高根沢町図書館/高根沢町史ほか

高根沢町史 民俗編

第四章 ムラの暮しとイエの暮し

第一節 ムラの暮し

一 大字とブラク

 一般に自分たちの生活領域として意識される範囲は、大きくて大字、小さくて班の範囲である。大字は、江戸時代の村であったところが多く、この江戸時代の村を現在の村に対して旧村と呼んでいる。この旧村は、江戸時代約二六〇年もの間、ほぼかわらずひとつの村として存続していたものが多く、行政的な機能を持つばかりでなく、生活集団であり、鎮守社を祭る祭祀集団でもあった。しかし戸数にして一〇〇戸前後の行政体が全国に散らばる状態では近代的な国家建設ができないと判断した明治政府は、より大きな行政体の組織をめざして、明治二二年に町村制を施行し旧村の合併を促した。こうして新しい町村ができるとそれまでの旧村は、大字として位置付けられたのである。
 一方、ブラクという言葉は、もともと前述した町村制以降の行政単位として使用されたものである。それが明治三〇年代以降、ムラをもブラクというようになり、さらに戦時体制下の昭和一五年の「部落会等整備に関する訓令」発令後、ブラクという言葉が盛んに用いられてきた。なお、高根沢町では、ブラクという呼び名以前はツボ(坪)と称していたところが多い。ところで、部落という言葉は一方では「身分的社会的に強い差別待遇を受けてきた人々が集団的に住む地域」を表わす言葉として使われ、特に西日本では被差別部落を指す事から不適切用語となっている。しかし、高根沢町でのブラクという言葉の使用は、前述した戦時体制下の部落会の流れを汲むものであり差別的な意味合いはない。つまり、高根沢町の民俗語彙として用いられてきたものであり、そこでここでは不適切用語と区別するために、「ブラク」としてカタカナ書きで用いることにした。
 班もブラク同様戦時中より用いられるようになった言葉であり、大政翼賛会の末端の部落会の支部として成立したものである。一般的には、もともとクミ(組)と称し、江戸時代の五人組の流れをくむものである。
 ここでは旧来よりあった純農村地帯の中阿久津と、宝積寺でも新興地でありしかも町場的な宝積寺駅周辺の東町および西町を例にムラの構成について紹介したい。
 中阿久津は江戸時代の村であり、明治二二年に阿久津村の大字となり、昭和二八年に阿久津町、同三三年からは高根沢町の大字となり現在に至っている。中阿久津は、もともと鬼怒川の沖積地に広がる集落であり、ムラの東部を東ないしは東ブラク、西部を西ないしは西ブラクとし東・西より成り立っていた。ところが東側の台地が東より分かれたシンタクなどによって開け、戸数が増したので昭和初期にそこを「台」と称して新たなブラクとした。しかし、新興地である台は、東・西とは付合いがなじまないということで分離独立し、中阿久津は再び東・西だけとなった。昭和六〇年頃のことであるという。なお、東、西、台という名称は、主として地域内での呼び名であり、一般的には中東、中西、中台と称される。ここでは以後、中東、中西、中台を用いる。
 さて、中東の場合は、さらに杉の内、関場(『高根沢町郷土史』では堰場とある)、堀の内、上町、吉原からなった。ところが堀の内は四戸、上町は三戸と戸数がそれぞれ少なく葬式の相互扶助が困難なために一緒になり上堀と称するようになり、結局、中東は杉の内、関場、吉原、上堀で構成されることになった。一方、中西はさぬき内と西の内からなった。なお、中阿久津では、戦前、中東を東坪、中西を西坪と称し、ブラクを構成する杉の内やさぬき内などの小集落はクミ(組)といい、それぞれ杉の内組とかさぬき内組といった。
 ところで前述したように戦時中に全国的に班が編成されると、杉の内以下の組は杉の内班と呼ばれるようになった。しかし、中西の場合は、戦後供出米の割当てを発端としてそれまでのふたつの坪の構成を解体し、気の合うイエ同士で新しく三つの班を構成することになったという。その結果、各イエが入りまじる班構成となった。
 中阿久津のムラの構成については以上のような変遷をたどったが、昭和三三年の高根沢町誕生を機に、町は全域に行政区を設定するようになった。旧来のブラクは、概ね「区」となったのである。中阿久津の場合、当初、中阿久津全体を二九区としようとしたが、中西の意見がまとまらず中東が二九区となり中台が三〇区、そして中西は四九区となった。
 次に町場的な宝積寺の東、西について述べよう。まず、宝積寺について述べると、宝積寺は中阿久津同様もともと鬼怒川沿いの沖積低地に開けた集落であった。台地上が開発されるようになったのは、明治三二年に東北線宝積寺駅が開設されたことと、それと呼応するかのように組織された「宝積寺殖民株式会社」による駅周辺の開発である。その開発は「駅から西町・東町を通って天神坂にぬける道路を開設し、その両側五・六間を住居地域として確保し、駅前繁栄への受入れ態勢を確保した」(『東町の歩み』)であったといい、当初、従来の宝積寺を始め柳林、籠関など近隣のオンジイなど次・三男が分家して移り住んだものという。こうして駅周辺が市街地化し高根沢町の中心街を形成すると、従来の宝積寺は下宝積寺とも呼ばれ、駅周辺は駅前、通称テイシャバ(停車場)と呼ばれるようになった(『高根沢町郷土史』には、「宝積寺は河原内、吉内、中妻、中、下石上、鷺野谷、駅前(西、東)、台坪の九部落からなり」とある)。そしてこの駅前が東西に分かれたのは、消防組の分離が契機となったものといわれ、大正二年のことであった(『東町の歩み』より。なおここでは、駅周辺の宝積寺を指す場合には宝積寺駅前と記し、宝積寺駅前の中の東、西を指す場合には宝積寺東町、宝積寺西町とする。また、従来の宝積寺は宝積寺と記す)。
 明治四五年宝積寺駅前は、戸数が約二〇〇余戸であった。その後、しばらくの間、際立った住宅の増加はなかったが、戦後の高度経済成長による宅地の開発が進み、とりわけ宝積寺東町の増加は著しく、昭和五一年には七九一戸を数えるほどになった。その結果、昭和五一年に「東町分割準備委員会」が組織され、昭和五二年に宝積寺東町は北区、中区、南区と三分割された。そしてそれぞれの区は、さらに分割され丁目、班が編成された。なお、三分割をした当時は、各区ごとの自治会と「東町自治連合会」がおかれたが、昭和五四年に解散し、以後、各区独自の自治会となった。

図3 中阿久津のブラクと班(平成14年)


図4 「宝積寺停車場」と刻まれた三丁目の二十三夜塔(宝積寺)