さいたま市立大宮図書館/おおみやデジタル文学館 ―歌人・大西民子―

音声資料

「短歌講座」

昭和55年11月19日

 
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 大西 ・・・ろうって方もいらしてるし、それから長いこと歌を作ってきてらして何か話を聞きたいっていう方もいらしてる。いろいろいらっしゃいますので、いろんな方のご希望が少しでもかなえられればと思って、ちょっとプリント、きょうはもう1枚してまいりました。この北沢郁子さんって書いてらっしゃる方は、私の無二の親友という感じの人なんですけれども、これは角川書店から出ています『短歌』という雑誌の11月号のコピーでございます。近代っていいますと、明治の、この前お話しいたしました正岡子規とか、与謝野晶子、鉄幹夫妻たちが起こした、その明治30年代から以降の歌を、近代短歌と言ってるわけなんですけれども、その近代短歌の中の女の人の歌を鑑賞している文章なのでございます。
 樋口一葉っていう人は『にごりえ』とか『たけくらべ』とかで有名な明治時代の代表的な女流の作家ですけれども、その人も歌を作っているんですね。そんな歌がちょっと珍しかったので、これをコピーしたわけです。『身に近くためしもあるをくれたけの浮世とはしも恨むなよ君』っていうんですが、昔の文章ですね、やっぱりね。この歌は一葉の『蓬生日記』の中にある歌でございまして、『広瀬よりの頼りに聞けば、野尻ぬし妻を迎えたまえりとなむ。邦子の心を思いやるに、われももの悲しさ耐えがたし。ささやかなる紙に小さく書きてみするを見れば、いにしえにためしもありと諦めて夢の浮世を恨みしもせじ。いと哀れなるままに、身に近くためしもあるをくれたけの浮世とはしを恨むなよ君』というふうな日記の文章がありまして。この邦子という人と一葉は姉妹(きょうだい)なわけなんですけれども、姉妹で1人の男の人を愛していたということが伝わっております。
 ところがその人はお姉さんとも妹とも結婚はせずに別の人、野尻という人ですね、野尻ぬし、野尻さんは別の奥さんをお迎えになったということで、そのことを嘆いた妹の邦子が、小さい紙に書いてお姉さんの一葉に見せてくれた。その歌が『いにしえにためしもありと諦めて夢の浮世を恨みしもせじ』という妹の歌を詠んだわけですね。その約束があったにしろないにしろ、昔も今もためし、例がある、そう思って諦めて夢のようなこのはかない浮世を恨もうとは思いません、というような諦めた歌を邦子さんが書いてよこした。それが『いと哀れなるままに』、それが哀れに思われたので、お姉さんのほうがこの『身に近くためしもあるをくれたけの浮世とはしも恨むなよ君』というような歌を書いて、妹さんに見せてあげた、というような日記なんですね。
 こういうふうに、一葉という人は、小さいときにお父さんに死に別れて、そして貧しい中で小説を作り、有名になるのですけれども、その根底にあったのは歌を作る心、歌心であったろうと言われています。折に触れて、このような古風な、まだ新派になっていない旧派の和歌ですね、旧派の和歌をところどころに残しているのでございます。で、その男の人が裏切ったことに対して、姉妹で歌を作って慰め合っているという気配が窺われるわけですね。妹が歌を作って見せればお姉さんもそれを慰めて、そしてお互いにいたわりあって暮らしている、そんな感じが日記に窺われるのでございます。そんな一葉の歌が珍しい。
 それから与謝野晶子の歌が2首載っておりますね。『三千里わが恋人のかたわらに柳の絮の散る日に来る』『三千里わが恋人のかたわらに柳の絮の散る日に来る』。この歌は、この前も申したか分かりませんが、与謝野晶子という人は、与謝野鉄幹の、妻子のある人に嫁いで、そうして嫁いで一生懸命2人で歌を、新しい明治の歌を起こそうとして、勉強するわけですけれども。その夫になった与謝野鉄幹という人は生活力のない人であって、いつも晶子が11人もの子どもを育てながら、夫の面倒も見なければならなかった。そういう中で夫の鉄幹がだんだん希望を失って文壇からも見放されていくんですね。そういうときに晶子は、何とかして夫を引き立てようと思って、フランスへ旅立たせてあげるんですね。そのときも旅費を作るために、屏風歌っていいまして、屏風に自分の色紙を貼ったりして一生懸命稼ぎましてね、そして当時のお金で2000円でしたかのお金を作って、夫をパリへ送り出してやるわけなんです。
 おまえも一緒に来ないかと言われたけれども、晶子はそんな余裕はとてもないと言って、そして夫だけをパリへやるのですけれども、その後しばらくたつと、ぐうたら亭主なんですけれども、そのぐうたら亭主もパリへ行ってしまった後は寂しくて寂しくてしょうがないんですね。自分も無理をしてパリへ追いかけて行くのですね。その歌が三千里という歌なんです。今ですと十何時間かでパリへもうジェット機で行ってしまいますけれども、その頃は三千里という道のりを、シベリア鉄道でとことことことこ行くのです。あのシベリア大陸を横切って、ヨーロッパへ行くんですね。はるばると訪ねて、夫の後を追って行くわけです。そうしてその夫の元にたどり着いた喜びというものが、この歌に歌われているわけですね。『三千里わが恋人』っていうのはもちろんご亭主のことですね、夫のことです。『三千里わが恋人のかたわらに柳の絮の散る日に来る』。そのパリはちょうど、柳の絮が散るような日であったというようなことを歌っているわけです。
 そうして、そのときの喜びを、『ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟われも雛罌粟』、コクリコというのはヒナゲシのことなんでしょうか。『ああ皐月』、5月であると。フランスの野は火の色に、美しいコクリコの花が咲いている、私もその情熱のコクリコならば、あなたもコクリコで、久しぶりにお会いしてうれしいという、そういう情熱のほとばしるような歌なわけですね。『君も雛罌粟われも雛罌粟』、そういうふうに繰り返すことによって、久しぶりにフランスのパリで、憧れのパリでまた会うことができた喜びを歌っている、そういう歌でございますね。
 それから岡本かの子の歌。岡本かの子っていう人は、岡本太郎という人のお母さんで、ご主人は岡本一平という有名な漫画家でございましてね。最初のうちは明星派の歌を作るんですけれども、歌よりもどちらかというと、絢爛とした文章の力というものは散文に適していまして、たくさんの小説を書いて、女流でもこれだけのことが書けるのかと世間を驚かせたほどの文才の持ち主でございました。この人は大変、男の人が好きだったということで、旦那様の他に何人も愛人を持つんですね。そんな生活をした、いかにも作家らしい作家でございました。
 この『丹花を口にふくみて巷を行けば畢竟惧れはあらじ』。歌のような形をしていませんが、この歌は、その中ほどにありますが、この歌は彼女の小説『花は勁し』の中で、前衛生け花の師匠をする女主人公のために、女流文学者Kという人が贈った歌として、小説の中に出てくる歌でございます。『丹花を口にふくみて巷を行けば畢竟惧れはあらじ』。この『花は勁し』という小説の主人公はさまざまに苦労して、その前衛生け花を完成していくのですけれども、本当に花に命を込めて生きていけば世に恐れるものはないという境地までいくのに、さまざまに苦労していく小説なんですけれども。丹花、赤い花ですね、赤い花を口にふくんで巷を行けば、花に命をかけて生きている自分、畢竟、要するところ、恐れるものはないというふうなことを、励ましたかたちの歌になっています。
 そこに書いてありますが、丹花というのは、赤い花というのは、自己の持つ天与の才能、自覚、花に寄せる女の生命力の象徴と見てよいであろうというようなことの歌です。岡本かの子という人は、そこにもありますが、4000首の歌を生涯に残しておりますが、その中で一番有名なのが『桜百首』という歌でございます。1週間ほどの期間で100首の歌を作らなければならなくなって、その『中央公論』という雑誌から頼まれるんですね。それで夜も昼も眠らずに桜の花の歌を100首作って、そして『中央公論』の雑誌社に届けるんですが、その足でちょうど上野が桜の満開のときだったので、上野公園に出掛けていく。その原稿を渡した足で行ったものですから、桜の花を見たとたんに吐き気をもよおして倒れてしまったという逸話の持ち主です。
 1週間ほど寝食を忘れて歌を作って、そして100首の歌というのが岡本かの子の代表的な歌とされているくらい有名な歌なんですけれども。その『桜百首』を書いた、かの子だったのですけれども、歌人としてよりもやっぱり小説家としてのほうが有名で、『生々流転』だとかいろいろな大きな小説も書いております。それから年取った芸者さんを書いた『老妓抄』っていうふうな小説も有名でございますけれども、そんな小説を書いた人で、元は歌人でございました。
 それから、その次の三ケ島葭子という人。三ケ島葭子という人は所沢の人ですね。埼玉県の所沢の、昔三ケ島村というところに生まれた人です。そして、若くて亡くなってしまいました、41歳か2歳で亡くなるんです。明治19年に生まれて昭和2年に亡くなる、そういう短い生涯でございましたし、それから岡本かの子とか九条武子とか原阿佐緒とかいろいろ名流婦人がたくさん歌を作って有名な女流歌人として羽ばたいていたようなときに、三ケ島葭子はおうちが神官さんのおうちだったんですけれども、学校の先生をしたりして。それから夫もあまり生活力のない人だったりして、あまり生きている間は華々しい活躍ができないで、そして生涯、19歳のときからもう肺結核になって、埼玉女子師範を中退するような寂しい出発をした人なんですが、代用教員なんかをしながら歌を作っていて。倉片さんっていう人と結婚するんですけれども、その倉片さんていう人も、出てくる男性がみな生活力なくておかしいんですけれども、生活力のない人でやっぱり女の人の好きな人だったようでございますね。
 それで、三ケ島葭子は生涯、苦労をして病気になることが多くて、短い生涯を終えてしまいましたから、生前はそんなに華々しくなかったんですけれども、昭和2年に亡くなってもう50何年たちましたが、その頃の明治大正の女流歌人の中で、与謝野晶子がこの三ケ島葭子を最初、指導した人なんですが、与謝野晶子も三ケ島葭子が自分の後継者だと言っていたぐらい才能があった人だったそうで。今頃になっても、三ケ島葭子の名前は消えないで、ますます光っているような状態で。その三ケ島葭子が残した歌もやっぱり3000首あまりあると思いますけれども、今、見ますとなかなか良い歌が多くて、埼玉の郷土が生んだ歌人としたら、誇るに足る立派な女流歌人であったと思います。
 その人の歌がそこに引かれてありますね。『フリジアの花買ひたれば花売りが桃のつぼみを落としてゆけり』『フリジアの花買ひたれば花売りが桃のつぼみを落としてゆけり』。この歌は葭子の歌の中でも明るい歌で、有名なものでございます。読んで分かりますように、花売りが車を引いて売りに来た時代の歌ですね。そこで道に出てフリージアの花を作者は買った。そしたら花売りが去った後、桃のつぼみが落ちていたというんですが、桃のつぼみのつぶつぶした愛らしさが黒い土の上に、今のようにコンクリートじゃないでしょうから、アスファルトでもないでしょうから、黒土の上にその桃のつぼみが落ちた様子っていうのが、こまごまと出ていて、非常に情感のある歌になっていますね。そういう歌を作った人でございます。
 この人は19歳で肺結核になったって言いましたけれども、結婚して間もなく妊娠するんですが、そのときにまた、膀胱炎か何かを起こして、それからずっともう病気のまま生涯を送ってしまうんですけれども、その生まれた子どもが、みなみさんっていう女の子どもが1人いました。その、みなみさんは今、60幾つかで東京で生きてらっしゃいますけれども。その子どもも結核がうつるといけないっていうんで、取り上げられて、おしゅうとさんの所で、所沢で育つというようなことで、非常に生涯、苦労をした人です。
 その苦労の一番、大きいのが、夫が連れてきた愛人と一緒に住まなければならなかったという、痛ましいことがあったわけですね。その頃の歌が、その『障子閉めてわが一人なり厨には二階の妻の夕餉炊きつつ』『障子閉めてわが一人なり厨には二階の妻の夕餉炊きつつ』という歌が、その哀れな境涯にあった葭子の気持ちを表した代表的な歌だと言われているんですけれども。倉片というその夫の人は、大阪のほうに赴任して大阪で仕事をしていたんですけれども、東京に転任して帰って来て、東京で一緒に葭子と住むようになるんですけれども、その東京の下谷の小さい家の2階家に住んでいたようですけれども、経済力がなかったために、その連れてきた愛人を自分の家の葭子の住んでいた家の2階に住まわせるんですね。そして夫と愛人は2階に住み、病気の作者は、葭子は下に住んでいるというような生活を2年ほど続けるんです。それで女としてこれ以上の悲しみはない、もう女の地獄を見てしまったというふうな嘆いた歌もございますけれども、その中で一番、分かりやすくて知られている歌がこの歌でございます。
 障子を閉めて私は今、1人いますというんですね。なぜならば台所には2階の奥さんが降りてきて夕飯の支度をしているからという。物音を聞きながらね、この人が夫の愛人なわけでしょう、その人が2階からとことこ降りてきて、そして2人分のお夕飯を作るわけなんですね。その物音を聞きながら、葭子のほうはひっそりと横になっていなければならない。また2階の奥さん、2階の奥さんっておかしいんですが、2階の奥さんが2階に上がってしまえば、また葭子が起きだしていって自分の夕飯を作るというような生活をするわけですね。本当にやりきれない暮らしをしていた歌なんですけれども、そういう惨めな中でも歌はちっとも崩れていないんです。きちっとこういう歌が続いております。見るべきものを、見るべきでないものを見るものかなというふうな悲しい歌がたくさんございますけれども。
 そしてちょうど2階に愛人がいた頃に関東大震災、大正12年の大震災に遭うのでございます。それでぐらぐら揺れて逃げ出すんですけれども、葭子は自分が1人で逃げる、2階の妻は夫と手を携えて逃げる。そして逃げて行った空き地は同じ所、葭子のほうは1人で震えているし、相手の人は2人寄り添って避難している。そんな場面の歌もございますけれども、なかなか女の人としたら苦労した人でございます。2年ほどして、あまりかわいそうだというんで、お友達がみんなで計らって愛人が出ていくことになるんですけれども。愛人が出ていったら旦那さんも出ていっちゃって、そしてまた葭子は一人暮らしになって。それから間もなく昭和2年に亡くなりますけれども。
 それでも、夫の人も文学を愛する青年だったということで、そんなにきつい人ではなかったという説があるんですが。それは、自分が給料をもらうと3分の1は必ず葭子のところに届けたんだそうです。それで3分の2で自分たちが暮らすという生活をしていました。子どものみなみさんのほうは、おしゅうとさんの所に預けっぱなしというような生活をしているんですけれども。それで葭子は42歳のときに脳溢血で倒れてしまうんですね。その倒れたのを発見したのも、夫の使いの小遣いさんがお給料を届けに葭子のうちへやってきて、戸を開けたら戸口のところに倒れていた葭子を見つけて介抱するんですけれども、そんなような生涯を終わった人です。
 それから大騒ぎになって葭子の終焉をみんなで見守るわけですけれども、所沢に住んでいたみなみさんも駆けつけて、ちょうどそのときは、みなみさんは川越の女学校に入学した入学試験の発表になって合格になったということが分かった日でございまして、葭子の枕元に駆けつけて川越女学校に入れたっていうことを言って、にっこりして、それから間もなく死んだということでございます。そんな哀れな生涯を送った三ケ島葭子が所沢の人です。所沢の神明社というお宮には葭子の歌碑が立っています。『しみじみと障子うすぐらき窓のそと音たてて雨のふりいでにけり』。寂しい歌が彫られておりますけれども、所沢のほうにいらっしゃることあったら、ちょっと神明様という境内に行きますと、歌碑が立っております。
 北沢さんが書いていることは、『障子閉めてわが一人なり厨には二階の妻の夕餉炊きつつ』のような歌のみでなく、フリジアの歌を残しておいてくれたことは、葭子のためにも読者のためにもよかったと思うのであると書いてございますけれども、本当に悲しい歌だけ残して世を去ったとしたら、残されて読む人が悲しいばかりですからね。そういう中でフリジアのような優しい女らしくて明るい歌が残っていたということは本当によかったと思います。
 最後の歌は有名な、葭子の時代に生きた名流婦人と言われる岡本かの子、九条武子、原阿佐緒とこう言われますけれども、そういう名流婦人、美しい美貌を売り物にもできるような、そういう美しい女流歌人の1人に原阿佐緒という人がおりました。その阿佐緒の歌を一首引かれております。『歌よみの阿佐緒は遂に忘られむか酒場女とのみ知らるるはかなし』『歌よみの阿佐緒は遂に忘られむか酒場女とのみ知らるるはかなし』という歌ですが、阿佐緒のほうは大きな、宮城県宮床村と書いてございますけれども、そこの大きな家の大金持ちの家に生まれたのでございます。ですけれども、そして美しい人で、会う人がみんな振り向いて見るような美しい人だったそうでございますけれども、その原阿佐緒という人と三ケ島葭子はとても親しかったんですね、不思議なことなんですけれども。
 阿佐緒が恋愛事件を起こして困っていると、相談相手になるのが三ケ島葭子だったということです。そういう不思議な親友だった人なんですけれども、阿佐緒の歌。あんまり美しかったために、いろんな男の人に愛されるんですね。それで、そのことにきちっと操を立てていけないで、寂しがりだったのでしょうか、ゆらゆらと寄り添っていっては子どもが生まれ、捨てられてはまた別の男の人に寄り添ってというふうな生活をした人が原阿佐緒でございまして、三ケ島葭子とはまるっきり違った性格であり生活をしたんですけれども、その2人は大変仲良かったということです。
 葭子が亡くなった後、42年間も阿佐緒のほうは長生きをしまして、80何歳かで亡くなったと思いますけれども、昭和44年まで生きていらした人です。そこには、仙台に二つの歌碑ができたと書いてございますね。『沢蟹をここだ袂に入れもちて耳によせきく生きのさやぎを』『沢蟹をここだ袂に入れもちて耳によせきく生きのさやぎを』という歌碑と、『家ごとにすもも花咲くみちのくの春べをこもり病みて久しき』という二つの歌碑が仙台に立ったということ、書いてございますけれども。原阿佐緒は年を取っても大変美貌であって、美しさが褪せませんでしたから、酒場のマダムになって、そして男の人を引き付けて商売をするとか、それから映画に出てみませんかと言われると、映画に出てみたり、お芝居に出てみたりして、本当に何ていうのでしょうか、翔ぶというのか羽ばたくというのか、そういう女の人の美しさを売り物にしたような思い切った生涯を送るのですけれども。
 そしてこの歌で分かるように、歌よみの原阿佐緒は忘れられて、酒場女の阿佐緒だけがみんなに知られているのは悲しいと歌っていますけれども、仙台に歌碑が二つ立ったことで歌よみの阿佐緒は残ったのであると北沢さんは書いていますけれども。歌を作った人だということが歌碑を作ったことで残ってよかったと書いてございますけれども、そんな感じがいたします。
 明治から大正にかけての女の人たちの歌がちょうどありましたので、コピーしたものでございます。たまたま三ケ島葭子の歌があったので、郷土のことが分かってよかったなと思って、これをコピーしてまいりました。
 こうして見ますと、女の人の歌っていうのは今も昔もその人の歴史というか、悲しい歴史が多かったわけですが、特に封建時代ですから、女の人っていうのは閉ざされた生活をしていましたし、夫の他に愛する人ができれば姦通罪っていうようなものがあって、女の人だけが罰せられるような世の中でございましたから、女の人の生活というのはいつも悲しい暗いことが多かったと思いますけれども、そういう時代を歌を作ってしのいで生きた女の人たちが多かったんだと思いますね。今のように、機械文明が発達して生活が楽になったと言いましても、やっぱりいくらか女の人のほうがつらい暮らしをしているのかもしれませんが、そんな生活を今も歌い継がれて、今の歌っていうのが出来上がっているんだと思います。そんなお話でございます。
 三ケ島葭子のことについては最近そういうふうに声価が高まってきて、素晴らしい歌人だったんじゃないかということが言われるようになって、『三ケ島葭子研究』という1冊の本ができるほどなんです。この『三ケ島葭子研究』を4人の女の人が共著で作っていますけれども、その中の1人の福原滉子さんっていう人が浦和の人なんでございますね。やっぱり自分も歌を作る人で、今井邦子さんっていう人の弟子なんですけれども、そういう人たちが作ったこういう本があるくらいでございます。『三ケ島葭子研究』、図書館にはあるの? なかったら買っていただきまして、読みたい方はね、葭子のことをもう少し知りたいとお思いになる方は、図書館にリクエストっていうのをいたしますと買ってくださいますから、買っていただいてください。そんなことでお話を終わりまして、歌のほうに入ります。
 1番の2首目のほうはまだやっておりませんね、1番の2首目。『張りつめし糸をはじけば稜として冴えたる秋の部屋に響きぬ』『張りつめし糸をはじけば稜として冴えたる秋の部屋に響きぬ』という歌でございます。この作者は1首目、2首目で分かりますように、針仕事、お裁縫の好きな方のようですね。そして2首目の場合は、縫う前に糸をピンピンとはじいて、そして縺れないようにして縫う場面でございましょう。張りつめた糸をはじくと、稜として鳴って、冴えた秋の部屋に響いた。その糸をはじいた音が部屋に響くほど秋の空気がさえざえとしているということを歌っていますね。ま、これでよろしいでしょう。
 『稜として』というところね、ゆうべ辞書を引いたんですけれども、稜という字は角という意味があるって書いてありますね。稜としてという熟語が辞書に出てなかったんで分からなかったんですけれども、感じとして稜と鳴ったと、糸をはじいた感じを歌っているんだと思います。稜というのは山のてっぺんとか、それから三角形の角とか、それから角という字なんですね、稜という字。『稜として』ときっと読ませていらっしゃるんですが、その秋のさえざえとした空気の澄んだ部屋でお裁縫をしている感じっていうのは、1首目2首目ともよく出ていると思います。普通ですと、凛としてとか、何かその音を出すかもしれませんね。凛としてというふうな感じかもしれません。
 2番へまいりまして、この方は秋の漂いというようなことを植物で歌ってらっしゃる方。『野分ゆきて朝日の庭に金色の木犀散りぬ敷きつめしごと』『野分ゆきて朝日の庭に金色の木犀散りぬ敷きつめしごと』。野分、あの秋の終わりに吹く野を分けて吹く風、その野分がゆきて、吹き過ぎて行ってその後、朝日のさす庭にはモクセイの花が一斉に散ってしまって敷き詰めたように美しい、落花、落ちた花が見られたという歌ですね。『野分ゆきて朝日の庭に金色の木犀散りぬ敷きつめしごと』。ある詩人が歌った詩を思い出すんですけれども、秋というのはモクセイの金色の輪をくぐって行ってしまうというふうな詩がございましたけれども、モクセイの花が落とす花は、輪を描いて円になって木の周りに散りますでしょう、その輪をくぐって秋の季節は行ってしまうという詩がございます。