌が作られるようになった。それは大きな前衛の歌の功績であったと今も思われます。『マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや』。誰にでも問いかけてくる歌ですね。霧のかなたにある祖国、日本。あの島国。それは身を捨ててまで守るべき国であろうかと問いかけていて、戦争の後の、非常にたゆたうような人間の心というようなものを歌っていたと思います。
 それから、前衛の張本人のように言われた塚本邦雄さん。この人は、お目にかかるととても温厚な紳士で、すぐ帽子を取って「こんにちは」と言うような紳士なのですけれども、長いこと自分の住所も、それから家族がどうなっているかも明かすことなく、秘密に包まれた紳士でした。塚本邦雄って名前は分かるんだけれども、どこに住んでいるのか、奥さんはあるのか、子どもはあるのか、まるっきり分からなくてね、闇の中の紳士だったんですけれども、そういうようなところも文学的な、前衛的なところがありました。あるとき東京に出てきてお目にかかったときは普通の人だったんですね。ところが歌を詠んでいると、普通の人でないみたいな歌を作る、そういう感じの面白い人物で、今は毎日新聞に、きょうひらく歌っていうんですか、毎日連載して、題字下のところに塚本邦雄さんが書いておられて。今では一般的な名士になってしまわれましたが、その当時はどこに住んでどんな人なのか分からないような、秘密の、謎に包まれた人物でございましたが。
 その塚本さんの代表作と言われる歌なんですが、3番。『馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ』『馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ』。意味分かりますか。すーっと来る? 来ないね。来ないのが当たり前ね。こういう歌には結局、フランスの詩の影響を受けているわけですが、何々と何々を比較することによって、その自分の言いたいことをより強調して言うという手法が、アナロジーというんですね。そういうフランスの詩の手法が取られているんです。もし馬を磨いてあげるならば、洗ってあげるならば、馬の魂がさえてくるほど洗ってあげよう。そして、人を愛するならば、その人を殺してしまうほど愛そう。そういう歌なんですね。そう言われてみると分かるでしょ。馬を洗うと光ってきますよね。馬がだんだん肌が光ってくる、馬を磨いてあげると。その馬が、魂がさえざえとするほどよく磨いてあげよう、そして人を愛するなら、あやめるというのは殺すことでしょう。人を殺すほど愛する、それが本当の愛だということを歌うために、『馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで』ってことを言ってるんですね。そうすると、馬が洗われてだんだん光ってくる、背中のあたりが光ってくる、それが目に見えてくるでしょ。そういう、目に見えるものに置き換えて歌を作っていく。そういう方法をとったのが前衛なんですよね。
 そういうような歌を読んでいるとね、最初わけが分からないけれども、よく読んでみるとだんだん馬の背中が見えてきたりして、ああそうか、人を愛するならば生半可に愛するんじゃなくて、相手と一緒に死んでしまうほど愛するのが本当の愛かもしれないな、なんていうことがおぼろげに分かってくる、そんなのが前衛の歌だったんですね。ちょっと遠い感じもするけれども、取り付きがたい感じがするけれども、こういう歌も作られているということね。やっぱりそういう歌の世界も、さまざまなことを知った上で、自分の歌を考えていくということも大事なことかもしれないと思って、こういう歌を引いてございますよ。
 4番。『肺尖にひとつ昼顔の花燃ゆと告げんとしつつたわむ言葉は』『肺尖にひとつ昼顔の花燃ゆと告げんとしつつたわむ言葉は』。分かります? すーっと意味分かります? 考えないと分からないのね。それが前衛の歌なのでね。岡井さんは内科のお医者さま。そして、患者さんに向かって何かを言おうとしているんですね。あなたの肺尖、肺の先のほうですか、肺尖カタルなんてよくいう、その肺の先端の部分に一つ昼顔の花が燃えていますよと、患者さんに告げようとしているんだけれども、言葉がたわんでならない、ということなんですね。あなたは肺尖に病気がありますよ、と。昼顔の花が燃えているような、炎症を起こしている部分が肺にありますよ、ということを患者さんに告げようと思うんだけれども、それがなかなか思うように告げられない。相手ががっかりしたり、びっくりしたりするだろうと思うと、そのことをなかなか告げがたくて困っているという歌なんですね。そこまで分かるのにちょっと時間かかるね。そういう曲がりくねった歌い方をしている、そういう歌い方が前衛の歌でございました。で、その『肺尖にひとつ昼顔の花燃ゆと』、昼顔の花が咲いているように、肺尖のある一部分が、あなた病んでいますよ、病気ですよということを言おうとするんだけれども、言葉が思うように出てこない、気の毒でなかなか出てこない、というようなことをお医者さまの立場で言うときに、『肺尖にひとつ昼顔の花燃ゆと告げんとしつつたわむ言葉は』というような歌い方をして、これはお医者さまの歌だということですね。
 こういうのが前衛の歌でございましたが、この前衛の歌が、大きな勢いで歌の世界に広がっていきました。そして、その後の亜流と言われるような、そのまねをした歌を作る人もたくさん出てきました。でも、その亜流と言われる人たちの歌はだんだん消えてなくなってしまったんですけれども、その前衛の歌の影響を受けながら、伝統的な歌を作っていた人たちの歌もまた、少しずつ変わってきているんですね。それが今の、現代の短歌って言えるんじゃないかと思うのです。少し前衛の影響をかぶっている、いかに歌えば自分の心を素直に、より深く伝えることができるかというような方法に歌が変化してきている、質が変化してきている、そういうのが現代の短歌であろうと思うんですね。
 その次は、岡野弘彦さんの歌ですが、この人は釈迢空、折口信夫のお弟子で、國學院大学の先生をしていて、折口信夫の伝統的な歌を書いている人なんですが、その人の歌。『またひとり顔なき男あらはれて暗き踊りの輪をひろげゆく』『またひとり顔なき男あらはれて暗き踊りの輪をひろげゆく』。暗き踊りというので何を連想しますか。これは盆踊り。暗がりで踊られる盆踊りなんですね。盆踊りをしている踊りの輪を見ていると、だんだん踊りが、輪が広がっていく。それを見ているとね、顔のない男が現れて、その踊りの輪に交じって踊りの輪が広がっていくような気がする、と歌うんですけれども、この岡野さんは、ちょうど私と同じ年くらいですから、戦争に行っているんです。自分は無事に帰ってきたけれども、たくさんの戦友たちが死んでいるんですね。その死んでしまった戦友たちが、郷里の盆踊りの中に帰ってきて一緒に踊っているんじゃなかろうかなと思う。誰か分からないけれども、戦友の誰かが盆踊りに戻ってきて輪の中に入っている。そのために踊りの輪が広がっているんじゃなかろうかなと思わせられる、そういう戦争体験というものが、この歌にはあるわけ。
 誰とも知れない戦友たち、たくさん死んでしまった戦友たちの誰か分からないけれども、踊りの輪に交じっているような気がするわと、それが顔なき男なんですね。誰か分からない男、でも戦争で失われた戦友たちに違いない。その誰かしらが戻ってきて、故郷の盆踊りの輪の中に加わって、踊りの輪が広がっていくんじゃなかろうかなっていうような感じを歌っているんですね。それは、私たちが体験してきたあの厳しかった戦争、たくさんの人が死にました。あの戦争を経過して生きた心と、それから前衛の深く歌おうとする気持ち、方法とがうまく溶け合って、この歌などはできていると思うんです。前衛の歌ではないけれども、前衛の歌の影響を受けながら、戦後の暗い時代を一つ表している歌なんですね。暗がりの中で踊られている盆踊り、そこの輪が広がっていく。また誰か1人加わったらしい。でも顔が分からない。もしかすると戦死した戦友が戻ってきて踊ってるのかもしれないなと、思いながら盆踊りを見ている。そういう深い、いろんな体験に・・・。