さいたま市立大宮図書館/おおみやデジタル文学館 ―歌人・大西民子―

音声資料

「短歌講座」

昭和53年10月24日

 
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大西 ・・・何しておらん、でもいいし。なんか現在の形に直せばいいですね。『がんに負け五十路もいかず逝きし兄今天国にていかにしていん』でいいんじゃないですか。どうしているだろうと。丸をしていいんですけれども、この歌ですと、がんに負けて50にもならずに亡くなったお兄さん。ちょっと、いきなり天国で何しているだろうっていうのは、少し飛躍した感じもしないでもないですね。天国っていうことは、この方の信仰を物語ってるのかな、もしかするとね。信仰の上で、亡くなった人は天国に行くと信じている作者が、お兄さんは天国にいて、今頃何しているだろうって思うのが自然なのかもしれませんけれども、信仰のない私などから見ると、何か下の句でもう少し、ちゃんと言いたいような気がしないでもないですね。『がんに負け五十路もいかず逝きし兄』。きっとそこには、妻子って人たちが残されて、現実にいるわけでしょうね。そのことを告げたほうが歌としては重くなるんじゃないでしょうかね。いきなり、天国で何しているだろうって言うよりは。残された現実の世界に目を据えたほうが、歌とすれば重くなるかもしれませんですね。
 17番。『藍深き阿武隈川ゆ霧たちて雪割橋はもやいて暮るる』『藍深き阿武隈川ゆ霧たちて雪割橋はもやいて暮るる』。『穂すすきはえんじに咲けり高原の雨の真昼を静かに歩く』『穂すすきはえんじに咲けり高原の雨の真昼を静かに歩く』。旅の歌でしょうね。阿武隈川、福島県の所を流れている川。「ゆ」はよりということでしょう。藍深い水をたたえて流れている阿武隈川から、霧が立ちのぼって、そこに掛かっている雪割橋という美しい名の橋があるが、それももやにかすみながら、日が暮れようとしている。美しい墨絵のような情景を歌にしていらっしゃると思います。阿武隈川っていうのも、歌の言葉として、割にこうセンスのある言葉ですし、雪割橋というのも美しい名称だし、それらが霧に吹かれて、薄れながら日が暮れていく。そういう叙情的な場面を歌ってらっしゃると思います。これも丸でいいでしょう。
 それから、高原をゆくと穂すすきがえんじ色に咲いている。白髪すすきになる前の、あの赤くなって咲いている場面ですね。雨が降っている高原を、静かに、一歩一歩踏みしめるように、旅の思いをかみしめて歩いて行った、というのでしょう。これも丸でいいでしょう。『穂すすきはえんじに咲けり』、一つの発見でしょうね。穂すすきっていうと、大体白髪のような、あの白くなびくっていう、なんて言うんでしょうか、先入観みたいなものを持っていますけれども。作者が見た穂すすきは、えんじにまだほどけない前の、きちっとしまった感じの穂すすきだったんでしょうね。それをよく見て歌ってらっしゃいます。
 18番。『片隅に蒔きし双葉を間引きせば嬰児の肌に触るるがごとし』『片隅に蒔きし双葉を間引きせば嬰児の肌に触るるがごとし』。『青年の一人住まいの隣屋に今宵も遅く灯がともりたり』『青年の一人住まいの隣屋に今宵も遅く灯がともりたり』。この2番目のほうは、二つ丸でいいんじゃないでしょうか。隣の家は、若者が1人住んでいる家だ。何となく気になって、見ることがあると、今晩も遅く帰って来たらしくって、遅くなってから灯がついた。芭蕉の句に、『隣は何をする人ぞ』という句があって、分からないのが最近の生活ですけれども。隣に1人の若者、一人住まいで住んでいるってことが、何となく意識を離れないんでいるんですね。で、ふっと窓からのぞいたりして、まだ暗いわ、まだ帰らないんだわ、なんて思っていて。遅くなって灯がついて、何をしている人なのか、ふっと気になったりする、そんな場面でしょうけれども。最近の生活の中では、こういう場面が非常に多くなっているんですね。1人住んでいる若者が多い時代ですから。特に意識して時代を歌っているわけではないけれども、今の世の中のことが一つふっと浮かんでくるような感じですね。
 それから、1番目のほう。片隅に蒔いておいた菜っ葉。双葉を間引きして、大きく育てようとしているわけですが、その葉がなんとも柔らかくて、みどりごの肌のようであった、というのですね。間引きせば、間引きすれば、でしょうね。間引きせばってのは、間引きしたらという仮定のことになってしまうの。だから、間引きしたから、ですから、『間引きすれば』。嬰児っていうのはどうですか。みどりご、のほうがいいんじゃない。菊池寛か誰かの小説に『嬰児殺し』っていう、あの小説があったでしょ。『みどりごの肌に』のほうが優しいんじゃないかな。『片隅に蒔きし双葉を間引きすればみどりごの肌に触るるがごとし』。そのほうが優しいわよね。間引き後の、柔らかい、すぐに崩れそうなみずみずしい感じ。丸でいいでしょう。『間引きすれば』ですよ。
 19番。『明暗を交互に見せて枯れ葉舞う破れし蜘蛛の糸にかかりて』『明暗を交互に見せて枯れ葉舞う破れし蜘蛛の糸にかかりて』。『遥かなる空に彫られしアルプスの鋭き稜線の白の輝き』『遥かなる空に彫られしアルプスの鋭(と)き稜線の白の輝き』。2番目のほうは二重丸でいいでしょう。はるかにアルプスが雪をいただいて掛かっているのではないでしょうか。それが空に彫られたような感じに、くっきりとやまひだを見せて見えている。その稜線が白々と輝いて見える。安曇野辺りを歩いていますと、こんな情景にぶつかりますが。アルプスの感じを、空に彫られた感じ、なんか白い彫刻を置いたような感じに映っているということでしょうか。稜線が白く輝いて、山の鋭さ、それを示しているということですね。
 それから1番目のほうは、枯れ葉がクモの巣に掛かって、裏返ったりしてるのでしょ? ひらひらね。『明暗を交互に見せて枯れ葉舞う』、工夫した歌い方なんですが、効いてるかどうか。きっと、くるくる回っていて、葉っぱの表が出たときは、明るくって、裏っかわは、光らないのかな。片ほうは光っていて、片ほうは光らない。そんな葉っぱが引っかかっていて、くるくる回っていて、明るくなったり暗くなったりする。そんな感じを丁寧に見ていらっしゃるんですよね。明暗を交互に見せてっていうことが、それをうまく表現しているかどうか。で、枯れ葉舞うという感じ。舞うというのは、引っかかった感じではなくて、空間にある感じじゃないのかな。そこら辺、工夫した割には効果が出てないかもしれない。舞うっていうのは、むしろ散っていく場面の連想ですからね。動く、ひらひら回るっていう感じなんでしょうね、クモの巣に掛かった場合はね。むしろ、『明暗を交互に回る枯れ葉見ゆ』、とかなんかのほうが分かりやすいかもしれない。『交互に回る枯れ葉見ゆ』。分かりやすさからいえば、そのほうが分かりやすいかもしれない。舞うっていうのが、ちょっと浮く感じになるんですね。でも、よく見ていますので、丸をしていいでしょう。
 結局、見て歌うっていうことも、ありのまま歌うことのようで、実はうんと難しいんですね。アララギっていう写実派の、さっき清水房雄さんの歌で、『バリケードをいかにする』っていうのを、ありのままを歌ってらっしゃる。ごく簡単なように見えますけれども、ありのままを歌うことこそ難しいことないんですね。例えば、木の葉の形っていうようなもの、色っていうようなもの、それから、散って行く様子。ましてや、クモの糸に引っかかってくるくる回っている様子、なんていうのを、写真で撮ったり、それから16ミリで映したりすれば簡単ですけれども。それを色や形や動きっていうようなものを、目で見るものを、そのまま言葉に置き換えるってことですからね。絵で描くならば簡単なようなことでも、写真を撮れば簡単なようなことでも、それが分かるように言葉で表すということは、至極難しいことなんです。ですから、写実派の歌は、一番入りやすいようでいて、すごく奥の深い歌い方だと思いますね。ですから、写実ということも、簡単なようで、ずっと写真に劣ってしまうんですね。
 例えば、さっきの、アルプスのするどき稜線。これは相当苦労して書いてらっしゃると思うんですけれども。写真1枚に撮れば、パチリですよね。あの青空に浮かんだ真っ白いアルプスの山並みの状況なんてのは、写真ではバッチリといくと思う。それを言葉に置き換えるということですから、そこに操作も要りますし、工夫も要るし、かえって難しいことで、それよりは悲しいのうれしいのって言って、感情を表しているほうが、はるかに易しいとも言えると。ただ、うれしいの悲しいのって言ってれば、ありきたりになってしまうってことはありますね。感情をそのまま歌うにしても、見たものをありのままに歌うにしても、大変突き詰めていくと難しいことではないかと、歌を40年も作っていて、つくづくと思うんですけれども。見たまま、聞いたまま、感じたまま歌えばいいって、それは誰にでもできるようでありながら、奥は極めて深いだろうと思いますね。
 それから20番。『似た人と思ひて親しく声掛けし後ろ向きたるお互いの顔』『似た人と思ひて親しく声掛けし後ろ向きたるお互いの顔』。『こおろぎも鳴き絶えし夜宿題の歌浮かび来ぬもどかしさ哀れ』『こおろぎも鳴き絶えし夜宿題の歌浮かび来ぬもどかしさ哀れ』。あ、宿題だったんだわね。2番目のほうは、これはご苦労さまでお生まれですね。コオロギも鳴き絶えて、音がしなくなって、静かな夜更けになって、宿題の歌はまだできない。もどかしくって残念だというんですね。『こおろぎも鳴き絶えし夜宿題の歌浮かび来ぬもどかしさ哀れ』。でもこうしてできたわけですね。
 1番のほうは、『似た人と思ひて親しく声掛けし後ろ向きたるお互いの顔』。これはどういう場面かな?
 
A- 声掛けてみたら違ったんでしょうか。(####@00:14:06)。
 
大西 似た人だと思って、声を掛けたら、違った人だったっていうこと?
 
A- (####@00:14:29)。
 
大西 お互いの顔っていうところに、なんか面白さがあるようですね。
 
(無音)
 
A- (####@00:15:12)作者の方(####@00:15:16)。
 
大西 作者、ほら、秘密だから。
 
A- その人の後ろを見て(####@00:15:30)顔の面白さ。なんとも言えない(####@00:15:36)なんでしょうね。(####@00:15:39)。
 
大西 似た人、は文語に直して、似し人、ですね。『似し人と思ひて親しく声掛けぬ』、声掛けし。お互いの顔っていうことは、振り向いた人も、自分も、お互いにあっけにとられたというか、拍子抜けがした感じなんでしょうね。そのことを、この一瞬の中で言うのは、ちょっと難しいかもしれませんね。顔を見合わせたら、お互いに、どうしようもないっていうね。あの当惑した顔なんでしょうね。普通の言い方だと、『似し人と思ひ親しく声掛けて後ろ向きたる顔に驚く』というような感じなんですね。普通に歌えばね。『似し人と思ひ親しく声掛けて後ろ向きたる顔に驚く』とか。自分のほうの驚きね。お互いに当惑しきったという感じまで、歌で出すのは難しいかもしれない、この一首の中でね。『似し人と思ひ親しく声掛けて後ろ向きたる顔に驚く』というような単純な止め方で、この一首は直して、丸にしておきましょう。
 21番。『棒のごと曲がらぬ足を愚痴らぬ母の命縮めし左の足よ』『棒のごと曲がらぬ足を愚痴らぬ母の命縮めし左の足よ』。足が曲がらなくなって、棒みたいだった。その足のおかげでお母さんは命を縮めたけれども、そのことを決して愚痴を言わないで、気丈なお母さんだった。お母さんの病気、亡くなったっていうこと、そのことについて、足というものに、棒のようだった足、それに焦点を絞って歌ってらっしゃると思いますね。『棒のごと曲がらぬ足を愚痴らぬ母の命縮めし左の足よ』。なんか思えば憎らしいその病気だったという、そういう思いが、きちっと出てるように思いますね。これも丸でいいでしょう。
 『母を焼く焦熱の火よ静まれと供えの水を汲み替えしつつ』『母を焼く焦熱の火よ静まれと供えの水を汲み替えしつつ』。そのお母さんが亡くなって、荼毘に付されたわけですね。どんなにか熱い思いをするだろう。そのことが耐えがたくって何度もお供えの水を汲み替えたりしてみた、ということですね。
 場面が痛ましいですから、何かこれ以上、動かしたりするのが、痛ましいような気がします。亡くなった人にしてあげることってのは、ないんですよね。せめて、お水を取り換えてあげるぐらいしかできない。そんな悲しさでしょう。よろしいでしょう、丸をしてね。その汲み替えしつつのところ、もし直すとすれば、『供えの水をいくたびも替う』とかね。『母を焼く焦熱の火よ静まれと供えの水をいくたびも替う』、として落ち着けましょうか。
 22番。『浜焚き火小舟波間よ日が昇り海面(うなも)に色と裾を広げん』『浜焚き火小舟波間よ日が昇り海面に色と裾を広げん』。『冬の浜絵筆持つ手のはがゆさよ岩叩く波猛く恨めし』『冬の浜絵筆持つ手のはがゆさよ岩叩く波猛く恨めし』。海岸の場面ですね。浜で焚き火をしている。そうしているうちに、波間から日が昇ってきて、海面に彩りが生まれて、それが次第に広まっていくという場面。絵筆を持って、冬の浜を描こうとするけれども、波が高くって、鋭くって、荒れ狂うので、思うように手がはかどらない、というようなことでしょうかね。少し両方とも古風な歌い方、ね? 美しい言葉を並べていらっしゃるけれども、うまくつながってないところがある。『浜焚き火』って切れるでしょう。『小舟波間よ日が昇り海面に色と裾を広げん』。広げんっていうふうな、漠然とした歌い方。2番目のほうが、まだも(####@00:22:12)かな。冬の浜で、絵筆を持っていると、岩をたたく波が『猛く』、強くて、ものすごくって恨めしい感じがする。
 1首目のほうは、少し道具が多過ぎた感じがしますね。『小舟波間よ』。「よ」っていうのは、「ゆ」ということで、「より」ということでしょうね。少し欲張った感じかな。裾っていう言葉がね、ちょっと美化し過ぎてるんじゃないかな。『海面(うなも)に色の広がりてゆく』ってような感じでしょう。お日さまが上がってきて、海面にね、朝日の色が広がっていく、という場面なんですが、それを裾を広げるっていうふうに、例えて歌おうとしてらっしゃる。そこに少し古風なところがあるように思いますよ。それから、『浜焚き火』っていうふうなことも、ちょっと浮きあがった感じがするかもしれないですね。『波間より日は昇りきて』っていうふうな歌い方をして、その海面に、朝日の彩りが広がっていくっていうようなことを素直に歌うほうが、今の歌らしくなるかもしれませんね。少し古風な歌い方してらっしゃる。古風な桂園派の歌でもお習いになった方かもしれない。
 23番。『夏の風のひとところ砂塵うずまきてほむらの如く』、何ですってこれ? 何とかと直しました? ヒマワリでいいですか。さっき直してました?
 
B- ヒマワリだそうです。
 
大西 ヒマワリ? 『夏の風のひとところ砂塵うずまきてほむらの如く向日葵を過ぐ』。夏の風があおるように吹いてきて、ひとところに溜まっていた砂ぼこりを吹き上げたのでしょ。そして、ヒマワリの花が咲いている周りに、まるで炎のように、むらむらとその砂塵が巻き上がった、という場面でしょうか。その夏の風の焦点に、ヒマワリという花を置いて、そのヒマワリの花の周りに、砂塵の炎を上げさせて、一種の夏の激しさみたいなものを描こうとしてらっしゃるんじゃないでしょうか。これも丸でいいでしょう。
 さあ、超特急で来ましたが、質問があればおっしゃってください。
 
C- 22番の歌なんですけど、後のほうの(####@00:25:37)。
 
大西 『はがゆさよ』、なんていうところにも、この方の、多分、古い歌を習ってきてらっしゃる方なんじゃないでしょうか。『冬の浜絵筆持つ手のはがゆさよ』、なんていうのは、桂園派の常套的な歌い方なの。だから、それをそのまま歌ってらっしゃるのでしょう。『岩叩く波猛く恨めし』。波を恨んでみても、始まらないでしょ? でも、古風な歌い方では、そういうね、歌い方をしたんです。例えば、お月さんが昇っていて、そこに雲が掛かるでしょ。と、その雲を恨んでみる。『雲の恨めし』っていうふうなね。そういう歌い方を、江戸時代ずっと伝わってきた古い、旧派って言うんですけど、旧派の歌い方。明治天皇御製もそうなんですけれども。旧派の歌い方の、きっと習い方をしてらした方なんじゃないでしょうかね。
 
D- 先生、10番の、亡き母が遺してくれた(####@00:26:50)。情景(####@00:26:57)けれども、いつも自分自身としては、歌の甘さということも問題なんですね。それでこの場合に、私は父が俳句をやってきましたもんですから、よく百日草という、俳句で(####@00:27:16)、百日草というときは、百日草でなければならないと(####@00:27:22)。そういうふうによく教えられたもので、歌を作るときも、この場合の百日草はぴったりなんですけれども、情景としてお母さまに残した花が咲いた、うれしいということが、それ(####@00:27:40)に情感があって。そして、(####@00:27:48)と思ったりしますし。あれからまた、短歌の(####@00:27:57)見まして、(####@00:27:59)の方がお作りになってらっしゃるみたいなので、(####@00:28:05)ながら、ああ、やっぱりこれは甘い歌と違って、そういうすてきだなと感じるという、その区別がいっつも自分では分からないんですけれども。
 
大西 10番の歌で、私が『亡き母が遺してくれたる種ゆえに』の歌に二重丸を付けたけれども、この歌は甘いのではないかという、お叱りを受けておりますが。私はね、この歌でなぜ二重丸したかっていうと、お母さんが亡くなって、あまり時がたってないでしょう? 遺していった種がまだあって、それを蒔いた花が咲いたわけでね。その悲しみを伏せてね、そして花が咲いたのがうれしいと歌ってらっしゃることがね、けなげな感じがするんです。それでね、二重丸にしたのであって、甘いって言われれば甘いかもしれない、それはね。花が咲いてうれしいなんて、ごく普通の歌い方かもしれないけれども、ごく最近にお母さんを亡くされた方の歌とすれば、感情を抑えていると思うの。そして、花の咲いたことに焦点を絞って、うれしいと歌ってらっしゃる。それがちょっと哀れで、けなげで、いいんじゃないかなと思った。
 
D- 私はこの歌に限らずね、その歌の甘さということと、それからその区別がとても分かりにくいんです。よくこの歌は甘いって言われて、素直に自分で作っている、これは自分の気持ちを素直に出して喜んでると、甘いっていうのをそのときに言われると、どういうところが甘いのかなって、いつも分かんないですよ。
 
大西 甘いっていうのはどういうのでしょうね。例えば、歌が甘いって批評されるときは、内容から言えばね、例えば、ありきたりなこと。悲しむべきときに悲しみ、うれしい原因があってうれしい。という内容からきた甘さと、それから、表現からきた甘さがあるでしょうね。表現上の。例えば、何々したからこうだっていうふうな原因をまず述べて、そして結果を述べるっていうふうなね。そういう表現上のことも甘さという・・・。