さいたま市立大宮図書館/おおみやデジタル文学館 ―歌人・大西民子―

音声資料

「短歌講座」

昭和54年10月23日

 
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大西 安いものに焦る気持ちになるという気持ちを歌っていまして、『広告に目はせわしく動く』。自分の目なんですけど、それをちょっとよそから見たように、『広告に目はせわしく動く』という歌い方は、ちょっと面白いと思いました。普通ですと、バーゲンの広告に心惹かれるとかなんとかってごまかしてしまうところなんですけれども、心惹かれるなんて言わないで、目はせわしく動くよと。動くと直したにしましても、その自分の目の動きを面白いと思ったもう一人の自分がいるわけですね。それが面白いと思いました。
 こういうような、生活の中にちょっとあることを歌ってらっしゃると、歌の材料って無限にあるのでございますね。なかなかそれが拾えないんです。材料を拾うっていいますと、普通、私どもは手帳を持っておりまして、ちょっと思い付いたことを書き込んでおく。そのメモ帳を用意しておくのが普通のやり方で、一番、手っ取り早いかと存じます。これは歌になりそうだと思うことを、それは中身でもいいし、言葉の一節でもいいんですけれども、ちょっとメモしておく。そして、あるまとまった時間が持てたときに、机に向かってそのメモ帳を広げますと、そのときの感動がよみがえってくることもあるし、それから、やっぱりこれ歌にならないなと思うこともございますけれども、歌を作る人は拾い屋でなければいけないと言われております。何でも拾っておく、拾って書いておく。覚えておくってことには限界がございますので、書いておくっていうこと。
 私、よくその書いたものを失ってしまうので、何もならないんですけれども、書き込んで持っておくということが大事でございます。それがいつかは歌になって花が咲くと、そういう種のようなものでございます。必ず小さいメモ帳を枕元に置いて寝るとかして、夜眠れないときはちょっと何か書き込んでおくとかしておきますと、いざってときに歌になるんです。
 歌の聖と言われた斎藤茂吉という人は、いつも手帳を持って歩いて、存分にメモをしたそうです。あるとき、そのメモのノートを失ってしまって、本当に大騒ぎをしたそうです。あの手帳がなければ私は歌ができないって、本当に探しまくった経験がございますそうで、それからは、2冊目の手帳からは、手帳の後ろのほうに、「もしこの手帳をお拾いの方は、先へ必ずお届けくだされたく候。応分の謝礼をいたすべく候」と書いておいて、そして落としたときは必ず届くように、電話と住所を入れておいて、お礼も差し上げると書いておいたそうです。そのぐらい手帳というのは大事なものでございますので、どんなメモ帳でもよろしゅうございますし、広告の白いところを綴じたもの、何でもよろしいのですが、ちょっとエプロンのポケットに入れられるような小さいものにしまして、小さい、ちびた鉛筆とその紙きれを持っていることが、近道のようでございますね。
 私はそういうことを若いときは大変、軽蔑しておりました。そんなものをリアリズムっていうんだとしたら、それは嫌だなあと思って。花が咲くように、花火が空に舞い上がるように、心の中に浮かんだ幻想を歌うのが歌だと信じていた時代がございました。若かった頃ですね。でもだんだん年取ってまいりますと、そんなふうにいくら待っても花火は上がらないのでございまして。やっぱり見たり聞いたりしたことを、丹念に拾っておいて、それを組み合わせて、そして自分の気持ちを表現するっていうほうが、やっぱり歌を作るのには一番、真っ正直な方法なんじゃないかなっていうことをこの頃は思うのです。できれば小さい手帳と短い鉛筆をポケットの中にいつも忍ばせておくということが、歌を作る人の心構えのようなものでございましょう。
 斎藤茂吉というようなあの大歌人もそういうことをしておられる。私どもはこの手帳をお届けくだされたく候とはなかなか書けませんけれども、恥ずかしくて書けませんけれども、そういうふうに書くようになってから、茂吉は手帳を落とさなかったということでございます。それくらい大事なものなんですね。拾い屋であること。昔、ばたやさんという商売がございましたけれども、歌を作る人は拾い屋をして、何でも拾っておくこと。そのかわり、歌を作るときにふさわしくないと思った、これは歌にならないと思ったものは、潔く捨ててしまう。多く拾って多く捨てる、そして残ったものこそが歌になって花開く本当の種なんでございますね。拾い屋であり、捨てることも惜しんではいけない。そういうのが歌作りの根幹でございましょうか。
 3時を過ぎてしまいましたね。「奥さま、3時です」という番組はなかったでしょうか。30番。『阿弥陀仏にもろ手合わするわが母のかがまりゆきし背目守りてゐたり』『阿弥陀仏にもろ手合わするわが母のかがまりゆきし背目守りてゐたり』。『踏みて入る色づき染めし山の香はそこはかとなくわれを包めり』『踏みて入る色づき染めし山の香はそこはかとなくわれを包めり』。これは1首目のほうに丸をしてください。
 ごめんなさい。29番の1首目のほう、落としました。『庭草の伸び止まりしに蝉が来て暑冷繰り返し秋深まるか』。読んで分かりやすい歌でございまして、秋になって庭草が伸びるのをやめたということは、もう時期が過ぎてしまって秋になったということを言っていらっしゃるわけで、そうかと思うと、暑い盛りと同じにセミが鳴いたりする。そして暑い日と寒い日が繰り返しながら、そうしているうちに、秋が深まるのだろうかと歌っていらっしゃいます。29番の1首目のポイントも、悪くはないと思います。ちょっとどうかなあと思う表現は、暑冷繰り返し、というところですね。暑冷、なるほど字の通りなんですけれども、暑冷繰り返し、そこら辺、少し考えるといいんじゃないかなと思いました。
 私だったらどうするのだろうなあと思ったんですけども、『庭草の伸び止まりしに蝉が来て』ということで、秋の気配がありながらセミが鳴いたりする、そういう感じを、『暑冷繰り返し』とあまり端的に言わないで、『定めなきまま』とかなんかすれば歌になるかなあという感じがいたしました。『庭草の伸び止まりしに蝉が来て定めなきまま秋深まるか』。暑冷繰り返しと同じことなんですけれども、定めない、なかなか天候が定まらないということ、『定めなきまま秋深まるか』とでもすれば、歌の格好がつくかなという感じがいたしました。暑冷繰り返し、いかにも理屈っぽいですね。
 それで29終わりまして、30番。阿弥陀様にもろ手を合わせているお母さまを見ると、背後から見ると、何か背中がかがまって、いかにも年取った感じがすると、そのお母さまをしばらく後ろから見守っていました。目守るという言葉、見守るっていうことなんですね。目で守るってことで、見守る。まもりていたり、と読みますけれども、目で守る、見守るっていうことです。仏さまに必死に、一心に手を合わせていらっしゃるお母さまは、背中がかがまって小さくなったなあと思って、寂しくて眺めていたということですね。
 そこの『かがまりゆきし背』、かがまっていったと歌っていますけれども、『かがまれる背を』でいいんじゃないでしょうか。かがまりし、でもいいし。『わが母のかがまりし背を目守りてゐたり』、かがまれる背を目守りてゐたり。かがまっていったとその経過まで詳しく言わなくても、今のかがまってしまった状態を言うだけでもいいんじゃないかなと思います。『もろ手合わするわが母のかがまりし背を目守りてゐたり』。『かがまれる背を目守りてゐたり』、どちらでも結構です。お母さまに優しい視線を注いでいる作者を感じさせると思いました。
 それから、その次の歌。『踏みて入る』、ちょっとそこのところ、間遠い感じがしますので、『踏み入れば』。『踏み入れば色づき染めし山の香は』、踏んで入ればという、『踏み入れば』。入れば、踏み入れば。『踏み入れば色づき染めし山の香はそこはかとなくわれを包めり』。とでもしますと、この歌も爽やかな歌で、丸があげられますね。踏み込んだら色づいた秋の気配の山が、香りをそこはかとなく漂わせて、私を包み込むような思いがした。秋の山野の爽やかな感じを歌っていらっしゃると思います。『踏み入れば色づき染めし山の香はそこはかとなくわれを包めり』ということで、山に入り込んだときの秋の気配に驚いた、そういう気持ちを表していらっしゃると思いました。
 31番。『こころよき夢見しならん眠りつつ子犬はゆるく尾を振りており』『こころよき夢見しならん眠りつつ子犬はゆるく尾を振りており』。私も犬を飼ったことがありまして、妹に愛犬協会の会長さんになれると言われたぐらい犬好きでございました。今はもう、死んだときがかわいそうで、飼う気がしなくなってしまったんで、飼っておりませんけれども、この方もだいぶ犬好きのようでございますね。『こころよき夢見しならん眠りつつ子犬はゆるく尾を振りており』。犬っていうのは、表情を目としっぽでいたしますね。このわんちゃんは眠りながら喜びの表情のしっぽを振っていたのですね。それを見て、ああ、気持ちのいい夢でも見たのだろうかと歌っている。『こころよき夢見しならん眠りつつ子犬はゆるく尾を振りており』。丸があげられましょうか。動物学者の先生がいらっしゃると、犬は夢を見ませんよとおっしゃるかな、よく分かりませんけれども。作者は、ああ夢を見たのだわと思って、犬の寝姿はとってもかわいいものでね、子犬はね。寝姿がかわいいのをほくそ笑んで眺めている。
 31番の2首目。『こだわりはいつか消ゆべしもどかしき思いこらえつつ受話器を置きぬ』『こだわりはいつか消ゆべしもどかしき思いこらえつつ受話器を置きぬ』。電話をかけていらっしゃる。そして相手は何かをこだわっている。それを感じて苦しい電話だったのでしょう。何とかしてそのこだわりを解こうと思うけれども、なかなか難しい。もどかしい思いだけする。でも、我慢をしてこらえつつ会話して電話を置いた。やっぱりそのうちに、そのこだわりもいつかは解けてなくなるだろうと、自分で自分を慰めるような感じ。それが出ていて、2番目も丸をあげられると思います。
 32番。『わが胸に一代(ひとよ)ともさん火の消えし寂しさにいて人の恋しき』『わが胸に一代ともさん火の消えし寂しさにいて人の恋しき』。私の胸に一生、火をともすだろうと思われたようなお人がいたのでしょう。その火がどうしたわけか、書いてありませんけれども、消えてしまった。その寂しさの中に暮らしていて、やはりその人が恋しく思われると歌っている。相聞の歌でしょうかね。丸をして差し上げましょう。『わが胸に一代ともさん火の消えし寂しさにいて人の恋しき』。しみじみと人を慕っている気持ちが表れている歌ですね。
 2番目のほう。『紫に花咲く葛を刈り残せし田に住む人の心に触るる』『紫に花咲く葛を刈り残せし田に住む人の心に触るる』。クズの花っていうのは有名な釈迢空の歌がございますね。『葛の花踏みしだかれて色あたらしこの山道を行きし人あり』という有名なクズの花の歌がありますけれども、このクズの花も優しいところを歌っています。紫色に美しい花を咲かせているクズ、そのクズを草を刈った人が刈り残しておいた。その刈り残しておいた人の気持ちがしのばれるという(####@00:15:54)ね。『紫に花咲く葛を刈り残せし田に住む人の心に触るる』、田のほとりに住んでいる人っていう意味でしょうか。その花咲くクズだけは刈らないで残しておいた、その気持ちの優しさに打たれて歌った歌になっておりますね。これも丸でいいかな。
 だんだん甘くなってきましたかな、点数。33番。『砂浜の秋は寂しもはたはたとよしずは夏の夢歌いおり』『砂浜の秋は寂しもはたはたとよしずは夏の夢歌いおり』。真夏の間は銀座のようににぎわうっていうことがございますが、にぎわっていた砂浜も秋は寂しい。そして海の家に立てられてあったよしずでしょうか、そのよしずがはたはたと風に乗って、夏の名残を歌っているように思うっていうことですね。『砂浜の秋は寂しもはたはたとよしずは夏の夢歌いおり』。表現の行き届いた歌でしょう。秋の海の寂しさを表現しています。作者も寂しいようですね。丸でよろしいでしょう。夏の夢っていうところに、線を引いてきておりますが、『よしずは夏の夢歌いおり』、その夏の夢っていうふうなことを好まない人もいるかもしれない。夏の名残りっていうふうにぴしっと歌ったほうがいいと思う方もいるかもしれません。夏の夢がいいんだわさと思う人もいると思いますね。そんなところで好き嫌いで少し左右いたします。
 それから、『栗実れば栗の木くるる柿熟れれば柿の木くるるあばは声高』『栗実れば栗の木くるる柿熟れれば柿の木くるるあばは声高』。この歌も丸をしましたね。あの、あばっていうのはどなたなのか分かりませんけれども、あばと呼んでいる作者にとっての親しい人なのでしょう、私より。栗が実れば「ほら、栗が実りましたよ」と茹でて持ってきてくださったり、柿が熟れれば一番いいところを選んで持ってきてくださったりする。そういうお人がいて、その人は困ったことに声が大きいっていうことを歌っていらっしゃる。声高だっていうことは、人柄を表すのでしょうね。ざっくばらんであけすけな性分なのでしょう。それを少しためらいながら、やっぱりその持ってきてくださる方を待っているような、ありがたいと思っているような気持ちでしょうね。『あばは声高』と(####@00:18:57)ように歌ってらっしゃいますが、ああというような作者の嘆声が聞こえてくるようです。こういう歌い方も面白いんじゃないでしょうか。ちょっと山上憶良の歌、思い出しますね。『瓜食めば子ども思ほゆ』って歌がありましたでしょ。ちょっとそんな感じもあって面白い歌になっています。『瓜食めば子ども思ほゆ』、山上憶良の子どもを思う歌っていうのは有名で、人口に膾炙されていますね。
 34番。『雁金や見果てぬ夢の跡追うて寂しく暮れし薄墨の空』『雁金や見果てぬ夢の跡追うて寂しく暮れし薄墨の空』。作者が見ているのは空を飛び去っていくガン、カリですね。雁金や、と呼びかけるようにして、『見果てぬ夢の跡追うて寂しく暮れし薄墨の空』。新古今集、定家の歌のような感じがするかな。少し古体、古風なスタイルの歌っていうかな、雁金や、って呼びかけるような歌い方。西行もそうでしたけれども、吉野山、とこう呼びかけているような歌。『雁金や見果てぬ夢の跡追うて寂しく暮れし薄墨の空』。秋の夕暮れの、『いづこも寂し秋の夕暮れ』という感じが出ておりますね。現代の歌とすれば少し古風な感じがなきにしもあらずですね。なぜ寂しいのか、薄墨色の空が寂しく暮れている。『見果てぬ夢の跡追うて』っていうのが雁金のようでもあり、作者のようでもあり、少し古風な感じに仕立てられていると思います。
 その次もそうなんですが。『いつしかに離れし友の懐かしく花の咲きそめし庭の白萩』『いつしかに離れし友の懐かしく花の咲きそめし庭の白萩』。非常にやはり、古風な感覚で歌ってらっしゃいます。こっちのほうはまだも、友っていう1人の具体的な人物が現れるので、読む人に近づいた感じになりますけれども、1首目のほうはちょっと遠い感じがしますね。はるばるとした感じがいたします。2首目のほうには丸があげられます。
 それから、『いつしかに離れし友の懐かしく』、その離れるという字ですね、『いつしかに離れし友の懐かしく』、それをさかるということがありますね。『さかりし友の懐かしく』、送り仮名を「り」と入れますと、『さかりし友の懐かしく』、さかるという言葉を今も割合に歌でもよく使っております。離れる、別れるという意味でございます。『いつしかにさかりし友の懐かしく』のほうが少し歌らしくなるかなという感じですね。どちらでもよろしいんですけれども、離れしよりは、さかりしのほうがしっくりくるんじゃないでしょうか。
 それからこういう調子を重んじた、調べの歌は、なるべく字余りがないほうがよろしくて、そうすれば下の句のほうも花「の」は要らないかもしれません。『花咲きそめし庭の白萩』と、字余りをなくしたほうがいいのかもしれません。歌には内容で勝負する歌っていうんでしょうか、歌われた内容の面白さで勝負する歌と、それから調べの豊かさ、なだらかさっていうようなもので勝負する歌と、いろいろその混じった混合もあったりいたしますけれども、こういうふうに調べをどっちかというと重んじたような歌のときは、なるべく字余りをなくして、読んでなだらかに読めるような歌にしておくと、また魅力が出るわけですね。『いつしかにさかりし友の懐かしく花咲きそめし庭の白萩』。字余りをなくしたほうが、この歌の場合は効果があるかもしれません。
 それから35番。『暮れなずむ秋の夕べの寂しさに別れし友の訪れ待ち』、『訪れを待つ』でいいんじゃないかな。『暮れなずむ秋の夕べの寂しさに別れし友の訪れを待つ』。訪れを待つ、のほうがすっきりしましょうか。『暮れなずむ秋の夕べの寂しさに別れし友の訪れを待つ』。丸でいいでしょうね。秋の夕べの寂しさ、何となく人恋しい季節、時刻ですね、秋の夕暮れ。「れ」も入りますね、訪れ。訪れん、訪れたりと活用しますから、活用するところから送り仮名を送るのが原則ですので、『訪れを待つ』。『暮れなずむ秋の夕べの寂しさに別れし友の訪れを待つ』。丸でいいでしょうね。優しい歌になっています。
 『秋雨の晴れ間の庭の片隅に名もなき花の楚々と咲く見ゆ』。咲き見ゆ、『咲く見ゆ』ですね。『咲く見ゆ』、咲くのが見えるということです。『秋雨の晴れ間の庭の片隅に名もなき花の楚々と咲く見ゆ』、これもよくできておりますが、考えなければいけないことは、大抵、白いお花のときにそう言ってしまうんですけれども、楚々と咲くという言葉。楚々とした感じとかね、楚々という言葉はよく使うんですけれども、それはいかにもありきたりの表現でして、やっぱりその花そのもの、楚々と感じる前に、楚々と感じさせた何かがあるわけで。例えば、花びらが薄かったとか、白かったとか、まばらだったとか、その楚々という感じの内容、実態があるわけですので、楚々と咲くというより前の、その具体的なことを描くようにするほうが、リアリティが出るわけですね。
 白いお花なら何でも楚々と咲くし、川は何でもさらさら流れるし、雲はいつでも悠々としてるし、というふうな常識的な形容詞をなるべく使わないで、自分が感じたまま歌うのがよろしいと思いますね。常識的な、常套的というんですか、そういう形容詞や、特に擬音、川がさらさら流れる、風がそよそよ吹く、ひっそりと人が近づく、そういう、ひそひそとかそういう擬音、擬態、そういうような言葉は特に気を付けないといけないですけどね。あまり常套的なことをそのままそっくり使わないで、なるべく自分の目を信じて、見たまま、感じたままを持ってくるのがいいんじゃないかと思います。
 
A- (####@00:27:15)白い小さい花の(####@00:27:20)言葉が分かんなかったんです。
 
大西 よろしいんですよ。それでもいいんですけれども。
 
A- (音質不良にて起こし不可)
 
大西 そうですね。それ、白いお花でしたか。
 
A- (音質不良にて起こし不可)
 
大西 『名もなき花の』、例えば、それが白々と見えれば白々と咲くだし、それから細かい花だったら細かく咲きぬ。なんかそういう実際の、実態を大事にして描くほうが、自分の歌になるわけ。楚々と咲くというのは誰でも言える言葉で、個性のない言葉になってしまっているでしょ。なるべく、こまごまと咲くとか、白々と咲くとか、それから低いたんぽぽだと地に張り付いて咲くとか、固まって咲くとか、離ればなれに咲くとか、咲き方いろいろありますからね。それを眺めて、楚々となる前の言葉を探すということが大事だと思います。
 でも、突然に出していただいた作品、71首を拝見したわけですけれども、歌は誰でも作れますというキャッチフレーズ、本当に、どなたもお作りになれて、ようございました。よく歌の会にまいりますと、自分の歌を批評していただくと、早速、帰る人がいますの。それは大変、損な性分でございまして、やっぱりよそさまの歌がどういうふうに言われるかっていうことを聞くことは大変、大切でございまして。自分の歌じゃなくても、その歌を眺めて、自分ならこうは歌わないとか、私ならこう歌う、というふうな歌の批評の原点になるわけでして。
 歌っていうのは、やっぱり文学のジャンルであり、芸術のジャンルでございますので、いい悪いっていうのは、数学のお答えのように、1足す1は2であって、3では間違いだというようなことは絶対にないのでございます。ですから、私がこの歌はどうもおかしいって申し上げても、もう一人どなたか見ればいい歌になるかもしれないし、もう一人の方が見れば、普通の歌になるのかもしれないし、見る方によってさまざまに評価が違うのが、歌の批評だろうと思うんですね。そうした中で、今はもう、アララギ派も明星系もなくなっておりますけれども、そんなふうに流派の違いっていうのは画然としたものはもうなくなっておりまして。歌壇のジャーナリズムっていうのが大変、発達しましたから、『短歌新聞』があり、『短歌公論』があり、『短歌現代』があり、『短歌』があり、『短歌研究』がありと、ジャーナリズムはたくさんできましたから、いろんな人のいろんな派の人の歌を見ることができるのが私たちの実状でして。昔は総合雑誌っていうのがございませんでしたから、アララギの会に入っていれば『アララギ』しか見なかったわけですね。それから、明星に入っていれば『明星』しか見なかった。だから、他の歌は全部、駄目で、明星の歌だけがいい。でなければ、アララギは神様のようなもので、アララギの歌なら何でもよくて、他の歌は全部、駄目っていうふうな、大変、セクショナリズムが昔はあったわけなんですね。今はもういろんな歌が新聞にも雑誌にも載っておりまして、その流派ってのはどんどんなくなっていると言ってもいいと思うんです。どちらかといえば、私はロマンチックな歌が好きだっていうことなんです。