高根沢町図書館/高根沢町史ほか

高根沢町史 通史編Ⅱ

第六章 発展する高根沢町

第三節 青い空と緑の大地の田園都市を目指して

一 豊かな社会をめざして

 昭和三三年(一九五八)一一月三日高根沢町の合併祝賀会が施行された。この席上小林町長は今後の町について「のばせばのびる素地のある吾が町」として伸びる力は町民の一致協力にあることを訴えた。可能性のある町、高根沢町はその第一歩を歩みだした。翌年の四月二五日には公民館で町民、各団体より代表五名を招いて約三〇〇名の参加者と共に「高根沢町を発展させるにはどうしたらよいか」との題で討論会がもたれた。議論は多岐にわたり積極的で先見的意見がだされた。この時の意見を生かす施設は昭和三五年頃より具体化されていった。まず旧習慣からの脱皮として正月を新暦に一本化する。また町のシンボルとして町章、町歌、町の音頭を作ることが決定した。町章は秋田県の弾正まり子、町歌は千葉県の広瀬鋭男が入選した。町歌は星野哲郎補作、船村徹作曲によってでき上った。音頭は、三五年八月一三、一四日仁井田駅前で初披露された。
 産業の発展には工場誘致が一つの柱とされた。東北本線の沿線という地の利を生かして工場の誘致促進のため三五年一月に「高根沢町工場誘致条例」が制定された。農業関係では農協に有線放送施設ができ、五月一日より通話が開始された。農協を強力な農民組織の中心にし町の経済基盤を強化することになった。庁舎建設の手がかりも三五年にみられた。住宅問題については、第一次住宅対策として三ケ年計画で宝積寺中の台に町営住宅五六戸建設が計画され順次竣工していった。町の生活を活性化したのに電話のめざましい普及があった。電話が一斉にダイヤル式に切りかわったのは昭和四五年一一月二七日午後三時よりからである。電話は直接通話できるようになり加入者は四ケタの番号を使うようになった。
 町は次々と新たな装いに発展していくなか、一方で社会、経済情勢の変化により消えていくものもあった。昭和五年一月一五日に設置され四四年有余の間、同町の登記事務管轄登記所として業務を扱ってきた仁井田登記所が昭和四九年九月一日に氏家出張所に統合することになった。地もと区長らは町会議長に陳情書を提出して登記所の存在を評価し、当時三〇戸だった文挾の戸数が今日では三〇三戸、人口一、四〇〇余名に増加したのは登記所のためであり、とくにいまキリンビール工場、本田技研ができ、さらに住宅団地造成と土地の移動や建物の増加が続く中で登記所の利用は増々増大していった。登記所がなくなれば住民の時間的、経済的損失ははかりしれないと許えたが全国的な整理、統合の波によって氏家町への移転がきまった。
 昭和五〇年度に入ると町は大きく飛躍するための基礎計画の作成にあたった。昭和六〇年を目標年次とする「高根沢町長期振興計画」の基本構想が決定したのである。
 それは農工商調和のとれた農住都市の建設と町民参加の合意にもとづく町民福祉の充実が目標としてかかげられた。昭和五二年九月一三日に町のシンボルになる花・木・鳥が、花はあやめ、木はいちょう、鳥はひばりに決定この頃より、町の誘致した企業、キリンビール株式会社栃木工場が昭和五四年四月二日より操業を開始した。昭和五五年九月より整備が進められた「町民広場」も第一期工事である、トレーニングセンター・陸上競技場・野球場が完成し、五六年八月二九日に竣工式をあげた。次いで二期工事であるテニスコート、環境改善センター、町民ホールが五八年一〇月八日に完成をみた。このように町民の文化・体育活動の中心となる総合的施設はでき上った。そして町勢発展の道しるべとしての町の願い、誓いなどをおりこんだ「町民憲章」が昭和六三年五月二六日に制定された。
 
  一、私たちはなかよくします。
  一、私たちは教養を高めます。
  一、私たちはきまりを守ります。
  一、私たちは若い力を育てます。
  一、私たちは郷土を愛します。
 
 あわせて町のシンボルである木、鳥、花を町の発展にあわせて
 
  いちょうのように大地に根をはり
  ひばりのように青空に舞い、
  あやめのようにきよらに咲く
 
 と、高根沢町をこのようにうたいあげている。

図11 平和台の町営住宅(昭和36年頃)