さいたま市立大宮図書館/おおみやデジタル文学館 ―歌人・大西民子―

音声資料

「短歌講座」

昭和53年10月24日

 
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大西 ・・・れるという止め方。どっちがいいですか。
 
A- 言っていいですか。
 
大西 はい。
 
A- 最初の山尾根って(####@00:00:12)。それで先生がおっしゃったように、山尾根って(####@00:00:16)。
 
大西 そこの山尾根、と続けないで、山の尾根、と切ったほうがいいという説が今出ました。どうですか。山尾根という言葉を生かせば、『山尾根に青きあやしき月のかかれる』、という止め方。そういう、どこかで止めるってことが必要でございます。2番目のほうも、その傾向があるんですが、『鈴虫の声音かそけき秋の宵長き病の友を思いて』どうした? こうね、何か後に続きそうで続かない。それがいけないのですね。そこはどうしますか。
 
B- (####@00:01:07)。
 
大西 病の友を思うも。はい、それから? 他にありません? 最後の所、どこ止める? 思うもとしたときは、「も」は感動の助詞ね。思うことよ、という意味ね。
 
B- (####@00:01:42)。
 
大西 長き病の友を思いぬ、という言い方もある。思えり、という言い方もある。思える、という言い方もある。いろいろありますね。思えり、思いぬ、思いつ、思える。いろいろありましょ。そういう中から、作者のふさわしいと思う表現を選ぶことが必要ですね。『鈴虫の声音かそけき秋の宵長き病の友を思うも』。長き病の友を思える、長き病の友を思えり、いろいろな言い方があって、いずれにしても、句読点できちっと止まる工夫をすること。それが大切です。
 
C- 先生、もう一つ。鈴虫の(####@00:02:49)。
 
大西 そうね、少し気になるんです。鈴虫の声音、こわね、少し強い言葉ね、声音っていうのはね。鈴虫の鳴く音、でもいいんじゃないかな、なくね。『鈴虫の鳴く音かそけき秋の宵長き病の友を思うも』。思うも、ぐらいにしときましょうか。両方とも、優しい爽やかな歌い方をしていらっしゃるんですね。『一幅の墨絵のごとき』、これは、二重丸あげてもいいかもしれない。『あやしき月のかかれる』、と直していただいて。鈴虫は一つ前ですね。よろしゅうございますか。歌も一つのセンテンスだから、どこかで、句読点が打てるような、きちっとピリオドが打てるような歌い方をするということね。その止める止め方は、名詞で止まることもあるし、それから、形容詞とか動詞とかの終止形。または、かかれる、というときは連体形ですが、かかっていることよっていう風な感じの、かかれる、という止め方。いろいろな止め方を工夫して、そして必ずどっかで点を打つ、丸を打つということができるような、そういう歌い方が必要でございます。でないと、それでどうしたと、こう言われちゃいますからね。そういうふうに隙を見せないのが歌の歌い方なわけですね。
 9番。『柿食(は)みて嘴(はし)押し拭う山鳥のわれに気付きて紺ぞらに飛ぶ』『柿食みて嘴押し拭う山鳥のわれに気付きて紺ぞらに飛ぶ』。はし、はくちへんがあるんじゃない? ね、くちへんがあって、くちばしという字。柿をついばんでいて、そしてくちばしをおもむろに拭っていた山鳥が、自分の様子に気が付いて慌てて飛び上がった。その飛び上がった空は紺色に晴れ渡って、美しい空であった、というのですね。『柿食みて嘴押し拭う山鳥のわれに気付きて紺ぞらに飛ぶ』。
紺ぞらってどうかな。紺青の空だったんでしょうね。青空よりももっと濃かったのよ。だから、紺ぞらになったんだけど、ちょっと熟さない言葉かもしれないですね。紺青の空ってことなんでしょう? よく見ていらっしゃるの。柿をついばんでいてね。そして、ついばんだ後のくちばしを、羽でうまく繕うのよね。そういうところよく見ていらっしゃって。よくよく見ている自分に山鳥のほうが気が付いて、慌てて飛び立っていった。その鳥の飛ぶ行方を見上げたら、そこには、紺色に晴れ渡った空があった。いかにも、実感がある歌なんですけれども。紺ぞらっていうのが、みなさんが良ければいいですよ。紺ぞら。大丈夫? 紺ぞら。
 
(雑談)
 
大西 どうですか。紺ぞら、賛成者いる? 紺ぞら。
 
D- やっぱりわざわざ(####@00:07:05)。
 
大西 きっとこの作者は紺のね、深い濃い青空に。
 
D- (####@00:07:23)。
 
大西 あるわよね。
 
D- 実際に(####@00:07:35)・・・
(音質不良により起こし不能)
・・・いくら空が澄んでいてもね。それが紺の色ではないかもしれない。
 
大西 さあ、理科的な。
 
D- 時間(####@00:08:04)、それから、その色って、その人の(####@00:08:09)ありますね。(####@00:08:13)。
 
大西 さあ、どういたしますか。どうってことないんですけれども。山鳥が柿をついばむ時間帯は、空の色は、そうたそがれていないじゃないかと。むしろ、白い青さかな。輝くような青さ? ああ、碧ね。きっと青空っていうのは流行歌みたいで嫌だったんじゃないかな。青空っていうのね、きっとね。
 
D- どうしても、紺を使いたいっていう。(####@00:09:00)。
 
大西 普通な言い方だったらね、『われに気付きて空高く飛ぶ』っていうことなんですよね、普通に言えばね。その空の色が濃い紺に感じられたということなんですね。紺の空飛ぶっていうんでは、空へという方向がなくなってしまうでしょ。紺の空飛ぶ、意味が違ってくる。紺ぞらに、というのは、そのほうを目指してっていうことですからね。普通だったら、そうですね、空高く飛ぶぐらいで抑えるところでしょう。よく見ていらっしゃるから、丸をして。紺ぞらは作者が、もう身に染みて今考えてらっしゃる。どなたか知らないけども。やっぱり無理だったかあと、思ってらっしゃると思うのよ。だから直していただければいいでしょうね。
それから。『転勤の我が家越す日の庭のべに咲き染む小菊しきりに香る』『転勤の我が家越す日の庭のべに咲き染む小菊しきりに香る』。これは、転勤してこの家を後にしなければならない。そのちょうど季節に、小菊がしきりに香っていて、なんとも離れがたい思いだというようなことを、小菊の花に寄せて、歌ってらっしゃるんでしょうね。『転勤の我が家越す日の庭のべに咲き染む小菊しきりに香る』。普段はそうも感じないんだけれども、この家をいよいよ後にすると思うと、余計に菊の花が香るような気がする。そういう、惜しむ、哀惜の気持ちね、そんなものを歌ってらっしゃるのでしょう。
 
E- (####@00:11:08)咲き始めましたっていうんじゃなくて、咲いててその辺がしみわたるような、そういう・・・。
 
大西 色でしょうね。色がきっとね。しむと読むか、そむと読むか、両方読めますけど。辺りに色が映るように、色が鮮やかということなんでしょう。そして香りも高い。この家を離れるのはともかく、あの庭の菊が惜しいなあという感じで。越していく思いの残る思い。そんなものを歌ってらっしゃるのでしょう。これも丸でいいんじゃないですか。
 10番。『亡き母が遺しくれたる種ゆえに百日草の咲くがうれしき』『亡き母が遺しくれたる種ゆえに百日草の咲くがうれしき』。『夏過ぎて季節外れに咲き初めぬ百日草は色淡くして』『夏過ぎて季節外れに咲き初めぬ百日草は色淡くして』。両方ともいいじゃありませんか。亡きと、「き」を入れてもいいんじゃないでしょうか。原稿には消してあったということです。亡きと書いて、「き」が消してあったということですけれども、なきははとぜひ読んでほしければ、亡き母と書いたほうがようございます。でないと、ぼうぼとか、ははとか読まれてしまう可能性がありますね。『亡き母が遺しくれたる種ゆえに』。お母さんが、種をつんで遺しておいてくださった。それを蒔いて百日草が咲き出してきた。それはお母さんの何か声を聞くように、うれしい感じだというんですね。これは二重丸でいいんじゃないかな。亡き母のほうはね。百日草ってそう華やかな花ではございませんけれども、お母さんが遺していってくれた種を蒔いて、それが育ったのだと思うと、お母さんの何か息吹に触れたような感じで、うれしいというのですね。で、季節外れにその花は咲いたのだと。この夏は日照りでしたから、いろんな花や草が遅れたということですが、そのせいだったかどうか、夏が過ぎてから、百日草が咲いたけれども、心なしか色が淡いというのですね。これも丸でいいでしょう。淡々と歌ってらっしゃいますが、思いのこもった歌い方ですね。
 11番。『身まかりて四十年を経たる父思い出の中にわれより若し』『身まかりて四十年を経たる父思い出の中にわれより若し』。『若き日に歌詠み合いし友病みて片手片足動かずなりぬと』『若き日に歌詠み合いし友病みて片手片足動かずなりぬと』。身まかりて、の歌は二重丸でいいでしょう。亡くなってもう40年もたったお父さん。思い出すと、若い面影のまま出ていらして、現在の自分よりはるかに若いようだわ、というんですね。若い頃に、父親を喪った方で、亡くなってしまうとその方はそこから後、年を取らないわけで、思い出の中にはいつも若やかなお父さんが出てくるというのですね。これはいい歌です。
 2番目のほうは、若い頃に一緒に歌を詠んだりしたお友達がいたっけが、今は病んで、片手と片足が動かずなりぬ、動かなくなったということですが、これも切れてないのね。動かずなりぬということだ、というのが省かれてるでしょう。そこを何とか止めなきゃならない。簡単に止めましょうよ。どうしますか。『若き日に歌詠み合いし友病みて』、そこまではいいですよ。丸をしていいですよ。『病みて片手片足動かずなりぬと』。もしかすると、これは何の病かな。脳軟化症ってやつかな。なんか片手片足っていったから、きっと循環器の病気なんでしょうね。なりぬとぞとかね、なんか入れないと止まらないんですよね。なりしとぞとかね。
 
(雑音)
 
大西 本当は動かなくなった、とこう言いたいところですけれども、思い切って省いて、片手片足動かずというと、あっさりやりましょうか。『若き日に歌詠み合いし友病みて片手片足動かずという』。分かりますね、十分ね。そういうふうに、ピリオドを打つ、丸を打つ、という工夫を、どこかで必ず果たしてください。これもよくできていますよね。そして、自分自身に対する恐れもあるのね。同じ頃の年頃で。そんなふうに自分もなったらどうしようっていう感じが言外にあるのでしょうね。気持ちがこもっていますよ。
 12番。『老父母(おいふぼ)の歴史とともに歩みこし茱萸(ぐみ)の古木に若木萌え出づ』『老父母の歴史とともに歩みこし茱萸の古木に若木萌え出づ』。『この花器を手に持ち見ればなおさらに今は亡き師の重みとぞ思う』『この花器を手に持ち見ればなおさらに今は亡き師の重みとぞ思う』。ちちははの、と読ますのかもしれません。それね、老い父母、と書いてろうふぼ。『ちちははの歴史とともに』、ご両親が何かの記念か何かで植えられたグミの木だったのではないでしょうか。ご両親が年を取るとともに、木もふりてきて古木になってしまった。そして、その傍らに若木が萌え出てきた。いかにも象徴的な場面なんですね。年を取って子どもが巣立っていくように、グミの木が老いて、その傍らに若木が萌えてきた。なんか、ご両親を、そして自分たちが巣立っていく。そういうことの象徴的な場面に感じられるように、グミの古木の様子が歌われているわけですね。これもよろしいでしょう丸をして。
 2首目のほうは、この花器とありますが、何か遺されてお形見になった花の器なんでしょうかね。花瓶、または水盤のようなものでしょうか。大変重いお花器で、それを持つと亡くなったお師匠さんの重みかと思われるように、ズシリとこう身に応えるということですね。なおさらに、というのは少しおかしいけれども、まあよろしいでしょう。手に持ったときに、余計そのお師匠さんのことが思われると、いうことなのでしょう。丸でよろしいでしょう。
 それから、13番。『乏しさのなかにも若さ満ち溢れ戦時と呼びし遠き日ありき』『乏しさのなかにも若さ満ち溢れ戦時と呼びし遠き日ありき』。『いにしえの人も仰ぎし満月は今さえざえとビルを照らせり』『いにしえの人も仰ぎし満月は今さえざえとビルを照らせり』。13番の最初の歌は二重丸でしょう。物が乏しかった、あの戦争中、しかし、自分たちには若さと希望が満ちあふれていた。戦時中といって、忌まわしいことの代名詞のように言われるけれども、考えてみると乏しい中にも、活気があふれていて生き生きと暮らしていた日があったが、その日も遠くなったなあと。その戦争中に生きていることは、容易ではないことだったのですけれども、30数年の歳月が流れて、その頃の生活をしのぶと、乏しいけれども活気にあふれていて若さがあった自分たちの生活。それに比べると、今は乏しくはない。物があふれるようにあっても、人々は何となく生きがいを失って生きているような。そんな時代ですので、こんな歌ができるわけでしょう。
 戦争中を回想した歌っていうのは、暗い歌が多いんですけれども、この歌はなんかこうキビキビしてね、その当時のモンペなんか履いてたかもしれないですけれども、そんな時代を今の時代と比べて、ふっと懐かしくなったような歌ですね。かといって、戦争が二度とあっては困るんですけれども。それをキビキビと歌ってらっしゃる。
 2番目のほうは、このままでよろしゅうございましょう。昔の人も仰いだ満月。それはわらぶきの屋根の上であったり、野原の人家もないような寂しい里であったりしたかもしれない。その満月が今さえざえとビルを照らして天上にある。何でもないことですけれども、『今さえざえとビルを照らせり』ということで、現代の月ってことを表しているのでしょうね。これもうまくできてますね。ちょっと大きい丸をしてください。
 14番。『大いなる守りあれかしとひとり子の就職試験の朝(あした)に祈りつ』『大いなる守りあれかしとひとり子の就職試験の朝に祈りつ』。『年金もまだなき時代に逝きし母をわれも老いきて痛ましく思う』『年金もまだなき時代に逝きし母をわれも老いきて痛ましく思う』。両方とも、正直に自分の心境を歌ってらっしゃると思います。たった1人の子ども、就職試験、今年は殊の外厳しいということですが、その就職試験の日に、何か奇跡的に大いなる守りがあってほしいと、子どものためにお祈りした、というのですね。もう人の力ではどうにもならないような、そういう就職の条件があるようですけれども、何か大いなる守りがあってほしいと、祈らずにはいられない。これも子どもを持った親の気持ちとして通るでしょう。丸でいいでしょう。
 2番目も正直に歌ってらっしゃるのね。今は老齢年金などというものがあって年を取った者にもある程度の福祉が保証されている。でも昔は年金の制度もなかったし、年を取ると悲惨なものだった。その頃に亡くなってしまったお母さん、やっぱり哀れだったなあと思う。それも正直に歌ってらしていいと思います。そこのところ、『逝きし母をわれも老いきて痛ましく思う』。少しもたつきますから、『逝きし母を痛ましく思うわれも老いきて』と、ひっくり返してみましょうか。『年金もまだなき時代に逝きし母を痛ましく思うわれも老いきて』。少しスッキリしますか。なぜそうなるかっていうと、『痛ましく思う』は8字なんですね。それで『われも老いきて』が7字でしょう。最後の結句というところが7音のほうが落ち着くんです。『逝きし母を痛ましく思うわれも老いきて』としたほうが落ち着くのはそのためですね。だから結句の7音というのは字余り字足らずにしないで、カチッと押さえるっていうことが大事でしょ。これも丸でいいでしょう。
 それから、15番。『陽が射せば朝餉(あさげ)の湯気は虹色にゆらげり今年も冬が近づく』『陽が射せば朝餉の湯気は虹色にゆらげり今年も冬が近づく』。『灯(ひ)を低く資格試験の願書書く目の疲れなど託ちいし夫(つま)が』『灯を低く資格試験の願書書く目の疲れなど託ちいし夫が』。朝餉の「げ」はしょくへんに向かうという字。直しましたね。この、つかさどるを書いたのは、飼う。犬を飼うとか鳥を飼うとかの、飼という字ですね。それからよく、餌という字も間違うんですけれども。餌はしょくへんに耳という字を書けば、餌。このつかさどるは、飼う。朝餉の「げ」は向かうという字。お日さまが射してくると、朝餉を炊いている湯気が虹色にゆらゆらとする。ああ、これは冬の兆しだわと思う。秋が深くなると、気温が12℃ぐらいに下がって、湯気が目立つようになりますね。そういう朝の気温が下がってきて、殊更にものを炊く湯気が目立つようになる。それが日が射すと虹色に揺らいだりする。ああ、いよいよ美冬づく。冬が近くなるのだなあという感じでしょう。これは感じが、感覚的に鋭いですから、二重丸あげます。『陽が射せば朝餉の湯気は虹色にゆらげり今年も冬が近づく』。年々、歳々、台所を預かっている主婦でないと、歌えない歌ですね。主婦の感覚というのが、出ていると思います。これは男の人には歌えない歌ですよね。でも、男の人もこの頃お料理するっていうから、どうかな。でも、今年も冬が近づくという感動は、やっぱり、長い間、毎朝台所に立ってる人じゃないと歌えないでしょうね。
 それから、灯火を低くして資格試験の願書などを書いているご主人。目が疲れてしょうがないなどと、テレビのコマーシャルではないけれども、それをかこつ、というのは、嘆くという、愚痴を言うということですね。「目が疲れやすくて困るんだよ」などと、いつも愚痴を言っていた夫(つま)が、夫なのに、一生懸命灯を近づけて、資格試験の願書などを書いている。これも最近は資格試験ばやりでして、今日的な、現代的な素材だろうと思います。『灯(ひ)を低く資格試験の願書書く目の疲れなど託ちいし夫(つま)が』。よろしいでしょう。これもちょっと大きい丸で。二重丸まではちょっといかない。
 16番。『がんに負け五十路もゆかず逝きし兄今天国でいかにありしか』『がんに負け五十路もゆかず逝きし兄今天国でいかにありしか』。『日に幾たび兄の御霊に手を合わす母を思いて涙こぼるる』『日に幾たび兄の御霊に手を合わす母を思いて涙こぼるる』。2番目のほうはこのままでいいですね。日に幾度も亡くなった子どものために、手を合わせている。先立たれた、逆縁だったのですね。子どもに先立たれたお母さんを思うと、自分の悲しみを超えて、母の悲しみが思われて、涙がこぼれるというのでしょうね。これは丸でいいでしょう。
 1番目のほう、がんに負け。がんなどという恐ろしい病気にかかっ・・・。