さいたま市立大宮図書館/おおみやデジタル文学館 ―歌人・大西民子―

音声資料

「短歌講座」

昭和54年10月23日

 
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大西 ・・・それは仕方のないので、ご自分が作る歌がどっちに向いているかというようなことを、少しでも諦めながら、明らかにしながら歌を作っていらっしゃると、結社を選ぶときなどに、ちょっと便利なんですね。私はどっちかっていうとロマンチックなほうの歌が好きだっていえば、例えば、与謝野晶子から北原白秋、そして北原白秋はお弟子たちがたくさん今いられて、結社を作ってらっしゃいますから、そっちの歌を選ぶし。それからきっぱりとした、風景画のような、きっちりとした歌が好きだわと思う方は、アララギ系統の佐藤佐太郎とかいろいろいらっしゃいますね。鹿児島寿蔵さんもいますし、高安国世さんもいますね。そういうアララギ系統の雑誌を選んで入ってらして、自分がどっちかなということぐらいは、歌を少し作っていらっしゃると分かると思います。
 それから、人の歌を読んだときも、この歌はいいなあと思う歌があったとき、その人がどんな系統の人だかっていうことをちょっと調べますと、浪漫系統の人か、写実系統の人かって分かりますからね。もし本格的に歌を作っていこうと思うならば、そういう選び方で雑誌を選んで、結社を選んでお入りになるのがよろしいと思います。
 そういう、どうにもならない生まれつきの性格というものもございまして、私はどっちかっていえば、夢のような歌を作るのが好きな人間でして、それはもう、しょうがないんですね。それは駄目だと言われてもしょうがなくて、40年も続けているわけなんです。そういうことを、ご自身が見極めるもう一人の自分を持っていらっしゃれば、歌っていうのはきっと上達なさると思います。そんなことでこちらは終わりまして、残された時間で与謝野晶子をちょっと。
 「与謝野晶子の歌と生涯」という題目でお話しすることになっているところのプリントでございまして、ちょうど刷り増しをして皆さまに差し上げたわけでございます。大体、与謝野晶子、63歳で亡くなりましたか。昭和17年に亡くなった、明治11年に生まれて昭和17年まで、明治、大正、昭和と活躍した女流歌人ですから、その方の歌と生涯っていうのをお話しするのは、それは何時間あっても足りないようなものでございまして、そのお話をするためのプリントを差し上げたわけでございます。
 正味25分でございますので、簡単にしか申し上げられませんが、私の体験を申し上げますと、私は奈良の女高師に入りまして、1年生のときでしたか、初めて学校の図書館へまいりました。そこで薄暗い書庫の中で、『みだれ髪』という与謝野晶子の歌集を見つけたときの感動をいまだに忘れないのでございますけれども、細長い小さい歌集でございました。有名な『みだれ髪』っていう、本物なんだということ、まず重さを確かめて、そして借りて帰って、寄宿舎で一生懸命、その歌をノートしました。全部、写したんでございますけれども。その『みだれ髪』を写したのはちょうど私が15、6歳のときですね。そのときに、写しながら、手が震えて仕方がなかった記憶があります。女として、女の共感というのでしょうか。その『みだれ髪』の歌を書き写しながら、心が震え、指先が震えて、思うように歌が写せなかった体験を持っております。
 それで、これはすごいんだなという感じを持って、写したそのノート、いまだに持っておりますけれども、それほどに、『みだれ髪』という与謝野晶子の歌集は、それは素晴らしい芸術品であると今も思います。女の人を揺さぶりやまない、もう胸を痛くさせ、手を震えさせるような感動を呼ぶものでございました。
 その『みだれ髪』の歌を最初のほうに引いてございますけれども、与謝野晶子という人は、堺の大阪の商人の家に生まれました。駿河屋という羊羹屋さんだったそうですけれども、そこの商家の娘として生まれて、帳場などを手伝っているような、町娘だったわけですけれども、ふとしたことで文学に志すようになります。そしてその当時、日本の短歌というものを、古い歌の枠の中から取り外して、新しい日本の歌にしようとして、運動していた与謝野鉄幹という人と知り合ったわけでございますね。
 与謝野鉄幹という人は、本当に文学の徒といえるような人で、いわば生活力のない文学一途の青年だったようでございますが、その晶子がめぐり合ったときは、2度目の奥さんと暮らしていた、東京にいた人でございます。その人とめぐり合って、相手には奥さんがいるわけでして、いわば道ならぬ恋をしたわけですね。何とかして与謝野鉄幹のお嫁さんになりたくて、結局は家出をして東京に出て行くわけなんですが、その家出をする少し前に、京都の宿で、鉄幹と二晩を共に過ごすというような大胆なことをやってのけるわけです。今ですと、そんなに驚かなくても済むんですけれども、明治30年代ですから、本当に儒教的な教育環境の中にありましたから、町の娘が妻子のある男性と二晩も京都で宿で共にするっていうようなことは、本当に許され難いことで、それは晶子にとっては必死の覚悟だったに違いない。
 そういう道ならぬ恋に命をかけて二晩を共に過ごしたという後の歌が、その『みだれ髪』に載っているのでございまして、いわば『みだれ髪』というのは、そういう不倫の恋を乗り越えた女の人の必死の生き方というものが、まざまざと投影されているわけなんですね。乙女心では到底歌い尽くせない、そういう恋を成就した後の、女の人の心の高まりといった、そういうものの中で歌った歌が、『みだれ髪』だったわけでして。晶子は東京へ行って、鉄幹は結局、前の奥さんと別れて晶子と結婚するんですけれども、その結婚したというその証明書のようなものとして、『みだれ髪』を大急ぎで(####@00:07:16)作るわけなんです。
 その『みだれ髪』が結局は、日本の詩歌の夜明けを告げたというようなことを言われているわけなんです。そういう、一世を風靡するような、そして世の中を揺り動かすような作品っていうのは、そうやすやすとできたわけではないのでして、そういう老舗である家を捨てて、妻子のある男性のもとに走る、そういう命がけの行為を代償として得たのが『みだれ髪』の作品だったんだということが、一層の文学的な価値を奮い立たせるようなところがあるわけですね。そして、今でしたら何でもないような内容の歌なんですけれども、その頃とすれば、晶子の行動も激し過ぎたし、それから歌そのものも大変ショッキングな歌だったもので、毀誉褒貶相半ばし、ある人は大変褒めたし、ある人は大変けなすというような、すさまじい嵐の中で晶子は孤立したようなときもあったわけでございました。
 晶子自身は、その『みだれ髪』の激しい情熱の歌で一世を風靡して、有名な歌詠みになって、それから長く歌を作り続けるわけですけれども、その晶子自身がその若い頃に情熱の赴くままに作った歌っていうものに対して、大変、恥じていらっしゃるんですね。あんな歌を作って恥ずかしいことをしてしまったという思いが、いつまでも残っていたようでございました。それで、『みだれ髪』に最初表れた歌を何遍も書き直すんですね。そして書き直していくたびに、だんだん駄目になったと言われているんですけれども、そのほとばしるような、斬新な、フレッシュな感覚っていうものが、直すごとに失われていくと言われておりまして、今でもやはり『みだれ髪』の初版っていう最初のものが一番価値が高いとして言われておりまして。今度、図書館で、新しい図書館ができるという、復刻版っていうのを買いましたんですけれども、『みだれ髪』もやっぱり初版本の復刻を買い入れたわけでして、それは晩年の与謝野晶子にとっては心外なことで、あれは私の歌ではない、もうそれは昔の話よということなんですけれども、今、読んでもやはり初版本の破れかぶれって言ってもいいほどの激しさが心惹くように思いました。
 最初の『夜の帳に』って有名な歌で、『みだれ髪』の一番先にある歌なんですけれども、『夜の帳にささめき尽きし星の今を下界の人の鬢のほつれよ』という有名な歌が、大正4年になると『夜の帳にささめきあまき星もあらむ下界の人ぞ鬢のほつるる』と、こう直したんですね。今度、大正8年になりますと、『夜の帳にささめきあまき星も居ん下界の人は物をこそ思へ』っていうふうに、こう直していくわけなんですね、晶子さんはね。こうやって直していかれると、大変分かりやすくはなっていくんですけれども、『夜の帳にささめき尽きし星の今を下界の人の鬢のほつれよ』といった非常にロマンチックな、星の世界と人間の情愛の世界とを対比させながら歌ったような面白さっていうのが、だんだん失われていく。3首目になると、星もいるだろうって向こうのことにしてしまって、そして『下界の人は物をこそ思へ』っていうふうな、ごくありきたりな歌になってしまって、つまらなくなるんですけれども、晶子、作者自身が恥じたほど、それは奔放な歌い方であったということにもなると思います。
 そして、晶子は後には文化学院っていう学校を作りまして、そこの学監となって、教育のことなどに携わるし、婦人運動などにも精を出していきますので、余計に自分の若い頃にした業績というか、そういう活動を恥じるような思いがあったのでございましょうね。で、どんどん歌を削ったり直したりしていっているんですけれども、やはり最初の歌のほうが面白みがあるという感じがいたします。その例として、最初にその3首を引いたわけでございます。
 その次も有名な歌ですね。『乳ぶさおさへ神秘のとばりそとけりぬここなる花の紅ぞ濃き』『乳ぶさおさへ神秘のとばりそとけりぬここなる花の紅ぞ濃き』。ここで乳房というものが歌の素材に扱われてくるんですけれども。それまでの日本の歴史を、女性史を考えますと、乳房というものは子どもを養うためにだけあったのでございます。そして、乳母とか、めのととかって乳の字を使いますと、子どもを育てるための道具としての乳房しか考えられていなかった女性史があったわけですけれども、ここで晶子は、愛情の表現として、女性の表現そのものとして、乳房っていうものを持ってきた。そのことはすごくまた、当時にしてはショッキングなことだったのです。
 それから、その二つ置いてまた『春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ』という歌がありまして、これはまざまざと男性との関わりを示す言葉で、『ちからある乳を手にさぐらせぬ』なんてことは、とんでもない、当時とすれば大変なことだったわけですね。そんなようなことを大胆に言って、鉄幹との恋の成就ってことを歌ったわけでございます。
 4首目、『むねの清水あふれてつひに濁りけり君も罪の子我も罪の子』。そういうふうな自分の恋に対する自責の念っていうんですか、そういうものをも隠さずに歌っている。『柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君』。これも有名な歌ですけれども、『柔肌の熱き血潮に触れもみで』なんていうのは、非常に相手をそそのかすような、挑戦的な言葉ですよね。そういうようなことを歌でやってのけるってことも、本当に当時としては画期的なことだったに違いないのです。『寂しからずや道を説く君』、この君は夫になった鉄幹のことであったという説と、それからその前に堺で交際のあった河野鉄南という男性がいらして、その人は坊さんであったので、その人に宛てた歌だとか、いろいろ言われておりますけれども、そのことはともかくとして、『柔肌の熱き血潮に触れもみで』なんていうことは、なかなか当時としては言い難いことだったと思います。
 『なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな』『なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな』。これは教科書なんかにも出ておりまして、さりげない歌、花野っていうのは秋の花の野原、秋の草花の咲いている野原。何となくあなたに待っていられるような気がして、野原に出たっていう歌ですけれども、こういう歌もさりげなく歌われていますけれども、情感が深い歌になっていると思います。
 こういうような若い時代の歌、そして明治時代に10冊、歌集を出しました、晶子は。大正時代になってまた10冊出し、昭和になってからも3冊出して、合計23冊、歌集を出したと言われておりますけれども、大正期になっていくと次第に調べが沈んでいくわけですね。ものの本によりますと、晶子は9人の子どもを育てたと書いてあり、それから森藤子さんっていう、晶子の末娘の本によりますと、私は11番目の子どもであったと書いてあるので、多分、11人子どもがいたのでございましょう。ある本には9人の子どもがあったと、それぐらい分からないぐらいたくさん子どもがいて育てた。そういう育てながら、与謝野鉄幹はやっぱり生活力のない夫でございましたから、子どもを育てる生活費も稼がなければならないし、さまざまな苦労をして暮らすわけなんです。ですから、いつまでも甘ったるいことを言っていられるわけはないので、次第にリアルな感覚も加わっていくわけです。
 そういう歌の流れを見ていくと、きりがないわけでございますが、その『夏の風山よりきたり三百の牧の若馬耳ふかれけり』『夏の風山よりきたり三百の牧の若馬耳ふかれけり』。非常に感覚の優しい歌で、夏の風が吹いてくると、三百頭もいる牧場の若馬がみんな耳を吹かれて遊んでいたっていう歌ですと、非常に爽やかにいい歌になっておりますね。
 『ほととぎす治承寿永のおん国母三十にして入りませる寺』。これは寂光院を歌っておりますけれども、寿永3年の平家の滅亡のときに、助けられて尼さんになった建礼門院ですか、あの方が住んでいた、おん国母、帝のお母さんって意味でございましょう? 建礼門院が30という若さで尼さんになって入られたのが、この寂光院だと歌った歌。
 それから、『鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな』。有名な歌でございますね。これもお釈迦さまというような仏像を『美男におわす』なんていう歌い方は、その当時としては非常に冒瀆的なことで、仏教をけがすにもはなはだしいというふうに非難を浴びた歌だということですけれども。露座の大仏を見て、ああ、美男だなあと思ったことを、そのまま歌ったわけでして、なんの恐れもなく、その自分の感情をむき出しにして歌ったという面白さがあると思うんですね。この『美男におわす』はいかにも俗っぽくていかんという説が、ほうぼうで言われたそうでございますけれども、今も残ってちゃんと教科書に載っておりますから、やっぱりそう美男でもないという説もあるんですけれども、またこの後いらしたらご覧になってみてください。『鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな』。今、読んでもいい歌ですし、歌碑にも刻まれて残っておりますね。
 それから、『海恋し潮の遠鳴りかぞへては少女(おとめ)となりし父母の家』。これは大変、晶子自身がお好きだった歌だそうでございまして、何かにサインをしてくれと言うと、この歌をお書きになることが多かったそうですけれども、堺の自分の実家、一度は家を捨てて出て、そして勘当されて、長男の人などとは付き合いがなかったといえるような、ひどい別れ方をして家出をしたんですけれども、少女時代を育った堺の海に近い家が、どんなにか後の生活の中で恋しかったかということですね。『海恋し潮の遠鳴りかぞへては少女となりし父母の家』。
 それからその次も、教科書によく採られていて、『金色のちひさき鳥のかたちして銀杏散るなり岡の夕日に』『金色のちひさき鳥のかたちして銀杏散るなり岡の夕日に』。(註:原歌は『金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に』)これも人口に膾炙した歌でございましょう。
 それから、『ゆるしたまへ二人を恋ふと君泣くや聖母にあらぬおのれの前に』『ゆるしたまへ二人を恋ふと君泣くや聖母にあらぬおのれの前に』。『おそろしき恋ざめごころ何を見るわれをとらへん牢舎(ひとや)は無きや』。『撥に似るもの胸に来てかきたたきかきみだすこそくるしかりけれ』。この3首あたりは、鉄幹の不行跡を歌っているんですね。山川登美子という女性と三角関係だったっていうことは、ご存じの方多いと思うんですけれども、鉄幹をめぐって、うら若い山川登美子と与謝野晶子が恋を争ったわけですね。山川登美子のほうは、旧家の人でどうしても親の決めた結婚をしなければならなくて、恋を晶子に譲って、そして越前の国に去って行って、そこで夫になった人が肺病で亡くなって、自分も間もなく死んでしまうんですけれども。その鉄幹はぬけぬけと2人の人を同時に愛するのが男の道だとかなんとか言うんですよね。そして忘れ難いとか言って泣く。自分自身はそんなこと告げられて、聖母ではない私の前でそんなに言われてどうしようっていう苦しい歌ですね。
 それから、恐ろしい恋ざめごころ、そんな恐ろしい恋ざめを自分が体験するぐらいなら、牢屋にでも入っていてしまいたいというようなことでしょう。それから、そういうことを知ったときの驚き、『撥に似るもの胸に来てかきたたき』。自分の胸を苦しめるようなことを、『撥に似るもの胸に来てかきたたき』と歌っていますが、どんなに苦しかったかということを歌っています。そういうような30代の苦しい生活があるわけなんですけれども。その次の『元朝や馬に乗りたるここちしてわれは都の日本橋ゆく』。『元朝や馬に乗りたるここちしてわれは都の日本橋ゆく』っていうふうな、お正月の爽やかな気分を馬に乗ったような気持ちだと歌ったりもするわけですね。
 そうして30代が過ぎようとして、与謝野晶子の名声はどんどん高まっていったんですけれども、鉄幹さんのほうはなかなか、うだつが上がらないわけです。そういう夫を見るのが大変、晶子はつらかったものですから、日本にいないで、外国にでも行って勉強すれば、もう一旗あげられるのではないかということで、鉄幹を外国に出してあげるわけですね。その外国に行く費用も一生懸命、彼女稼いで、百首屏風などというものを作りまして、色紙を散々書きなぐって、屏風に張り付けて売り歩くとか、いろんなことをしてお金の工面をして、鉄幹を送り出そうとするのですけれども。鉄幹のほうは、てろんとして、昔の奥さんの実家に行ったりしまして、お金を借りたりしまして、そしてお金はもうあるからいいよなんて言ったりして、晶子を嘆かせるんですけれども、そんなことをして鉄幹は外国に行くわけなんです。
 で、別荘も持って子どもたち育てながら、晶子はいようと思うんですけれども、鉄幹がいなくなってみると、とても夫が恋しくてたまらなくなって、翌年、追いかけてパリへ行くのです。それも船に乗らないで、シベリア経由で揺られ揺られ、あの大陸を横断して、フランスへ行くのだったんですが、そのフランスへ行ったときの歌。『三千里わが恋人のかたはらに柳の絮(わた)の散る日に来る』。『ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌栗われも雛罌栗』。ヒナゲシのこと雛罌栗っていう、シャンソンございましたね、雛罌栗。そんなような、少し別れているとやっぱり恋しくなって、夫のもとに飛び込んでいく、そういう晶子の女らしさを歌った歌で、この他にも何首か作られております。
 そして、末娘の森藤子さんが書いた『みだれ髪』っていう本を読みますと、母の若いときはともかくとして、中年の頃に夫を慕ってパリへ行ったということは、どんなにお母さんにとっていいことだったろうかというようなことを言っておりますけれども、無理をしてパリへ行ってよかったんだろうということを書いておりました。
 そして、夫の所へ行って、パリで少しいるんですけれども、そしてあちこち歩くんですけれども、どうしても家のことが心配になってくるんですよね、晶子はね。そして動物園へ行って、『象を降り駱駝を降りて母と喚びその一人だに走りこよかし』と歌ってしまうのね。象に乗ったりラクダに乗ったりして遊んでいる子どもたち、外国の子どもたちを見ると、日本にいる自分の子どもがもうたまらなく恋しくなってくるんですね。たった一人でもいいから、あそこから降りて、自分の子がいて、お母さんと呼んで、『一人だに走りこよかし』、走ってきてほしい、そういう思いが募っていて、そして鉄幹を置いて帰ってくることになったんですね。『子を思ひ一人かへるとほめられぬ苦しきことを賞め給ふかな』『子を思ひ一人かへるとほめられぬ苦しきことを賞め給ふかな』っていう歌で、その思いが分かるわけですけれども、一緒にこちらにいたいのはやまやまだけれども、子どもを思うと、どうしても帰らざるを得ない。夫を1人、パリへ残して帰っていくんだけれども、ああ、おまえは立派だよと褒められる。『苦しきことを賞め給ふかな』と歌って、残念ながら日本へ帰ってくるというような、本当に子どものための生活もするわけですね。
 そして、晩年になってきますと、歌壇の流れというのが、そういう浪漫派全盛時代、例えば、北原白秋とか吉井勇とか与謝野晶子とか、そういう人たちが活躍した時代が去って、写実派のアララギ全盛時代が訪れてくるのです。そして、歌壇の流れは、次第に写実一色になっていきました。『アララギ』という雑誌がだんだん広がって大きくなっていきまして、歌といえば写実派のきっかりとした写生、実相観入ということを斎藤茂吉は申しましたけれども、物をよく見てつかんで、その生命を描くのが歌だというような、夢や幻のような歌は歌ではないのだというような、写実派の歌が全盛を極めていきますから、次第に晶子の存在というのも、歌壇で薄くなっていくわけなんですね。
 そういう寂しい中で、晶子はその古い時代に得た名声を遺産のようにして守りながら、歌を作り続けるわけなんですけれども、その新しい歌を開いたという誇りは、最後まで彼女を支えていたと思います。その『劫初よりつくりいとなむ殿堂にわれも黄金の釘一つ打つ』というふうな歌に、晶子のプライドどいうんですかね、大昔から営まれてきた殿堂、芸術の殿堂かもしれませんが、その殿堂に私もまさしく一本の黄金の釘を打ったことだけは確かだということをはっきりと言って、そしてその誇りに支えられて生きるわけなのです。
 で、鉄幹が先に亡くなりまして、その後は寂しい挽歌を作り続けておりました。『青空のもとに楓のひろがりて君亡き夏の初まれるかな』。『筆硯煙草を子等は棺に入る名のりがたかり我を愛できと』『筆硯煙草を子等は棺に入る名のりがたかり我を愛できと』。亡くなった後、鉄幹遺愛の筆とか硯とか、たばことかを子どもたちがみんなでお棺に入れてあげるのでしょう。そうしたときに晶子を支えるのは、かつて本当に彼に愛されたという、そういう記憶だけ、寂しさを抱いてそれを見守っているわけですね。そういう挽歌を作って、やがて昭和17年ですか、脳出血で倒れて、2年たった後、亡くなって、63歳の生涯を閉じるのですけれども。
 晶子の生涯っていうのは、結局、時代の子っていう感じがするのですけれども、明治30年代の日本の隆盛期、高度成長期といいますか、明治時代の高度成長期のときに、新しい道徳を打ち立てるような歌を作り、そしてその後、次第に時代が静まっていって、アララギの時代になっていく。そういうときに、ひたむきに耐えて子どもを育て、夫を愛して、夫を助けて一生を送ったという、そういう感じがいたしまして、明治、大正、昭和の時代を背負って生きた人のような気がするんですね。やっぱり晶子は時代の子であったんじゃないかなという気がして、一生を辿るような何冊かの伝記を読んだりしたんですけれども。
 そうして、私が与謝野晶子の一生を振り返って、最後に残るものは、あの『みだれ髪』を書き写しながら胸が震えてならなかったという感動が、やっぱり最後に残るんですね。それだけに、明治30年代に晶子が成し遂げた文学の業績っていうのは不滅のものだったに違いないし、『みだれ髪』っていうのはやっぱり、これから永久に残っていく一つの女の花であっただろうと思うんですね。そんな気がして、晶子を読み終わったところです。以上です。
 
(了)