さいたま市立大宮図書館/おおみやデジタル文学館 ―歌人・大西民子―

歌稿(五十音順)

大西民子歌稿

[は~ほ]

ピアニストになると言ひ張り死の近き父を困らせし事も忘らえぬ
ピアノ弾きて漠然と過ごしゐたる身は青春の意義も知らざりしなり    ※
B・G・Mにショパンは流れ何本も釘をさされて医師と別れぬ
ビー玉が畳に落ちてゐしのみに踏みてころぶもよはひゆゑとぞ
柊の小枝を把手(ノブ)に結びたる一戸のありてマンションに訪ふ
ビエンナーレに行きてそのまま帰らざるひとなりにしが面影消えず
火を避けてにげまどふなか振り返る人もをりたり絵巻のなかに
火を噴きて一機が墜ちし映像にブルーインパルス美しかりき
東向きに建てたる歌碑と思へども夕べに思ふ暗きその石
干潟より干潟をつなぐ水眩し再び訪ひし沼のおもては    ※
火がついたやうな時間がありにしを何もせざりしせずてよかりし
光る雲を頭上に置きて歩みをれば宙をゆく雁懐中の雁
彼岸会も過ぎて日ざしのやはらぐに衿もと寒し帰らむとして
弾き語りの手風琴をかこむオアシスに日本人に似る顔も居つ
ひきずりて何かおもたき夜なれば振り返らずに帰り来にけり
曳きずるはいつまでならむわがあしき噂もいつか下火となりぬ
ひきだしに幼きわれの宝物軸太きマッチの小箱溜めゐし
ひきだしに片寄せおきて軸太きマッチありけり富の如くに
引き継がむ者もなければ隠しごと一つ持たずに余生をあらむ
引きとめておきたくてなほ絵のなかの兎は耳を立ててゐにけり
引くものの何かあるごとひとかたに飛びゆく無風のなかの草の穂
ひぐらしは六小節にて止みたれば夏の終りの夕闇深し
日ぐれまで陽の射す窓に身の細き赤き金魚を飼いゐし昔
飛行船オフホワイトに浅く浮き今しまさしく晩春の空
膝を病み探梅にゆけぬくやしさも将棋さしゐていつか忘るる
ひざがしら二つこもごも水たまりをブーツに漕ぎて来る少女あり
久しかりし病も良きか紀の国の蜜柑給ひぬ粒を揃へて
久々に汽笛を聞けばかかる夜は霧深からむ三陸の海
久々に花火を見つつ語らふにいまだなまなる部分持ち合ふ
久々の外出なればポケットのリップミラーをたしかめて出づ
久々の快晴微風川岸に闌けしすすきはもやもやうごく
久々の俳優老いてシェフの役白き帽子がよく似合ひたり
久々の人が背後に伴ふは不意に失語となりし母とぞ
ひざまづくかたちに椅子の置かれゐしいづこの部屋か囚はれゐしは
菱餅のかさねの色のあざやかに供へられゐて子の影を見ず
肘つきて手先のみなるわが仕事疲れは膝にたまりて痛し
秘蔵の陶器も売りてわれを学ばせし父と知りしも亡き後なりし
ひそみゐてよきものを呼び出さむとしつめたき器具が胸に貼られつ
ビタミンの多しときけば蕗の葉も大根の葉もこまかくきざむ
左足の少し太きは幼き日より内側のあいまいくもる痘目も見て
左手にあやめ花咲く道をすぎ咲きゐる見つつ隧道に入る
左手のしびれて震ふことなどは聞かされぬまま帰りたかりし
火だるまといふ恐ろしきものは見たることなしここまで生きて
ピックもて氷を砕く横顔は一心不乱のマスターならむ
櫓(ひつじ)田となりてひろがるいにしへの天領の名を今にとどめて
ひつそりといつもの二人を乗せしのみ一番バスは発ちてゆきけり
ひっそりと花もてる野ばらの道行きてとめどなくうちに湧く思ひあり
人あれば必ずあかりを点しゐむジパングといへる島はいづこか
人を呼び賑やかにゐる一夜経てまた幾日かこころ沈まむ
ひとかたまりのジャムを紅茶に埋めつつつね脈打てり耳のほとりは
ひとかたまりのパンあれば足るわがいのちゆゑ引用し人の言葉を告げしとき
ひと株の白菜十日もかけて食む虫の如しと二、三枚剥く
人混みを擦り抜けし時渡されて割符のやうな散らしをたたむ    ※
人知れず溺れて過ぎし月日ありて十幾種類の薬の名を知りしのみ
人知れず思ふこころは目に見ゆる柳などよりはるかになびく
人知れぬ幸ひならむひとたびも書かなくてすむ漢字を見れば
ひとすぢの針見失ふことのあり眠られぬ夜と覚悟を決めし
ひとすぢの光の糸も洩らさじと声をひそめて空襲の夜は
ひとたびも書きしことなき搾取とふ文字書き得たるわれに驚く
ひとたびも虫ピンを使ふことなくてわれは草花のみを集めき
ひと月と経て再び会ひたる穂すすきの波はゆたかに風に分かれつ
一つづつ割りし胡桃をむきをれど成算ありて生くるにあらず
一つ灯をよせせてよむ書のヒロインの歎きにいつか濡れつつ    ※
一つ一つ手に作りゆくわざに似むレモンをうすく輪に切りゆくは
一つ一つの花かぐはしき梨畑うすきみどりの靄をひろぐる
ひとつまみの若布を水にもどしおき坐れども既に力脱けゐる
ひとところ若葉の著(しる)き枝のあり街灯に近きゆゑかも知れず
ひと夏に枯らしてしまひ忘れゐしスパテイフィラムに白の花湧く
人波の中に信じて仰ぎゐつ火の勢ひの衰ふるまでは
人に言ふことにあらねど鼻血など出づる日ありて秋更けむとす
人のゐぬ心安さにらふそくと透かし見てより火を点じたり
人の顔の分け難きまで暮れて来ぬ鰭を振りつつわれは帰らむ
人の影置きたきときに風立ちてひといろにけむる若葉木原は
人の背のほどの夏草見てゐたり罠といふ字を不意に思ひて
人のみが老いを怖るるすべなさよギニヨールの目と下顎うごく
人の向きも分きがたきまで木の間より湧きて夕べの闇は押し寄す
人のゆく影も地上の犬の影もただよふごとき雨となりゐる
人の世にまみれて隔てなくおはす石の仏も雪をかづけり
人の世の去就のこともあへなくて思はぬところに人の名を見つ
人の世は苦海と思ふ日も過ぎてコーヒーゼリー掬へば甘し
一葉(ひとは)づつ風のまにまに耳そぎの刑を受けをり青桐の木は
一日だによしと思へる日のなくて羨まれつつわれは働く
人々の噂話に加はらず帰り来しことも虚勢の如し
ひとひらのアルミの箔のごときかとものを包めるわが手がやさし
ひと冬を使ひて余れるオリーブ油透きとおる色となりて美し
人前で釣り銭を数へ直すことをせざりし母の性継ぐ
一目見て真田紐ねと言ひ合へりひと目見て知るよはひよわれら
ひと夜さにわれを脱け行きしもののあり脳澄みて朝の窓をあけたり
人よりもかなしみ多く生きてゐてしがらみの無きは野の鳥に似る
ひとりゐも日がなの雨に昏れそめて灯ともせばわが身のかげ重く
ひとりゐは声立てて笑ふ日もなくて夕刊の来る時刻となりぬ
ひとりなすコーヒーブレーク粉砂糖をまぶしてつぶす大き苺は
人はみなおのれに還り夕闇のあやしき橋を渡りはじめぬ
ひなまつる夜のしづけさ雑誌などを積みをる上にこけしを置きて
雛も人も年古りたれど色あはき干菓子を盛りてひとり宴す
ビニールの色濃き桜風に鳴る風にいのちを得しごとく鳴る
ビニールの桜は色の濃すぎると仰ぎつつゆく旅のゆとりに
日にぬくむボール一つを拾ひたることさへわびしく草むらをゆく
日の暮れの早くなりたり帰るさに裸灯に光るトマトを買いぬ
日の疲れしるきをおして紅付きて待つ夫の帰りを
日の伸びて六時と変りオルゴール曲も「烏の子」(ママ)に変りをり
微風にも痛み易き蘭の花びらはせめて一時美しくあれ
曽孫を持つといふ人もをりければたちし月日のはかり知られず
ヒマラヤに咲く青き芥子も見ず過ぎて会はざる花の多きを思ふ
日向葵(ママ)は裏表なく咲くが良きしとどに濡れし黒土の上
悲鳴の如き声をあげつつ捨て犬を仲間に入れて子等は遊べり
緋目高を飼ふか飼はぬか大いなる事とし思ふ老いの独りに
ひもじくて拾ひたれども石は石の重さに土の匂ひをまとふ
日もすがら青あらしとふ風が吹きポストまでゆくしほを失ふ
白毫は水晶の玉と教はりて幼子のやうな香薬師見き
白夜のまま明けて朝餉の機内食サンドイッチのうまかりしとぞ
ひやむぎをすする力さへあらざりしかの日より三年徐ろに癒ゆ
病院の千八百カロリー多過ぎてわれは白飯をつねあましたり
病院の中庭に咲く花低し誰の育てたるなんばんぎせる
氷原のどこまでかゆくペンギンはフィリップ島に夜々帰るとぞ
平等とはさびしきものか集まれる誰も生家といふを持ちゐず
氷片の崩るるグラスのなかの音遠く永久(とは)なる音のごとしも
病名を問ふを憚り帰り来ぬ白衿寒くこやりいませば
兵糧の尽きて果てなむいのちの如し若からぬ身にひとりくらせば
ひよどりの混れるを見てふり向けばもう消されゐる黒板の文字
ピョンヤンは如何なる街か船腹にわれの読み得ぬ韓国の文字
開いたり閉ぢたり大き桧扇をひとり遊びに持ちゐし日あり
開きたるページに見えて合成語肉食妻帯罪ある如き
ひりひりと痛む日あらむ神経の如く山の襞が走れり
昼からの勤めを持ちて出で来しに帯美しき女らのゐる
ビルの肩にかかりてくるめく夕つ日の一歩歩めば忽ちあらず
ビル一つ抜けてまがりて来しのみに路上のなべて色濃くなれり
昼は勤めつくろひものに夜を更かしすりへらす生命肯ひ難し
拾ふ石一つとてなく耒し道に髪を短くせし人に会ふ
拾ふべき石一つなく歩み耒て積みてまた崩す塔の形も
ひろげおけばすぐ癖のつく本なども本の個性と裏返しおく
ひろげたる上体をひる返しとぶ十歳も年上といふ選手なれ
ひろげたるわが手の熱に曇りつつアルミの箔の自在ならなく
枇杷一つ剥かむとしつつ指先の感覚を確かむる思ひとなれり「路上昼夜」
瓶の底を仰向けて人の嚥むを見れば毒を呷(あふ)るときの勢ひに似つ