さいたま市立大宮図書館/おおみやデジタル文学館 ―歌人・大西民子―

音声資料

「短歌講座」

昭和54年10月23日

 
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(雑談)00:00:00~00:00:23
 
大西 あっという間に1週間過ぎてしまいました。1週間って言ってしまいますけれども、計算さっきしましたらば、168時間ですね。168時間も過ぎてしまいましたのに、依然として風邪は治らず、休んで寝てるといいんですけれども、なかなか休めないお仕事でして。きょうも一日、本を運ぶ仕事をしておりまして。大汗をかいたところでホシノさんが見えて。
 でも、きょうはとてもドライブ日和でございまして、久喜から与野まで、ひとっ走り、県道の栗橋大宮線っていう所、走ってますけども。きょうのようなお天気の日は、ホシノさんに申し上げたんですけれども、逃げ水がよく見える。逃げ水ってご存知でしょうか。昔から武蔵野の逃げ水って有名でございますけれども。昔は山また山、ここら辺の山っていうと、林、野っ原のことのようですけれども。どこまでも、草わらの続いているような昔の武蔵野。そこを旅をする人が、向こうのほうに水が見える。そう思って近づいていくとなくなっていて。また向こうのほうに水が見えて、そう思って近づいていって、どこまで行ってもお水はなかったというふうな現象が残っておりますけれども。その武蔵野の逃げ水っていうの、今もアスファルトになっても残っているのですね。そして、車の行く先々に水が光って見えて、近づくとなくなってしまう。辞書引きますと、蜃気楼の一種だと書いてございますけれども。そういう、昔ながらの逃げ水の歌も残っておりますので、そんなものを見ながら、明るいドライブ日和でございました。
 きょうは、与謝野晶子の歌を少しは読もうと思っているのですが。果たして回転がうまくいくかどうか、この機械が少し故障がちでございますので分かりません。きょうは3枚目の歌からお読みするわけでございますけれども。
 
(無音)
 
大西 限られた時間でございますので、一首一首の歌について、詳しい添削といいますか、お直しをあまりしていないわけで、最小限度にとどめていることをご承知ください。最小限度の添削というのは結局、語法を正して、正しく表現するというところまでお直ししていて、いかにうまく表現するかという、その上手な表現っていうことまでは立ち入ってお話ししている時間がないと思いまして。ただ、最低正しく伝達する、言葉の表現ということだけを眼目においてお話しいたしているつもりでございます。
 18番。『髪白き母に日差しの強ければちさき木陰も選(よ)りて歩みぬ』『髪白き母に日差しの強ければちさき木陰も選りて歩みぬ』。『古希過ぎて暑き日中(ひなか)に針を持つ母の手先の若やぎて見ゆ』『古希過ぎて暑き日中に針を持つ母の手先の若やぎて見ゆ』。18番の歌は、どちらもしっとりと、落ち着いた感じに歌われておりまして、お丸をあげられると思います。二つとも丸でいいと思います。お母さまが年を取っていらして、日差しの中で余計に、お髪の白いのが目立つのでございましょう。その白髪のお母さんと一緒に歩いていて、日差しが強すぎるなあと思い、なるべく道を歩くときに、木陰をよって、よるは選ぶということですよね。木陰を選んで歩くようにしたという、子どもの優しい気持ち。子どもといっても、もう大人ですけれども、母にとっての子ども。子どもの優しい母を思う気持ちが、優しく出ているかなと思って読みました。
 そのお母さん。もう古希を過ぎてしまわれているんだけれども、暑い日なのに、浴衣などを縫ってでもいらっしゃるのでしょうか。それとも秋の用意の何かを縫ってらっしゃるのかもしれませんけれども。そういう日中に、針を持って、昔ながらの針仕事をしているお母さんの手先。そのお母さんの全体像というのが、背を丸めて小さく縮んでいらっしゃると思うんですけれども、その手先のほうにふと目をやると、母の手先がいかにも若々しく見えた。そういう昔ながらの仕事に携わるときの女の人の美しさっていうんでしょうか、そういうものを、うまくとらえていまして、この歌もよろしいと思います。表現の上でも、間違いのない歌になっていると思いました。
 それから、19番。『梅雨よりの病に籠る日々にしてサルビアの朱(あけ)蘇る秋』『梅雨よりの病に籠る日々にしてサルビアの朱蘇る秋』。『虚しさはいずこより来(こ)し焚き口に鳴く虫の音は遠々となりぬ』『虚しさはいずこより来(き)し焚き口に鳴く虫の音は遠々となりぬ』。両方とも、秋の感慨を歌っていらっしゃいますね。自分の病が梅雨の頃から始まっていて、いまだにはかばかしい感じではない。梅雨の頃からの病に籠りがちな日々なんだけれども、サルビアは赤々と燃えて咲いて、よみがえるような秋になってしまった。少しは気持ちの立ち直った、病気の立ち直った感じが、歌えているかと思います。『梅雨よりの病に籠る日々にしてサルビアの朱蘇る秋』。気分の立ち直った感じを、歌おうとしていらっしゃると感じました。
 2番目のほう、『虚しさはいずこより来(こ)し』。来るという字が、文法で言いますと、カ行変格活用でございますので、こし、きし、両方読めるんですね。その作者の使い方で、いずこよりこし、と読んでもいいし、いずこよりきし、と読んでもいいわけですね。いずこよりこしのほうが、語感としては柔らかい感じになりまして。こし、こし、かと普通は読むようになっておりますけれども。この空虚な気持ちが一体どこから来たのだろう、と自分で反省する。なぜこんなに空虚なむなしい思いがするのだろうと考えている。
 で、焚き口ですね。ですから、お風呂の焚き口でもございましょうか。焚き口に寄ってきて、焚き口に寄って虫が来るということは、結局、涼しくなりすぎてきて、虫が暖かさを慕って焚き口にくるわけで、秋の深まりを示しているのでしょう。焚き口に寄ってきて鳴く虫の、それも、『遠々となりぬ』。秋の盛りのときには、近くにしげしげと鳴いていた虫の声。それも、いつしか遠ざかっているような感じで、虫の音が弱っているという感興なんでしょうかね。『虚しさはいずこより来(き)し焚き口に鳴く虫の音は遠々となり』。秋深い頃の、寂しい気持ちを歌おうとしていらっしゃると思いました。
 そこの、『遠々となりぬ』。ちょっと字余りになっていますのが、詠みづらくさせていると思いますけれども。『鳴く虫の音も遠くなりつつ』、とかなんかして、そういったほうが調子は整うように思います。『虚しさはいずこより来(こ)し焚き口の鳴く虫の音も遠くなりつつ』でも、いいんじゃないでしょうか。遠くなりつつ、くらいで抑えたほうがよろしいかもしれません。この虚しさのほうは、丸をあげられるかなと思いました。
 それから20番。『従容と病を友に旅をせん心持たざればこころ沈まん』『従容と病を友に旅をせん心持たざればこころ沈まん』。『外目には痛みを隠し歩みたりこの三十とせの過ぎし速さを』『外目には痛みを隠し歩みたりこの三十とせの過ぎし速さを』。少し、2首目のほうは、分かりづらい歌になっていると思いました。1首目のほう、従容と、落ち着いてということでしょうかね。落ち着いて慌てることなく、自分の持っている病気を友達にして。病気を友達にするということは、長い患いを持っている方でございますね。自分の友達のように病気を飼いならして、その病気を一緒に、お友達のようにして、旅をすればいいんだけれども、そういう心を持たないから、旅もできなくて、このように心が沈んでしまうのだろうと、自分の気持ちを見つめて歌っていらっしゃる。この1首目のほうに丸をあげたいと思います。
 従容と、落ち着いて慌てることなく、病気をさえ友達のように飼いならして、旅をすればいいのだろう。でも、そんな気持ちを持たないから心沈まん、沈むのだろうと、自分の心を少し客観視して、歌っていらっしゃるんですね。そこの所で、もし直すとすれば、下の句の『心持たざればこころ沈まん』。こころ、という字は二つくるので、考えた末この方は、片方をひらがなで書いていらっしゃる。そういうことをしてらっしゃいますけれども、なるべく同じ下の句の中で、こころは二つないほうがようございますね。そこを何とかしたいなあと、いう(****ガンボウ@00:11:51)を思いながら読んでおりまして。
 そうですね、『心持たざればかくは沈まん』。このようにも心は沈むだろうか。かくは、かくのごとくということですね、『かくは沈まん』、とでもしますと、こころが一つ消えまして、気持ちが通るのではないかと思いました。『従容と病を友に旅をせん心持たざればかくは沈まん』。このように心が沈むのだろうかというふうに、もう少し客観的にすると、いい歌じゃないかなと思います。いい歌になるんじゃないでしょうか、『心持たざればかくは沈まん』。このようにも心は沈むのだろうかと直すということですね。
 それから、その次のこの歌はね、『外目には痛みを隠し歩みたり』。痛みという所に線を引いたんですけれども、多分これは心の傷、心の痛みなんだろうと思いますね。心深く傷ついた気分を抱きながら、それを外目には何気なくさりげなく装って、もう30年も生きてきてしまったな、という年月の過ぎていく速さだろう、というふうに歌っていらっしゃる。『外目には痛みを隠し歩みたり』。これは実際のどこかに、足が痛いとか、胸が痛いとかいうんじゃなくて、心の傷のことなんではないかと思いました。それにしても、30年という年月、その心の痛みを人には隠しながら、生きてきてしまったなと、歌っていらっしゃいます。
 このみそとせの、そう読んだほうが調子がいいもんですから、そう読んだんですけれども、今はもう、30はさんじゅう、50はごじゅうで、分かりやすいように歌うほうが、よくなってきております。50になったことを五十路とか、80になったことを八十路とか使いますけれども、そういう必要ないんじゃないかと思いますね。この30年のと歌えても、読んでも構わないと思います。できるだけ、今の現代に生きている言葉を使って、そして優しい心を出すということが、よろしいのではないかと。言葉をいくら飾ってみても仕方がないので、なるべく、今の使っている言葉を、歌の中に生かして。そうしていくのが、歌を新しくすると思うんです。まして、若い人は五十路だの、八十路だの、三十路だのって言いましても、分かりませんね。それから、短歌のことも、みそひともじなんて申しましたけれど、今は31音とかって言って、はっきりと割り切って申しておりますので、あんまり言葉を飾らないで、古語をあまりこだわらないで、お使いいただくほうがよろしいと思います。
 最後の所、『過ぎし速さを』いかにせんとかっていう言葉がおありになって、読むのでしょうけれども、読む人が全部補って読んでくださると限りませんので、『この三十年の過ぎし速さよ』と、それで決めてしまったほうがいいのじゃないでしょうか。『外目には痛みを隠し歩みたりこの三十年の過ぎし速さよ』。それで十分じゃないでしょうかね。過ぎし速さを思うとか、なんか補わないと、そうでないと駄目ですね。なるべく言葉を補わないで、その一首の中で、きっちり完結した全体を作るということが、大事でございます。
 それから、21番のほう。『その夫(つま)の逝きて一人となりし』。そこ、誤植じゃないでしょうかね。なりしつま。
 
A- いや、すみません。先週、一通り直しましたので。
 
大西 あ、そうですか。『その夫(つま)の逝きて一人となりし人灯る厨に物刻む影』『その夫の逝きて一人となりし人灯る厨に物刻む影』。もう一首。『包丁の音冴え返る秋の宵一人の夕べの物刻みいる』『包丁の音冴え返る秋の宵一人の夕べの物刻みいる』。この二首の中で、一人暮らしの人が出てまいりますけれども、これは別人なのかな。そこのところ、ちょっと不審に思いましたけれども。夫が亡くなって、1人になってしまったある人が、台所に明かりをともして、物を刻んでいる影が映っている、と1首目では歌っている。そして2首目のほうでは、包丁の音を冴えるように立てながら、秋の夜に1人の夕べの物を何か刻んでいる、と歌っていて、この句の人が、同一人物なのか、それとも別々の人なのかなあと、考えさせられたことなんですけれども。
 それがなぜかって言いますと、1首目のほうでは、この歌の中の誰だったっていう、主語に当たる部分が、その夫が亡くなって1人となった人、が主語ですね。その人が、厨で物を刻んでいる影が見える、と歌っていて、作者は、それを眺めている立場にいるわけなんですが。2首目のほうでは、主語がないんですね。主語がないということは、その歌の主語は作者であることになってしまいます。歌というのは、私性、第一人称の文学と申しまして、主語がなければそれは自分、作者自身のことになってしまいます。そういう昔からの一種の約束というのかな、ありまして、私の文学と言われておりますけれども。何もないときは、主語は自分自身、作者自身ということになっているんですね。
 そうすると、2首目のほうでは、この秋の宵に1人、自分だけでする夕べの材料を刻んでいるのは、作者自身ということになってしまう。で、1首目のほうを見ると、それはどうも他人のようだと。そこの所の少しの違いが、それだけのことが出てきてしまうということを、お気を付けください。われはと、はい?
 
B- 同じ人なんですけど、どういうふうに表現したらいい(####@00:19:11)
 
大西 そうすると、2首目のほうを、ご自分ではなくて他人? ああそうなんですか。
 
B- マイクが、音が入らない。(音質不良にて起こし不可)(****インショウヲウケル@00:19:30)
 
大西 そうすると、2首目のほうでも、どこかで作者が他から眺めているということを、どこかに表さなければならないっていうことですね。作者がその人と、どんな距離にいらっしゃる場面かな?
 
B- (音質不良にて起こし不可)
 
大西 それは、視覚的にも見える距離ですか。
 
B- 見えないんですけど、影が見えて、音が聞こえる。
 
大西 そうなんですか。なんか皆さんは考えられますか、そういう場面。はす向かいに住んでいる方で、そして音は聞こえて、影が映ったりする。その人を見ている。だから、2首目も作者のことじゃなくて、その人のことなんですね。夫を亡くした人が、かわいそうだなあと思って。寂しそうだなあと思って見ている。
 
(無音)
 
大西 このままですと、『一人の夕べの物刻みいる』のが、作者ってことになってしまう。それを、どっかに突き離さなければならないですね。もし、見ゆって言えば、『一人の夕べの物刻む見ゆ』として、言っていいですね。ところが、見えているほどでもないです。影が映っていると。難しいですけれども、そういう所でちょっと工夫をして、一人の夕べ物刻む様子が見ゆと。刻む見ゆとすれば、それで他人になってしまう。ちょっとのところですけれど。今のこの作者の方のお気持ちには沿わないかもしれないけれども。そういう直し方をして、他人であることを表す必要が出てくるんですね。『一人の夕べの物刻む見ゆ』とすれば、見てるのが作者、見えている向こうがいるという、対象が分かれますでしょ。ちょっとのところで工夫をして、相手であることを確かめるということが必要になりますね。
 
B- ありがとうございました。
 
C- 連作の場合にそういう(####@00:22:17)。例えば今の場合、(****コレデナク@00:22:25)、二首だけでもっと他にあるのに(####@00:22:28)。連作の場合、どの程度、前に歌った部分を、あとでそうやって(****ヤッテル@00:22:34)かっていう。
 
大西 連作論っていうのがまた、この頃しきりに起こっているんですけれども、原則とすれば、連作の場合も、一首独立して鑑賞に堪えなければいけないんですね。そして、その一首独立したものが五首集まったときに、その5倍以上の価値観が出てこないといけなくなるんですね。一首一首読んだときと、また別な。一つ一つの歌っていうのは、ちょっと言えば小宇宙って言いますか、その人の全宇宙、ミクロコスモスって言いますか、そういうものを投入して、投影して歌うのが、一首の歌だ。どんなに短くても、その中には作者の全生命を打ち込んで作らなきゃならないというのが、歌の原則でございますけれども。
 その一首の歌で歌いきれない部分が残ったとき、それをきっかりと一首に独立して、それにも読むに堪えるような歌を五首並べるのが、五首の連作であって。言い足りない部分を次の歌で言って、また足りないから次の歌で言うっていうのは、連作の本旨ではないんですよね。一首一首、独立していること。他の歌に頼らなくても、意味がきちっとまとまってあること。それが五首集まれば、5倍以上の力が発揮できるはずなんですね。単純計算だと5倍だけれども、五首集めて読むと、もっと広まって、十首も二十首も小説を読んだくらい楽しいとか。そういうふうなことになるのが、連作の妙味なんですね。そういう連作もございますね。
 俳句なんかでもよく、連作で気分を出しているのを見ることがございますけれども。やっぱりそのときも、一首一首、一句一句は独立していますでしょ。で、十分読むに堪えるということが、原則だと思います。歌会に行きますと、「これは連作の中の一首でございます」とかいう、逃げ口上をよく聞くのですけれど、それはあくまで逃げ口上であって。連作の中でも、一首として直立不動でなければいけない。寄りかかっていてはいけないんですね。その原則があるわけですね。
 歌とすれば、できれば一つの事件、一つの状態、一つの風景っていうものを、一首の中に全部込めてしまうのが、理想でございまして。それでは足りなかったから、もう一枚撮るっていう写真のようなものでは、本当はないのでね。一事件一首というのが原則であって、何首も何首も作って、一首分も言えないことになってしまうってわけでしてね。できれば、一つの事は一つの中で歌えてしまう、というような覚悟を、必要とすると思いますよ。よろしゅうございますか。この歌も、二首連作であったとしても、やっぱり、2首目を読んだら作者かしら、と思われたら困るわけでして。客観的に誰かのことを歌っているのかっていうことを、どっかで示しておくということが大事だと思いますね。21番には、2首目のほうに、丸をしてあげたいと思います。
 22番。『しみじみと語る事なき病む夫(つま)はわれと向かいて何思いいし』『しみじみと語る事なき病む夫はわれと向かいて何思いいし』。『よちよちところびては立ち石くれを拾いては投ぐる幼(おさな)追いかく』『よちよちところびては立ち石くれを拾いては投ぐる幼追いかく』。これは、2首目のほうに丸をしてきましたね。よちよちと、転んではまた立ち上がって、石くれ、石ころですね。石ころを拾っては投げる。そうして、らちもなく歩きまわる、よちよち歩きの子どもを、一生懸命追いかけている姿っていうのが、作者の中にあると思いますね。これは情景をよくとらえて歌ってらして、2首目のほうは丸でございます。
 1首目のほう。ご主人が病気でいらっしゃる。その病気にご主人は籠るようにして、暮らしているのでしょうか。しみじみと、作者に向かって、語ってくれる事もなく。一体、何を思っている夫なのだろうかと、寂しい心を訴えていらっしゃるんだなと思いました。そこの所で、『しみじみと語る事なき病む夫(つま)は』。そこらへんの続け方が少しもろいような、感じがいたしました。分かりやすくなるのは、『しみじみと語る事なく病む夫は』。本当、語る事もなくという感じでしょうかね。『しみじみと語る日もなく』っていうような感じになるかと思いますが。『しみじみと語る日もなく』、語る夜でもいいですよ。『語る夜もなく病む夫はわれと向かいて何思いいし』。何思いいし、ということは、過去になってしまうので、何を思っていたのだろうっていうことになりますね。もし、現在でも、というのではどうなさいますか。現在もそうだという。何を思っているのだろうとういう表現はどうなりますか。
 
D- 何思いて、になる?
 
大西 何思いて、も過去。何を思っていたのだろう。
 
E- じゃあ先生、らんって言ったら、また過去なんですか。何思うらん。
 
大西 それは現在。作者はそれは過去のことだったのかな? 亡くなってらっしゃって?
 
F- 亡くなってる。
 
大西 このご主人は亡くなってしまっている。そうすると過去の事になるから、これでいいのかな? 何思いいし。
 
(無音)
 
大西 でも、この歌読んでいて、お寂しいことですけれども、このご主人が亡くなったっていう感じを受けますか。ちょっと分からないわね。やっぱり今現在、病気でいらっしゃるような感じに歌われている。もし、現在のことなら、思いいん、とかなんかして、現在の形にしなきゃならないなと思ったんですけど。亡くなってしまわれてたんですね。
 
(音質不良にて起こし不可)
 
大西 やっぱり、病んで亡くなってしまったことまで言わないと、この気持ちは表れてこないんじゃないでしょうかね、この歌の場合。それであれば、お寂しいことだけれども、『しみじみと語る夜もなく逝きし夫(つま)』とかなんかして、そして、『われに向かいて何思いいし』と、歌うのがいいんじゃないのかな。残念だけれども、亡くなってしまった事実は事実として、『しみじみと語る日もなく』・・・。