さいたま市立大宮図書館/おおみやデジタル文学館 ―歌人・大西民子―

音声資料

「短歌講座」

昭和53年10月24日

 
  別画面で音声が再生できます。
 
大西 甘いとか厳しいとかいうことが、評価されるんだと思いますよ。厳しい歌で立派な歌ってのは、そうね、歌えるもんじゃないですよ。だから、甘いと言われても、そう悲観することない。歌っていうのは、自分の持っている内容を、言葉に置き換えることでしょ。だから、毎日毎日修験者のように、それから、芭蕉は常住坐臥、俳句を忘れないで、寝ても醒めても俳句を持ってたそうですけれども、私たちそんなことしたら、車に轢かれちゃいますからね。だから、常住坐臥、寝ても醒めても短歌のことばかり考えていたら、大体まず車に轢かれるだろうと思いますね。
 昔は、二宮金次郎、歩きながら本読んだでしょ。そんなこと、今頃、子どもにさせられますか。すぐ轢かれちゃいますからね。世の中移ってるのだから、そういう生活を必死にやっていて、その隙間隙間に、ふっと浮かんだ隙間に、私たちは歌を作るんだと思うんですよ。そして、理想はいつまでもどこまでも高いけれども、現実は追いついていかないでしょ。その理想と現実の、その間の大きな空間がありますね。その空間を何とかしてうずめようと思って歌を作ってると思うんです。だから、理想は高ければ高いほど、そして、現実が厳しければ厳しいほど、歌の世界ってのは広がるわけなんですけれども。その理想と現実の間の隙間を何とかして埋めようと思うこと。
 それから、人間って、誰かが言いましたけれども、神様と動物との間の宙ぶらりんの存在でしょ。獣にもなりきれなければ神様でもあり得ない。その中間でフラフラしてるのが人間でしてね。できれば、上がっていって神様に近づきたい。でも、いつも現実に引き戻されて、娑婆の世界に降りてきますよね。その動物と神との中間にいて苦しんでいる。何とかして神に近づきたい、けれども、いつも現実に引き戻される。そういうような生活のアンバランスを歌うのが歌ですからね。
 ですから、そういつもいつも張りつめて、どなたが見ても二重丸っていうような歌が、そうそうできるものでもございませんので。その自分のストレスとかそういうものが、少しでも歌を作ることで慰むなら、そして、自分の歌ったことが誰か人に分かってもらえるなら、ああ、これはこういうことであなたお悩みなんですね、とか、ああ、そんなにお楽しかったのですか、とか、読んだ人がある程度分かってくだされば、それでいいんじゃありませんか。最初はそれから出発して、そして、自分の歌いたいことが80パーセントぐらい歌えるようになれば、その後、今度頑張って、何とかピラミッドの頂上まで目指せばいいのであって、最初から10首作った歌が、10首全部丸が付くって思うのは間違っております。
 私たちでも、30首作れば、そうだな、どこへ出しても大丈夫だなと思う歌は3首ぐらいなものです。約1割、40年やってですよ。ですから、年々歳々そのパーセンテージは増えるかもしれませんけれども、そんなに簡単なものでもないし、その代わり、日本人なら誰でも作れる易しいものでもあり、それから、1300年の伝統を持って、それで確率から言えば、もう31音などというのはみんな使われてしまって、どの歌を作っても昔、誰かが作った歌に似ているような、そんな感じの時代ですから。歌で何かばかでかいことをやろう、と思っても無理でございます。
 で、私は「歌詠みになりたい」って若い男の子が来たりすると、「なぜ歌詠みになりたいか」って尋ねてやるんです。そうすると、「歌を作って有名になりたい」などと言いますから、「ばかぬかすな」と。「有名になりたいなら、あなたは歌手になったほうがよろしい。オーディション受けて歌手になりなさい。ちょうどあなたはハスキーだから、森進一ぐらいなれるかもしれない。有名になりたいならば、ハスキーボイスの歌い手になればいいのであって、歌が違いますよ」。
 歌っていうのは、名前を売ったり、お金を儲けたり、そういう名利というか名誉にも欲にもうんと遠い、一番回り遠い道だ。ただ自分の心遊びに、自分の言いたいことを言って、そして誰かに分かってもらえれば、それで良しとするような、そういうささやかなものなんですよね。ですから、北原白秋という人は、歌っていうのは小さくて無力だけれども、掌の上に転がす碧玉っていうんですか、碧の宝石のようなもので美しいものだ。その代わり、なんの力もないものだ、っていうふうなことを言っておりますけれども、そんなような歌ですので、大それたことを歌に掛けても無理でございますよね。自分の心遊びに、自分の言いたいことを、人に言えないことを、日記に書くようなつもりで、少しでも洗練された言葉で自分の言いたいことを言う。そうしているうちに、その言葉が洗練されていくと、心そのものが洗練されていく、というふうなところがあるんですね。
 だから、歌と心ってのはいつも相関関係にあります。歌が素直にできた時は、その歌に沿って心も素直になるし、いじけている時は、表現されたものも、やはりすっきりといかないものでございますね。そういう心の問題として、歌を捉えていけばいいので。評価されるものとして、価値のあるものとして歌を考えるっていうのは根本で違ってるかもしれないと思いますね。だから、それをうち深く持っていて、そして折に触れて、隙間を埋めるように歌を作っていくっていうのが、本来の歌ではないのでしょうか。そんな気がいたしますけれども。他に何かあれば。
 
A- ありがとうございます。諦めないでやってまいります。
 
大西 諦める必要はございません。
 
A- いつも(####@00:06:19)もんですから。
 
大西 自分の問題ですね、歌っていうのはね。人さまに見せるものでもないのかもしれない、本当はね。たまたま共鳴者がいて、この歌大好き、なんて言ってもらうとすごく嬉しくって、それが最高の名誉のような気がしますね。何か賞をいただくなんてことも名誉かもしれませんけれども。自分の作った歌が、この歌好きだわーなんて言われるとすごく嬉しくてね。あら、歌作っててよかったわ、なんて思うんですけどね。歌の持つ栄光なんていうのはそんなものじゃないんでしょうか。そんな気がいたします。失礼いたしました。すいません。
 
フジタ ありがとうございました。じゃ、今・・・。
 
大西 フジタさん。
 
フジタ じゃ、今先生に慰めていただいた(####@00:07:12)心の糧として、一歩一歩進んでいただければと思っております。先週ときょうと2日間にわたって、熱心に聞いていただけてるその姿を見まして、ああ、やっぱりやってよかったな、と私たちも思っております。で、また来年もやっていきたいと思っておりますので、また同じ短歌が(****ナリニモ@00:07:31)どんなのがいいかということがあれば、こっちなんか、本当の素人ですので、なんかいいアイデアあったら教えていただきたいと思います。その他にまた、皆さんたちの講座で、こんなの図書館でやればいいな、というのがあったら、教えていただければ幸いに存じますのでよろしくお願いいたします。本日はこれで散会とさせていただきます。
 
大西 どうもありがとうございました。
 
<ここから別のものの録音>00:07:55~00:07:56
 
(了)