さいたま市立大宮図書館/おおみやデジタル文学館 ―歌人・大西民子―

音声資料

「短歌講座」

昭和57年10月5日

 
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大西 45番。『足早の寒さにそぞろ虫の声の少なくなりし夫(つま)待つ夕べ』『足早の寒さにそぞろ虫の声の少なくなりし夫待つ夕べ』。今年の秋は早く来るようで、足早に寒さがやってくるようだ。それで虫の声もだんだん少なくなってきて、ご主人を待っていると、虫の音も細くなったなと思う、という歌でしょうね。それでね、『少なくなりし』っていうのは、夕べに掛かるんですね。少なくなった夕べに付く。虫の声が少なくなった夫ではないでしょう。夕べのほうに続く言葉なわけね。だから『声の少なくなりし夕べ夫待つ』のほうが自然です。虫の声が少なくなったのは夕べですからね、夫(つま)ではない。『足早の寒さにそぞろ虫の声の少なくなりし夕べ夫待つ』、そのほうがつながりが自然にいくわけですね。何に付く言葉か、何を修飾する言葉かっていうこと考えてお作りになれば、虫の声の少なくなった夕べ、ご主人を待っているということになりますね。それでよろしいと思います。
 それから、47番。『伸びをしてまた丸くなる座敷狆』、チンでいいですか。犬でしょ? チンという犬。チュンっていうのかな。『音なき雨の夕べとなりぬ』『伸びをしてまた丸くなる座敷狆音なき雨の夕べとなりぬ』。お座敷の中でかわいらしい、ちいちゃい犬を飼っているのでしょう。その様子がとてもこの歌よくできているの。伸びをして、ちょっと眠っていたりした、丸くなって寝ていたんでしょうかね。そのチンが伸びをして、また丸くなってしまった。そして耳を澄ますと、『音なき雨の夕べとなりぬ』、非常に静かな様子が出ていると思います。座敷に飼っている小さい犬が、伸びをしてまた丸くなってしまった。外は音のない、夕べの雨となった、という歌で、気配がよく出ていますね。外の雨の降る気配、そして家の中も静かで、静かな犬の様子。『伸びをしてまた丸くなる座敷狆』なんていうのうまいです。そして上の句と下の句がうまくつながって歌われていると思います。
 それから、49番。『合掌で箸取る朝餉(あさげ)独り居の六十路を生きるきょうの始まり』『合掌で箸取る朝餉独り居の六十路を生きるきょうの始まり』。お食事お一人の生活している。合掌をして、お箸を取って朝餉をいただく。その独り居を過ごしているけれども、もう60を越えて、60の坂を越えようとしている。そういうお年を召した方の1人暮らし、そんな感じが出ていると思います。そこで、合掌でという言葉。「で」という言葉も口語の言葉なんですね。そして濁音があって、濁った言葉なんで、なるべく歌に使いたくない言葉、仕方がないときはいいですけれども。合掌しでいいんじゃないでしょうか、合掌し。『合掌し箸取る朝餉独り居の』。六十路を生きるもこれも口語ですので、文語に直したければ、生くるとなりますね。『合掌し箸取る朝餉独り居の六十路を生くるきょうの始まり』。なんで生くるとしたいかと言いますと、六十路というのは古語でしょう。今60は60才といいますけれど、ろくじゅうじ、六十路と古語を使って、古い言葉を使っているから、文語で統一したほうがいいなと思うときは、生くると、ちゃんと文語でやったら。で、上のほうで合掌でというような口語をやめて、『合掌し箸取る朝餉独り居の六十路を生くるきょうの始まり』、それで落ち着くんじゃないでしょうかね。静かな朝食を取って、独り居の生活がまたきょうも始まるという歌です。
 それから、51番。『帆船の風を孕めるカレンダーに海へ行く日の浮き立ちて見ゆ』『帆船の風を孕めるカレンダーに海へ行く日の浮き立ちて見ゆ』。この歌はね、爽やかでいいと思いました。夏のカレンダー、帆船が、帆掛け船が風をいっぱいに孕んでいる様子がカレンダーの絵になっているんですね。そのカレンダーを見ていると、海へ遊びに行く、そういう約束がある日が、『浮き立ちて見ゆ』ということで、海へ行く日が非常に楽しいんだということが分かるんですね。カレンダーにも帆船の絵があって、そして8月の暦かな、8月か7月の暦の中に自分が海へ遊びに行く日がある。その『海へ行く日の浮き立ちて見ゆ』ということでね、海へ行く日を楽しんでいるという様子がよく出ていると思います。上の句も、『帆船の風を孕めるカレンダー』っていうのは様子がよく出ている。孕むっていうのは、おなかに赤ちゃんができるということですが、もともとはそういう言葉ですが、いっぱいに受けるという意味ですね。風を孕める、風を含んで膨らんでいるという。51番は爽やかな歌でよろしいと思いました。
 それから、53番。『久々に夏のひと日を家事忘れ湖畔の宿にカルタ競いぬ』『久々に夏のひと日を家事忘れ湖畔の宿にカルタ競いぬ』。久しぶりに夏のひと日を、家事一切を忘れたように遊んだという歌ですが、湖畔の宿に宿ってカルタを競って取りました。夏のカルタっていうのもいいんじゃないでしょうかね。『久々に夏のひと日を家事忘れ湖畔の宿にカルタ競いぬ』。この歌もまとまりのいい歌で、久々に夏のお遊び、湖畔に宿をとってカルタなどをして遊んだという歌で、しっかりとその1日のことがまとめて歌われていると思いました。
 55番。『生きるとは両の肩に憂きことを』、ふたつの肩にと読むかな。ふたつのか両方のか。『生きるとは両つの肩に憂きことを積み重ねつつ涙すること』『生きるとは両つの肩に憂きことを積み重ねつつ涙すること』。この方は少し悲観性の方ですね。私と同じでかな。生きるということは両方の肩につまらない憂きこと、憂鬱なことばかりを積み重ねながら、涙をしながらいることが生きているということだ。非常につらかったんですね、生涯がね。おつらい生涯を振り返ってみると、生きるというのは両方の肩に悪いことばっかりを積み重ねながら、泣きながらいることが生きることだったような気がすると、実感を歌っていらっしゃるのでしょうね。『生きるとは両つの肩に憂きことを積み重ねつつ涙すること』。この詠んだ方の実感として、そんな思いがあったのでしょう。両の肩にだと6音しかなくて字足らずですから、二つの肩に、両方の肩にとかして、言葉を整えたほうがいいでしょう。両方の、のときは「方」という字を入れなければいけないし、つと読むときは両「つ」を入れないといけません。両つと書いてふたつと読むでしょう。『生きるとは両つの肩に憂きことを積み重ねつつ涙すること』。
 そうして、この歌を出発点にして、どんなことがつらかったという、その一つ一つを今度は歌っていらっしゃればいいと思うんです。これは本でいえば総論みたいな、端書きみたいなものですね。本当に憂きことばっかしあったわと歌っていらっしゃる。その憂きことは何であったかっていうのを、一つ一つほぐしてこれから歌っていかれれば、次々にいい歌ができてくるんじゃないかな。早くご両親を喪ったとか、子どもがなかったとか、ご主人も早く死んだとか、いろいろな憂きことがあったんでしょうけれど、それを概括して歌っていらっしゃるでしょう。概論ふうに歌っている。それを今度は各論に、一つ一つ解きほぐして歌っていらっしゃればよろしゅうございます。これが始めの歌として、よろしいと思います。
 57番。『花の種子あまたもらいて寂しかりマンションの友の心図りて』『花の種子あまたもらいて寂しかりマンションの友の心図りて』。花の種をたくさんいただいてきたけれど、マンションに住むお友だちは、蒔く土もないだろうなと思いやると寂しくなってしまったという歌でしょうかね。自分には蒔く土があるのじゃないでしょうか。マンションに住んでいるお友だちは、蒔く土がなくて寂しいことだろうと。友の心を図りてだから、推察してということですね、図るというのは。推察して寂しく思われるという歌で、心の優しい歌だと思いました。『花の種子あまたもらいて寂しかりマンションの友の心図りて』。
 あ、55番のところで忘れました。生きるとは、そこも文語に直すなら、生くるとはになりますよ。『生くるとは両つの肩に』。
 57番は心優しいお友だちを思う歌ですね。
 それから、59番。『わが子らの大きくなりて幼子のかわいいしぐさにふと笑みかける』『わが子らの大きくなりて幼子のかわいいしぐさにふと笑みかける』。自分の子どもたちはもう大きく育ってしまったので、よその子どもの幼い様子のかわいいしぐさを見ると、ふと笑いかけたくなるという意味でしょうかね。もう子どもの小さかった頃は遠くなってしまって、子どもを育て終わってしまった作者が、まだ幼い子どものかわいいしぐさを見てふと笑みかけたくなって、ほほ笑みかけたという意味でしょう。
 そこでね、『わが子らの』って最初にありますでしょう。そうすると、『わが子らの』っていうのが主語になってしまうんですね。そのとおり正直に読んでいくとね、「私の子どもたちは大きくなって、そしてどこかの幼子のかわいいしぐさに笑みかけています」となってね、そういう意味になるのかな。それでいいのかな。それとも自分の子どもはもう育ってしまったので、作者が幼子に笑みかけているのか、どちらかなと思いました。幼子のかわいいしぐさにふと笑みかけたのは、作者なのか、作者の大きくなった子どもなのか。ということがふと不安になるんだな。作者がいらっしゃれば、どちらでしょうかね。いらっしゃらないかな。もしね、笑みかけたのが自分であるならば、ちょっと表現を変えなきゃならないかもしれない。大きくなったわが子らがっていうふうな感じにしなければいけないかもしれませんね。
 歌の場合は一人称で自分のことを書くっていうのが原則だから、主語がないときは、誰が何したと、誰がっていうことがないときは、作者がしたことになるんですね。作者がしたことになる、何にも書いてないときは。「花を見にけり」って言えば、作者が花を見たことになる。この場合でも何も言っていなければ、作者が笑みかけたことになる。だから『わが子らの』とあれば、わが子のところが主語になってしまって、笑みかけたのがわが子らになる。そこら辺がちょっと曖昧なところあるかもしれない。だからもし作者がであれば、子どもたちを育て終えたので、というふうな言い方になるかもしれません。育て終えたので今は懐かしくなって、昔のことを思い出して幼子に笑みかけたりしています、ということになるでしょう。『わが子らの大きくなりて』のところに、大きな比重がかかってくると思いますね。そんな感じです。
 61番。『若きらに励まされつつ』、その次なんて読みましょうか、何山かな。じょうさいやま、じょうさいざん。どこにあるのかな。『若きらに励まされつつ畳彩山の五百石段登り詰めたり』『若きらに励まされつつ畳彩山の五百石段登り詰めたり』。五百「の」と入れたほうがいいんじゃないかな。五百石段、五十石段とかね、何にでも付く言葉かっていうと、やっぱり五百の石段と「の」を入れたほうが、それが五十でも百でも「の」を入れたほうが、分かりよくなると思います。『若きらに励まされつつ畳彩山の五百の石段登り詰めたり』。で、そこの畳彩山の、五百のと「の」が続くのが嫌であれば、畳彩山で切って、『五百の石段登り詰めたり』でも分かると思いますね。『若きらに励まされつつ畳彩山五百の石段登り詰めたり』というほうが調べが出るかもしれません。
 63番。『広き道横切る乙女の靴音のこつこつ立てる足取りの美し』『広き道横切る乙女の靴音のこつこつ立てる足取りの美し』。広い道を横切っている少女の、ハイヒールでしょうかね、コツコツと靴音を立てて広い道を横切っていく、その乙女の足取りがとても美しいと歌って、よく見て歌っていると思いましたね。『広き道横切る乙女の靴音のこつこつ立てる足取りの美し』。少し字余りになっていますけれども、きっかりと歌えていて、乙女の靴、足元の美しさをよく歌っていると思いました。
 65番。『鈴虫の透きとおる声のさえざえと心に重きことのある夜よ』『鈴虫の透きとおる声のさえざえと心に重きことのある夜よ』。鈴虫がリーンリーンと透きとおった声でさえざえと鳴いている。その夜、自分の心の中には何か重たいことがあって、さえない日だったんだけれども、鈴虫の声は透きとおって美しかったと歌っていますね。『鈴虫の透きとおる声のさえざえと心に重きことのある夜よ』。心に重たいことがかぶさってきているけど、鈴虫の声は透きとおっていて美しいですと歌っていますね。これも心の外側と心の内側とが違っているということを表しているのでしょうね。まとめ方が上手だと思いした。
 それから、67番。『伏す母を遠くより安じ暮らしつつ四つ葉のクローバ無心に探す』『伏す母を遠くより安じ暮らしつつ四つ葉のクローバ無心に探す』。病で伏せっているお母さんを近く看取ることもできなくて、遠く住んでいて、心配しながら四つ葉のクローバなどを無心に探しておりましたという歌で、四つ葉のクローバーっていうのは幸福のシンボルですから、そういうものを探して、お母さんのよくなることを祈ろうとしているのでしょう。遠くより安じは、それは安らかという字で反対の意味になりますね。あんじは下に木を書く。安らかが上、下に木を書かないと案ずるということにならないでしょう。案ずる、思案するの案ですから、安らかの下に木を書く。
 それから伏すというのは、この伏すは、どちらかというと体を伏せるという意味で、病んでいるときはこの臥す。67番の場合は多分、臥るという字。こやる、とも読みますね。臥すという字は、臥るとも読んで、病み臥すことを病み臥るなどと書きますけれども、そういう言葉も覚えておくと歌を豊かにするでしょう。病気で臥せっているお母さんを遠くから案じながら暮らしていて、たまには四つ葉のクローバーを探したりして私は暮らしていますが、いつもお母さんのことを忘れられませんと歌っていて、遠く親子が別れて住んでいる、今の世の中多うございますけど、そういう一こまを歌っていると思います。
 それから69番。『そぼぬれつつ盆の迎え火一人焚く母と義母との定かならぬ闇』『そぼぬれつつ盆の迎え火一人焚く母と義母との定かならぬ闇』。ちょうどお盆のとき、雨でしたね。迎え盆、迎え火を焚くために、ぬれながらお火を焚いていたけれど、闇の中に立ってくるのは亡くなったお母さんとも、またおしゅうとさんとも分からないような、そういう闇の中で、帰ってくる仏様はどちらか分からないような感じで、闇を見つめながら迎え火を焚いておりました、という歌ですね。『母と義母との定かならぬ闇』っていうのはうまいんじゃないかな。闇の中で迎え火を焚いていると、お母さんかおしゅうとめさんか分からないけども、仏様が帰ってくるんだという歌ですね。『母と義母との定かならぬ闇』、はっきりしない。だけども、亡くなった人を迎えるために、迎え火を1人で焚いておりましたという歌ですね。
 71番。
 
A- 先生、すいません。私、来られませんので、できましたら70番もお願いします。
 
大西 そうですか。70番。『夏もみじ差し替う緑重ねつつひとところ空え抜けていくなり』『夏もみじ差し替う緑重ねつつひとところ空え抜けていくなり』。空えの「え」は「へ」ですよ、「へ」。てにをはの場合は発音と違うわね、『空へ抜けていくなり』。夏のモミジが差し替わして、緑と重なっている木々の様子。それを仰いでいると1カ所だけ空へ抜けていく空間があったと歌っていますね。夏のモミジが差し交じっている緑の木々を仰いでいつまでもいたら、1カ所だけ遠く突き抜けて空へいってしまうような空間がありました、という歌でしょう。事実の景色を描きながら何か心の状態、1カ所だけ空へ抜けていくような、そんな心の状態も歌っていらっしゃるんじゃないかと思って読んでおりました。それでよろしいんじゃないですか。
 71番。『北海道四国九州旅をして日本はつくづくよいとぞ思う』『北海道四国九州旅をして日本はつくづくよいとぞ思う』。これも正直に素直に歌っていらっしゃるわね。そうですね、そのとおりだと思いますね。だけども、そこの『日本はつくづくよいとぞ思う』、そこ口語ね、口語。文語にするのにどうする? よいっていうのは文語ではどう言いますか。そう、よしですよ。よしとぞ思う。『北海道四国九州旅をして日本はつくづくよしとぞ思う』、それで十分。文語にしてね、きちっと整えておきましょう。これは総論、序文ですから、これからまた北海道の旅はアイヌがいたとか、四国の旅は雨でしたとか、九州の旅は暑かったとか、その各論をこれから歌っていらっしゃればいい。これはまず総論、端書きっていうのですね。第一章北海道ってのがこれから始まる。歌の始めの方はね、こういうことでいいんです。始まりをまずやって、それから各論を入っていけばいいわけです。つくづくよしとぞ、本当に日本っていい国だと私も思っております。どこへ逃げていけって言われても困ると思っております。
 73番。『廃線のレールに立てば背後より車両の軋み若き日の夢』『廃線のレールに立てば背後より車両の軋み若き日の夢』。廃止になった線路のレールに立っていると、後ろから車両の軋みが聞こえてくるようだ。そして、若い日の夢がまたよみがえってくるようだと歌っていて、もしかすると国鉄の関係のある方なのかもしれませんね。『廃線のレールに立てば背後より車両の軋み若き日の夢』。そういう音が今も聞こえてくるような気がするけれども、うつつにはもう車両の軋みを聞くこともない。遠く過ぎ去った若い日の夢だということですね。そこのところ、若き日の夢とやっちゃうかどうかということは分かれますね。本当にリアルに歌うのであれば、そこにロマンをいきなり持ってこないで、『車両の軋み聞こゆるごとし』とすると思う、リアルに歌うならば。『廃線のレールに立てば背後より車両の軋み聞こゆるごとし』というのがリアルな歌い方です。それが聞こえるような感じがすると歌う、それがリアルな歌い方。そして、若き日の夢と言いたい方は言ってもよろしい。そこで写実派とロマン派が分かれると思います。写実的な歌を作りたい人と、ロマンチックな歌を作りたい人と分かれると思う。リアルに歌いたければ、『車両の軋み聞こゆるごとし』、聞こえるような、昔が懐かしい思いがすると歌うと思う。そこら辺で分かれますね。
 それから、75番。『侵略の戦いの場に行きしは知れど老いて小さき父上問わず』『侵略の戦いの場に行きしは知れど老いて小さき父上問わず』。今、進出だったか侵略だったか騒いでおりますけれど、その侵略の戦争の場に駆り立てられて、お父さんはその侵略戦争に参加した人だと知っているけれども、今見るお父さんは老いて小さくなってしまわれた。そのお父さんにどうして、「侵略の戦争にお父さんは参加したんですね」なんてことを聞くことができましょうか、聞けませんという歌ですね。いい歌じゃありません? この歌ね。『侵略の戦いの場に行きしは知れど』、少し字余りが多いですけれどね。『老いて小さき父上問わず』。こういう場合にね、字余りっていうのはいくらあってもそうおかしくないんですけれども、できるだけ上の句で処理する。この歌の場合そうです。『侵略の戦いの場に行きしは知れど』、そこまでで上の句。『老いて小さき父上問わず』、七七になっているでしょ。下の句の七七をなるべく字余りにしないで抑えると、その歌が割に滑らかに歌えるんです。ですから下の句はなるべく、下の句の特に結句の7音は字余りにしないようにしますと、歌が落ち着きますね。この歌は割合に字余りを始めのほうで処理しちゃって、『老いて小さき父上問わず』とまとめ方を決めていると思います。
 それから、77番。『わが去りし後をたゆまず折々は新聞に短歌載せたりという』『わが去りし後をたゆまず折々は新聞に短歌載せたりという』。どなたかと一緒に歌をかつて作っていたのでしょう。ところが事情があって自分が去った後も、たゆまず相手の人は歌を作り続けて、そして時々は歌を作って新聞に載せたりしたということです、という歌で、次の歌と重なっているようですね。連作になっているようですね。『わが去りし後をたゆまず折々は新聞に短歌載せたりという』。まとめ方がしっかりした歌だと思いました。
 あと今度来れない方いらっしゃいませんか。
 
B- すみません、14番お願いします。
 
大西 14番。