高根沢町図書館/高根沢町史ほか

わたしたちの高根沢町と栃木県

6 わたしたちの県(けん)は,どんなところ

(2)伝統的(でんとうてき)な工業のさかんな地いき

益子町(ましこまち)をたずねて

③ どうして有名になったの?


145-1皆川(みながわ)マス(1874年~1960年)
 10さいのころから絵付けを始め,指でひざにかいたり,おなかに何回もかいたりして絵の練習をしました。
 マスさんがかいた「山水土びん」は,世界のてんらん会で1位になったこともあります。
 昭和22年,天皇陛下(てんのうへいか)が益子町においでになったとき,マスさんが絵付けをしているところをごらんになりました。その絵付けの様子をよまれた天皇陛下のお歌が,よう業指どう所(今の栃木県よう業ぎじゅつしえんセンター)に記念(きねん)ひとして残(のこ)っています。マスさんがかいた「山水画」は,今は孫(まご)の皆川ヒロさんが受け継(つ)いでいます。
 
145-2濱田庄司(はまだしょうじ)(1894年~1978年)
 濱田庄司さんは「生活の中で使われている焼き物の中に美しさがある」と益子焼に心ひかれ,益子焼に取り組みました。
 イギリス・沖縄(おきなわ)・朝(ちょう)せんなどの民芸(みんげい)品の良(よ)さや,「おおらかでそぼくな美しさ」を取り入れる努力(どりょく)をして,それまでの益子の焼き物に大きなえいきょうをあたえました。また,濱田庄司さんが益子に住むようになってからは,台所用品中心の益子焼から,つぼやかざり皿などの芸(げい)じゅつ作品がたくさん作られるようになり,益子焼が世界の国々にまで知られるようになりました。1955年には,国がすぐれたぎのうをもった人をみとめる「人間国宝(にんげんこくほう)」に選(えら)ばれました。
 
145-3島岡達三(しまおかたつぞう)(1919年~2007年)
 昭和21年に濱田庄司さんの弟子(でし)になり,土やうわ薬の研究をし,形や色,絵がらなど多種多様な益子焼のもとをつくりました。また,じょう文土器をヒントに自分で考えた新しい技法(ぎほう)で益子焼を作るようになりました。
 1996年には濱田庄司さんに引き続き,「人間国宝」に選ばれ,長く益子焼のために活動しました。
 
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 皆川(みながわ)マスさん,濱田庄司(はまだしょうじ)さん,島岡達三(しまおかたつぞう)さんたちの活動が注目され,そぼくな味わいのある益子焼を求(もと)める人がふえ,たくさんの焼き物が売れるようになりました。
 自分で益子焼を作る人たちもふえ,いろいろなところにかまをきずき,今ではかま元の数は約(やく)400けんくらいあります。
 また,栃木県よう業ぎじゅつしえんセンターでは,ろくろ成形のぎじゅつを身に付けたり,うわ薬や焼き方の研究などをしながら,焼き物をつくる人を育ててきました。ここで学んだ人たちが益子焼を守り,ささえる大きな役わりを果たしてきました。げんざいもすぐれたぎじゅつを伝える益子焼の伝統工芸士を生み出しています。
 さらに,焼き物を作る人は地元や宇都宮(うつのみや),東京のギャラリーを使ってこてんやグループてんを開き,新しい作品を発表したり,いろいろな発表会に作品を出品したりして,自分の力をみがいています。
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