さいたま市立大宮図書館/おおみやデジタル文学館 ―歌人・大西民子―

歌稿(五十音順)

大西民子歌稿

[ら~ろ・わ]

ワープロをわれは使はず十本の鉛筆削る事務室の朝
ワイパーの形にあふれゐる街の灯は雨の夜の車も楽し
わが家のあたりはひどく降りにしか濡れゐる道に水たまりあり
わが今の荒涼を知る一人なくバスにをれば座席の一つ空きたり
わが今の俗世のかなた裏山の水を引きたる厨ありけり
わが今のひとりぐらしもよしとせむ根回しなどといへるを聞けば
わが湖に白鳥一つ来て遊ぶ日もありにけり春さらん日よ
わが起きてゐる夜の音暗き風をはこびてモーターは鳴る
わが髪を器用に巻く手をふととめて美容師は告げぬ寡婦の身の上
若き医にたしなめられぬ習慣となりゐる睡眠薬を
若き日にメリメ読みにきみづからを恃む思ひの厚くありにき
若草は隙なく萌えて底無しの沼といへども陽に凪ぎわたる
わが今朝の表情は赤しと問ふ友に答へし笑みの歪まざりしか    ※
わが言葉回り回りて今日聞けば烈しき怒りの声となりゐし
わが四囲よりけんらんの気配うすれしを枯淡と言へばうしろめたきを
わが訪ひし三度目も晴れてゐしものを能登の輪島は雨降れりとぞ
わが問ひに答へむとして読経より一オクターブ低き声する
わがなかの芯棒も曲がるかと思ふ古木の梅の花辿りゐて
わが庭に連翹の花の咲く不思議亡き人などの植ゑてゆきしや
わが乗りて妹も乗りし乳母車水いろの母衣(ほろ)は誰(た)が選びけむ
わが母校小学校の鐘の音きこえて懐かし昼の休みに    ※
わが星とよろづの人に思はれてわれをつき抜けてゆくごとくゆく
わが窓に陽ざし漸く届く日となりて深めるわが虚無のかげ
わが持てる荒涼をいま凪がしむる星一つなしと夜空を仰ぐ
わが夢にほのかに見えてゐたらしは切手のなかにゐたりしパンダ
別れ来ぬ被膜の張れるココアを置きてみづからを欺きおほせむわれと思はず
別れては生き得べしと思はねど嫁ぎし事を悔ゆる日もあり
わきまへず個室にあるを抜け出でて雲の裏まで行きしことあり
湧きやまぬ椋鳥を窓に見てあれば何せむと立ちて来しや忘るる
分け去れといへる語源をかなしみて三叉路の一つ歩みし日あり
和三盆をふりかけし如く粉雪うかぶささくれてゐし心やさしむ
鷲掴みにする手力(たぢから)の欲しき日よ籠の卵を移してをれば
忘れずにゐる名のありて髪長き少女のまゝのおもかげにおく
忘れもののやうに昼の月浮くかなしみて歩みてありて信号を待つ
僅か二分のレンジといへどスイッチの切るるを待ちて立ち往生す
渡り来し白鳥のことを語りゐて人とわれとの境目も見ゆ
渡るべき橋は見えつつ目の前の鏡一枚さへままならぬ
罠などにかかりやすきをいかにせむあらかじめ風邪の薬をのみて
藁細工に余念なかりしどの家もほろびて白きマンションそびゆ
わらわらとそのまま負けてしまひたりかのフライ一つ取ればよかりし    ※
割高の時間給とぞ夜の更けに芝生のボールを集むる仕事
われさへや日のくれてより散策に出づ鬼になる日の無しといはれず
われにたひらかなひと日を賜へ湿度計は今朝も50を指しをり
われに向く顔のみ信じてありたしと思ふは信じてをらぬ証しか
われの就職を阻みし人と知るものを会へば手挙げて近づきてくる
われの血のかすかに残る注射器をみづから洗ふと告(の)らすかなしさ
われのほか誰もゐぬ日にかくは馴れつつ立ちゆきてテレビを消しぬ
われのみの思ひに過ぎず遺してはならぬ写真の数々あらむ
われのみの聞く時局のごとし雨の中帰りて来れば悲劇めきたり
われの持つナマなる部分人の持つナマの部分と火花を散らす
吾木香咲くころに耒てまた会はむいづれともなく言ひて別るる
吾亦紅揺れてゐにしが枯れたるは沈めるに似て雑草のなか
われもまた狐になってゐたりして物も言へずにかがむならずや
われもまた南部の生まれ正調の牛追ひ唄の節のさびしさ
われよりも先に着きたる人ならむありありと戻りの姿勢見せて来
われよりも背高かりし妹と肩を並べて歩みし日あり
われはわれの生き方をせむと決めし身の母よ嘆くなわが貧しさを