高根沢町図書館/高根沢町史ほか

高根沢町史 通史編Ⅱ

第六章 発展する高根沢町

第一節 変わる農業政策の中で

二 新たな農業を求めて

 高根沢町のように米作り中心の農業を主に暮らしてきた農村では昭和四〇年代からの米過剰による農政の転換は、農家経営の大きな危機だった。米あまり現象のひとつは国民の食生活の変化による米消費量の減少であるが、農民の側から見れば、稲の品種改良、土地基盤整備、農薬と肥培管理による病虫害予防と駆除、多くの農業機械の採用など汗と知恵と資金を投じて栽培技術を向上させてきた結果でもある。国民経済の観点からみれば、巨額の税金を投じて戦後日本が築き上げてきた水稲栽培の基盤と技術が有効に機能しなくなってきたということである。しかも、米は余って、休耕田はあるが食糧の自給は困難という、農業にとっては誠に不名誉な事態に立ち至っている。数十年にわたる農村振興、構造改善事業の成果は何であったのか問い返している農民は多い。かつて米作り準日本一になった野中昭吾は、減反・転作が始まって間もない昭和五一年に「私の人生と農業」という一文を書いたが、その中で次のように記している。少し長くなるが引用してみよう。
 
    苗づくりからはじまるイネづくりは赤坊を育てるが如き気持ちが必要である。暑いときは、寒いときは、風のふく日、雨の降る日、病気にかかった場合、怪我した場合―等我が子を育てる気持ちで成長の度合に、さまざまな障害を乗り越え、力をつけさせ一人前にする。そして試練の台風にこのイネは勝つか負けるか。私は台風の中ジット田んぼのイネの前に立ったことがしばしばあった。やっぱりダメだったか。
    何度も何度も経験したことか。そして台風に打ち勝ったときは、山頂を征服したような壮快さ。この喜びは忘れることはできません。
    昭和四六年、米の生産調整、そして五ケ年間国賊扱い。昭和五〇年度より水田総合利用対策事業等、農林省の施策は農家サイドの感はあるが、中身は依然として米作り農家への圧力は消えていない(中略)。
    農業経営の危機が叫ばれてから久しい。この間農家の兼業従事は深刻になり、経営主の流出、長期出稼ぎ、あとつぎ不在、農業従事者の婦女子化と老齢化の現実が起きている。農産物価格も安く不安定、新しい機械、大型機械が目ざましく増え、その代金や償却費は農家の大きな負担です。
    そのうえ米の減反政策は農民の心をうばってしまった。これからも農業をとり巻く悪環境が急変するとは考えられない。長期的に日本経済は、低成長期に入ることを考えるならば、営農設計もこれまでのような経済の高度成長を前提としたものから大きく転換しなければならない。急速に伸び他産業の生産性に追いつくために、ゴールなき規模拡大が横行した。この結果生まれたのは「畜産公害」であり「地力低下」である。
    私は個別経営は農業所得を拡大する手段としての専門化、機械化によって労働生産の向上をはかりながら地域全体として畜産、耕種の組合わせによって、自然循環の枠におさめ、労働力の調整、土地の高度利用、さらに農業経営の安定をはかるものと考えている。この場合、地域複合経営、あるいは農業生産の地域的な組織化が必要と思う。これが現実的な規模拡大の途であり、農業所得を増やす手段である。
    私は輪作型の作目選択など複合経営を見直し、水田裏作にレタス、ニラを、水稲は多収穫を続け、おいしい米、コシヒカリ、アキニシキ、日本晴をつくり、農業所得だけで生活できるよう、我が道を歩む。
 
 ここには「米づくり」に生涯をかけてきた農民の農業と農政にたいする感慨と、今後の農業経営にたいする考察が述べられている。減反後の農業振興策が米作の生産性向上とそのための規模拡大を考え、農機具の保有合理化、営農集団を主にした農作業委託事業などにとりくみ、さらに土つくりと畜産廃棄物の有効利用のため、米作と畜産の有機的関連を図っていることは、野中の考えていた農業生産の地域的組織化が現実に動き始めた事でもある。平成二年(一九九〇)に完成した中央部カントリーエレベーター(大字太田)、平成五年(一九九三)竣工の北部カントリーエレベーター(大字石末)は懸案だった大型の穀類共同乾燥調整施設として、規模拡大に対応する大型コンバイン導入による収穫作業を可能にし、生産性の向上と農業機械への過剰投資防止に威力を発揮するであろう。
 これからの農業の姿は少数の、大型機械を揃えた営農集団による米作りを軸に都市近郊型の生産性の高い有機農法も取り入れた園芸農業、米作と結合して「自然の枠」内で廃棄物を循環できる酪農と牛・豚の肥育などの組合わさった形であろうか。

図4 名誉農業士の認定をうけた野中昭吾と静江夫妻(平成2年1月)


図5 北部カントリーエレベーター(石末地内)