さいたま市立大宮図書館/おおみやデジタル文学館 ―歌人・大西民子―

歌稿(五十音順)

大西民子歌稿

[な~の]

地震雲の湧けりといふは信ぜねど二階に積める本をあやぶむ    ※
内臓は目に見えざれば選択の余地なくくぐる今日のドームは
内陸をめざせしといふ鯖の道思ひてをれば冬の雷(らい)鳴る
苗床のビニールを煽る風の音と聴きますましつつながく醒めゐる    ※
名を呼べば吠ゆるをやめて近づきて感情のごときを見する白犬
直会(なおらひ)とのらしては酒を酌ましめき先生もわれらもまだ若くして
長かりし花火も終はり星の名を言ひ合ひて行く母と子のをり
長く短く何の合図のクラクション黒き車が路上に鳴らす
長く病みて思ひ返せばただつらく化粧せざりし二日間ありき
長く病む人へ見舞ひを書かむには花の絵柄は少し派手なる
流したる折り雛二体忽ちにはなればなれになりて揉まるる
中州まで短き木の橋三歩ほどやや上(かみ)に曲げて二本目の橋
半ばまで溶けて再び凍りたる夜の雪道を渡るは誰か
半ばより虚構と知りて聞き終へぬ自らを誰も守るほかなく
半ばよりややせばまりて滝は落つよぢれし水に速度見せつつ
半ばより夢となれども膝を押して言葉を尽くして告げむとしたり
中指の深爪に打つ脈の数脈打つことは生きゐるしるし
流れだまにあたらないとも決まりゐずうたれしは森の兎なれども
鳴きかはす声かしましくひしめきてゐるとふ鶴は思ひ見がたし
無きことを確かむるために歩みしや幾日かすぎて雪の降り出づ
渚にて神も涼ませ給ふとぞ波に織られて太鼓がひびく
啼きながら入り来し猫を左手に撫しつつわれより視線そらさず
亡き母に似たるうなじを美容師は合はせ鏡に見せてくれたり
亡き母の名を知りゐるはわれひとり蓴(ぬなは)の生ふる沼ありにけり
亡き人が膝をそろへて弾きゐたる桃花心木(マホガニー)の小さきピアノも古りぬ
亡き人と同じ名を持つヒロインがむごき目に会ふテレビ見をれば
亡き人と連れだちて行く夢にさへ交錯しやまずヘッドライトは
亡き人の住みゐし町の名を言へり火力発電所の火事のニュースは
亡き人の宝なりにし沈金の輪島の椀も今日はしまひぬ
泣くままにして置かれたるみどり児のベンチに声を上げずなりたり
慰めむと思ひて訪へど手をとるなり泣きてしまひぬ母をなくせし友と
殴られし意識のうすれゆくまゝにすなほなる妻とならむと思ふ
擲つに月日をかけて生きて来ぬ辛夷が咲けばあと戻りつつ
投げ出されし氷の塊の裂傷に奔(はし)りて薄き紅色が透く
泣けば必ず熱出づるゆゑ泣かないと言ひ切りし後また涙出づ
なさざりしことの一つよ面つけておどけて神楽舞ふことなども
梨の木に黄いろの花の咲くにもあらずまれまれに乗る昼の電車は
なつかしくつらつら椿と呼びて見む少女の日知りし言葉の一つにて
夏草の茂る河川敷見てゐたり罠といふ文字不意に思ひて
夏雲の立ちくる如しはるかなる谷にかかれる橋を思へば
夏のため買ひたるベビーパウダーは匂ひ持ちゐて昔と違ふ
「七つの子」歌はせたりして晩酌の楽しみといふを父は持ちゐし
斜め上よりの眺めに臼のやうに深くゑぐれて休火山あり
何を聞く耳か一頭象のゐてばさりばさりと耳をうごかす
何をしたる十年と思へど摂氏五度が呑みごろと知れるビールを呑まず
何をしても何もしなくとも過ぎてしまふどこか遠くに海が見えゐし
何をしてわれは証さむ髪切りておもかげ変へしヴァィオリニスト    ※
何を調べて子らは行きしか地球儀は印度洋の海を見せて傾く
何を踏みし畳の上と思へどもゴム輪ちぢれてかたまりてゐつ
何を蒔きし畑か短き笹を立てまじなひの如く葉先そよがす
何か得て何か必ず失ひて枝うめて咲く蘇芳の花は
何か楽しき集ひに出でゆく姿して今日は朝より病院へゆく
何か陶酔のあらじかとまで渇く夜をしとしとと雨は屋根濡らすらし
何かに縋り肯定的に生きたしと独り身の友のもらす吐息よ
何がなし心細くてはめて出づ電池の切れしままなる時計
何気なく帰りゆける夜縊死遂げし友の遺書はわれに残されてありき
何事かを蔽はむがための策略と知りつつ人の饒舌をきく
何事か謀られてゐて女性の声を短く挟む会話が続く
何事のありしや膝も痛まずに必死に走るわれを夢見し    ※
何事のありと知れねど水色のテントに街の一角覆ふ
何事もなく近づきし飛行船真上となりて豪雨の音す
何に急ぐわれかと思ふ遠き野に草摘む人の影のうごかず
何にかに背中守られゐる日あり橋を渡りて行くほか無きに
何ほどの時間流れて道の上に対峙してゐし二匹もをらず
何も知らぬ女童なればほがらかにどの子がほしいなどと歌ひき
何もせぬ日のくれ方は帰り耒る人あるごとくうす雪を掃く
なにゆゑと問ふならねども家々の夕べの音は粗し朝よりも
なにゆゑとなく背がぬくしほたほたと音して雪の滴垂るる日
何故に影の赤しといぶかりて歩みつ夢とまだ気づかずに
なにゆゑにここに寄りあふ流木か白く乾きてくねれるも見ゆ
何ゆゑに捨てし杖かと思へども順礼の列はかの坂を越ゆ
菜の花の色をさながら現れて黄揚羽一羽まなかひを飛ぶ
菜の花の土手は草道砂利の道踵の低き靴にして出づ
鍋釜の苦労といふは避け得たるひと世思へとみづからに言ふ
なべづるの飛来せしとぞうす味になじみ難きまゝ冬に入りゆく
生臭を遠ざけて住むならはしに寒の土用の夜風身に沁む
並木道の霧の奥より音のして路面電車のくることもなし
涙さへ飾りとなして口もとに黒子のひとつ書くこともなし
波立てる水田一枚目に残りバスはトンネルに吸はれゆきたり
なみなみと緑茶の香してをれど経過をはぶくことのふえゆく
波の上にたゆたへる船も人間も丸ごとのみこむやうな落日
波の音にわが耳はひたと覆はれクレーンも低し人も小さし
波はただ尖りて寄せていづこにか風に倒るる画架ありにけり
習ひたることは朧ろに教科書に載りゐし則天武后の写真
奈良の言葉盛岡の言葉何事かまぎらはすときに使ふと気付く
南国の香り立つごとし百合の名をカサブランカと知りて活くれば
南国の便りに聞けば海門を渡りて鶴の飛来すといふ
南国の便りに聞けば地図になき島にも桜の花の咲くとぞ
南国の夕陽を燃やす海のかなたにらいかないの楽土ありとぞ
南国は梅雨のけはひにほのじろき雲をかぶせて水張田を置く
何十年すぎにしものを思ひ出づ夫の和服の紺の匂ひは
何となきめぐり合はせにひとたびも書かなくてすむ漢字のあまた
何となく慰むごとし自家受粉の花の名などを思ひてをれば
何となく目が行きてしまひ見てしまふ三巻目が抜かれている本の棚
何噸の雪と言ひしか忘れゐて大きモスクの崩さるる見つ
何にでも見えて危ふき洞(うろ)をもつ古木ありにき幼きころに
何人かにかたまりてゐる黄の帽子ちりぢりの帽子土手より見れば
何の木かしきりに落ち葉してやまず動乱のモスクワ映る画面に
何の薬を先づはのまむか目がさめて必ずどこか痛き体に
何のため折りしページを読み直し忘れてゐたる画家の名に会ふ
何の鳥と聞き分け得ぬに耳もとに近づきて来て鳴くことのあり
南米に嫁ぎゐる子のことを言ひどこか遠くを見る眼となりぬ
南面の傾斜に苺の花光りホース伸べつつ人のぼりゆく