高根沢町図書館/高根沢町史ほか

高根沢町史 民俗編

第二章 着物・食べ物・住い

第三節 住い

一 農家の住い

(三)母屋での暮らし

 台所とは台盤所の略であり、本来調理をする場所をいった。高根沢町では、母屋入口を入った土間部分をダイドコロ(台所)といっている。台所およびその周辺は、母屋の中では極めて重要な所であり、日常生活の大部分はこの部分で行なわれた。ところで、日常生活にとって重要な所は、母屋の中でも最も変貌の著しい所でもある。生活の変化に合わせて改造が施され、ほとんど昔の面影はない。平成の世、土間造りの台所は、コンクリート床となり、ここで農作業などを行うことはなく、カマドも撤去された。イロリは炬燵に変り後部のメシクイバとの間にはガラス戸が設置され、流しも近代的なステンレス流し台に変り、傍らに冷蔵庫などが置かれている。厩は子供部屋などに改造され、背後のオカマヤは囲いのしっかりした風呂場に改造された。
 
①大戸口
 普段の母屋への出入口は、台所部分に設けられ、そこには一間幅の大戸が設置された。この出入り口をトボグチとかトブグチ、あるいはトンボクチなどといい、大戸が設置されていることからオオドグチ(大戸口)ともいっている。トとは戸であり、トンボとは戸が訛ったものである。一間もある大きな戸を設置した背景には、台所で農作業や藁仕事などを行ない、農作物や藁などの出し入れがしやすいためであるとともに、厩で飼育する馬の出し入れも行なったからである。大戸口は寒い時期以外は日中開けておき夜間だけ閉め、夜間の出入りは大戸に併設されたたくぐり戸を通して行なわれた。
 
②作業の場としての台所
 大戸を入った所は、広い土間となっている。ここは屋内作業の場であり、ムシロを敷き、その上で葉煙草のし、藁仕事、あるいは麦打ちやツタラ打ちなどを行った。高根沢町内では喜連川丘陵を中心に、昭和四〇年代頃まで葉煙草の栽培が行われた。九月末ともなると葉煙草生産農家では、タバコノシが忙しくなる。昼間は、タバコノシを乾燥小屋や納屋で行なうことが多かったが、ヨナベシゴト(夜なべ仕事)では明かりのある台所で行なったものである。これには大人ばかりでなく、子供も小学校高学年になると手伝わされたもので、両者が向い合い大人はモトトリといって葉の根本の部分を子供はサキトリといって葉の先の部分をのばした。
 藁仕事は、正月から三月頃にかけての農閑期に行ったものである。材料は稲藁、作る用具は米を入れる俵、俵を縛ったりする荒縄、地面に敷いて稲籾の乾燥などを行うムシロの補充、雨降りの時に着用する藁蓑、普段家の内外で履く藁ゾウリなどが主なものであった。太田のU家では、大正四年生まれの話者が嫁いで来た頃、藁仕事は若夫婦の仕事であり、俵、カマス、ワラジ、藁ゾウリ、荒縄、コモなどを編んだ。中でも主要な藁仕事は自家用に用いる俵とカマス編みで、俵は一冬に一〇〇俵、カマスは五〇枚くらい編んだという。コモは出荷用で、俵編み終了後コモ編みしたともいう。
 稲藁は、まず、よくすぐってワラシビを取り除く。これには代掻きに用いるマンガ(馬鍬)を用いることが多く、馬鍬を逆さまにして歯を立てそこに藁をあてて手前に引っ張りワラシビを取り除く。次いで稲藁に水気を与え粘り気を増すとともに、藁打ち石などの上に置き、その上からツチンボ(槌棒・木槌のこと)でよく叩いて柔らかくする。藁打ち石は、直径が三、四十センチメートルほどもある頭の平らな川原石を用い、それを厩柱の前に埋め込んでおいたものである。なお、藁仕事で出たワラクズは、箒で厩やオオガマに掃き込んだ。
 麦の収穫は、梅雨の季節であり、また、二毛作の水田では田植えとも重なる。したがって昼間、麦刈りや田仕事を行い、麦打ちは夜なべ仕事として台所で行うことが多かった。麦打ちは、ムシロの上に広げた麦の穂先をクルリボウで打ち穂を落とすものである。クルリボウは、竹竿の先に棒を取り付け、それを回転させながら打ちつけるもので、広い台所とはいえバタン、バタンと音を立てながら行う麦打ちは、ほこりが立ちこめ大変な作業であったという。一方、ツタラ打ちは、脱穀の際に切れ落ちてしまった穂先(これをツタラという)をさらにクルリボウで打ち脱粒を促すものである。麦打ちもツタラ打ちもより性能のよい脱穀機が普及すると行われなくなり、大正生まれの人たちでも記憶にあるのは、ごく一部の人だけである。
 
③カマド
 台所の奥、イロリに近い所にカマドがある。カマドはクドとかカマクド、ヘッツイとも呼ばれ、これには飯炊きを主としたカマドとマノミズ(馬の水・馬に与える水)を沸かしたり、大豆を煮る味噌炊きなどに用いられる大型のカマド、通称オオガマとがあった。材質には飯炊き用、オオガマとも古くは粘土を固めたもので、その後、大谷石などの凝灰岩製のものが用いられたが、飯炊き用のカマドは、戦後、新たにアラヌカカマドが出現し一世を風靡した。粘土を固めたカマドは、それぞれ自らが作ったものである。
 亀梨のS家では、話者が昭和一六年に嫁いで来た後も飯炊きカマド、マノミズカマドともに粘土を固めたカマドであったという。カマドの構造は、飯炊き用のカマドは細長く端が折れ曲がったL字型をしたもので、細長い部分には燃し口が三ヵ所あり、それぞれ湯沸かし釜、飯炊き釜、鍋を一度に掛けられるようになっていた。折れ曲がった部分にも燃し口があり鉄瓶を掛けた。なお、オオガマは、飯炊き用のカマドの脇に独立して設置されていた。
 S家に見られたような粘土を固めたカマドは、その多くが戦前に凝灰岩製のカマドにとって変られた。この凝灰岩製のカマドは、飯炊き釜を掛けるものと鍋を掛けるものとの二基連結されたものが多かった。一方、焼物製のアラヌカカマドは、その名前の通りアラヌカ、つまり籾殻を燃料とするもので、アラヌカを適量カマドの中に入れ、いったん点火するとその後は手をかけなくとも飯が炊き上がるという便利なものであった。従来のようなソダッキやモヤなどを燃やすカマドに比べると手間暇かからず、しかも失敗が少なく、その上、飯も美味く炊けるという優れもので、昭和三〇年代に入るとたちまちのうちに広がった。
 
④厩
 昭和三〇年代頃まで、農家では馬は必需品であった。犂をつけての田うない、馬鍬をつけての代掻き、背中に振り分けにしての小荷駄の運搬や荷馬車引きなどはもとより、馬が作り出す厩肥は重要な肥料となった。
 厩はそのほとんどが母屋内部に設置される内厩であり、馬の出し入れに便利な大戸口に近い母屋の隅に設置されることが多かった。大きさは九尺四方で、その中に一頭の馬を飼育する。大方は、厩が一つで一頭の馬を飼育したものであるが、大きな農家では厩を二つ構え二頭の馬を飼育する場合もあった。
 厩の出入り口は、台所側に面しているのが普通である。家族から馬の状況がよく分かるようにとの配慮からであった。したがって馬の出し入れは、いったん台所に出してから大戸口を通して行われた。
 厩の床は台所面より四、五〇センチメートルほど深く掘り下げてある。そこに冬から春にかけてはキノハ(木の葉)や切り藁、夏から秋にかけては切り藁を敷き詰め、馬のする糞尿とともに馬に踏ませて厩肥を取った。厩肥のことを高根沢町あたりでは、マヤゲ(厩肥)という。おおよそ二週間に一度、厩肥が台所の面と同じくらいの高さになるとマンノウなどで掻きだし、庭先に設けた肥塚に積み上げたものであり、特に一月一六日はマヤゲダシの日ともいい厩肥を掻き出す慣わしがあった。なお、厩の床には溝が掘られ木の葉や切り藁に染み込みきれなかった屎尿が、溝を通って外部の溜に流れる出るようになっている。
 
⑤オカマヤ
 オカマヤのことをオコマヤともいい、厩の背後の部分を指す。本来、カマドが設置されたところからオカマヤ(お釜屋)と呼ばれるようになったものと思われる。実際には焚き木を置いたり、餅つき臼や漬物桶などの置き場や収穫したばかりのジャガイモや里芋などの一時置き場であったり、あるいは仕事着を置いたり、着替えの場などに利用された。
 
⑥風呂場
 風呂はセーフロと呼ばれ、木製の桶にカマドを取りつけたものである。風呂場は、このセーフロに小さな洗い台がついた粗末なもので、古くは男子の小便所と併設され大戸口や厩に近い所に設置されたものである。そして小便と風呂の排水は、ともに庭に面して設けた溜に流れ込むようになっていた。こうした風呂場の設置の背景には、排水を堆肥にかけたり、肥料として用いたり、あるいは風呂の残り水を厩のキノハや切り藁にかけたりするなどの利便性があった。ところが戦後になって化学肥料が用いられたり、馬が耕耘機にとって変られたり、あるいは風紀が論じられるようになると、人の目につきやすい所への風呂場の設置がはばかられ、お釜屋など母屋の後部に移転され、囲いのしっかりした風呂場へと変り、風呂桶そのものもタイルを張ったコンクリート製等の風呂へと変った。
 
⑦アガリハナ
 台所には大きく鉤型に板張りが張り出している。大戸口に近い部分は幅が狭く多くは三尺程度、広くても一間程度である。ここは奥の茶の間やカツテ(勝手)への上がり口にあたるところからアガリハナ、あるいは訛ってアガリッパナと呼ばれている。行商の応対はもっぱらここで済ました。一間ほどの幅広いアガリハナを構える家では、正月の注連縄ないをここで行ったものでもある。
 
⑧イロリ
 アガリハナの後部、板張りが幅広くなった所にイロリがある。このイロリには、間口が狭く奥行きの深い形態のものと間口が広く奥行きの浅い形態のものとがあった。前者は栃木県内に広く見られるのに対し、後者の間口が広いイロリは、宇都宮市を中心とする狭い範囲にしか見られない極めて地方色の強い形態のイロリである。河内町岡本にある国指定重要文化財の岡本家民家には、この間口の狭いイロリが昔のまま現存する。大きさは幅が一七〇センチメートル、奥行き一一〇センチメートルであり、自在鉤が二本さげてある。一つは鉄瓶用であり一つは鍋をかけるためのものであったという。
 高根沢町のイロリは、この間口の広いタイプに属するものが多かったようである。宝積寺の野中家は昭和初期に建築されたもので、間口が一一三センチメートル奥行きが一〇〇センチメートルで、自在鉤は一本である。しかし、聞き取りでは、自在鉤が二本あったとする家も多く聞かれた。
 高根沢町では自在鉤のことを、カギヅルシとかカギッツルシなどと称している。構造は、多くが竹筒の中に鉤の部分だけが鉄製の棒を差し込み、棒の上げ下げの調節に木製の魚型を取りつけたものである。このほかに鍛冶屋で打ってもらった鉄製のもので調節具に「水」の文字をかたどったものなどが用いられた。
 イロリには自在鉤の他にヤキコや火消し壷を置いたり、また、上部にヒダナを設置する家もあった。ヤキコは、脚のついた半円形の鉄製の網で、おき火の周りに置き餅など乗せて焼いた。火消し壷は、焼物製で燃え残りの炭を入れて消すもので、こうして出来た消し炭は炬燵に入れて堅炭とともに用いた。火棚はイロリからの炎が上がらないように取りつけたものであるが、雨が続く時には、濡れた衣服を吊り下げ乾かしたりした。
 イロリには、火の神様がいるのできれいにしておくものだといわれ、イロリのかたわらで爪を切るなとか、グミの木、漆の木を燃やしてはいけないとされた。
 ところで、イロリの回りは、どこの家でも同じように座名がつけられ、家族の身分に応じて座る場所が決まっていた。大黒柱を背にした一番奥まった所はヨコザと呼ばれ、一家の主が座る場所とされた。そこは台所全体を広く見渡せる場所であり、一家を指揮する主にふさわしい場所でもある。古くはその所のみ敬意を表して茣蓙を敷いたので、ヨコザの名がついたのであろうといわれている。ヨコザの格式は厳格に守られたもので、「ヨコザに座る者は、米買いだ」(ヨコザに座る者は米を買う力がある主人の意味)、「ヨコザに座る者は、猫、馬鹿、坊主」(ヨコザに座ることができるのは、一家の主人、それ以下では何も理解できない猫や馬鹿とえらい寺の僧侶だけが座ることができるの意味)などの俗言が聞かれた。一方、ヨコザの反対側は、キジリと呼ばれた。キジリとは、木の尻にあたる所、つまりイロリの火の燃し口であり、そこは台所でこまごまと家事に従事する若嫁や奉公人の位置する所であった。高根沢町では、ヨコザ、キジリ以外の場所には、座名が伝承されていないが、大戸口側は客の座であったり跡取りの座であり、一方、流し側は主婦の座とする場合が多かった。
 
⑨飯食い場
 イロリの後部の広い板張りは、メシクイバ(飯食い場)であり、時には麺台を置いてウドンやソバなどを打つ場所となり、結婚式や葬式など人寄せ振る舞いごとには配膳の場所にもなった。
 昭和初期頃まで、食事に箱膳を用いる家が多かった。これは蓋つきの箱の中に飯茶碗、汁椀、小皿、箸を入れ置き、食事の際には蓋を裏返しにしてその上に食事を盛った茶碗や椀を置いて使用するもので、各自が銘々所持したものである。食事の際には、各自が戸棚より箱膳を取り出し、イロリまわり同様決められた場所に座して食事を取った。戦後は箱膳が廃れチャブダイ、さらに座卓やテーブルへと変ったが、食事の場所そのものには変りはない。
 
⑩流し
 母屋内部の水場の中心となったのが流しである。流しはコンクリート製で、木製の脚付きの物が多く用いられ、これを窓際に設置した。飲料や洗いものに用いる水は、井戸より汲み上げた。井戸は大抵屋外に設けていたので、流しには手桶や甕に水を汲み置いた。したがって流しでは大量の水を必要とする洗い物をせず、野菜や漬物を刻んだり、簡単な調理を行った。

図54 ダイドコロでの藁仕事(大谷 阿久津次大氏提供)


図55 大谷石製のオオガマ(宝積寺)


図56 タイル張りの飯炊きカマド(宝積寺)


図57 庭の片隅に設けられた肥塚(石末)


図58 山崎家現状間取り図(石末)


図59 山崎家推定復元間取り図


図60 野中家(宝積寺)間取図 昭和初期建設


図61 旧イロリ。一段低くなった所がキジリ(宝積寺)


図62 コンクリート製の流し(宝積寺)