高根沢町図書館/高根沢町史ほか

高根沢町史 通史編Ⅱ

第六章 発展する高根沢町

第一節 変わる農業政策の中で

一 基本法農政と町の農業

 高根沢の地域は明治・大正期の篤農家岩原孫作以来多くの農事研究者がいたが、昭和戦後期も新しい農業を求めて多くの青年たちが農研を中心に米作りに取り組んだ。米作地帯であるから米作りは地域全体の課題であり、農業改良普及所や農協の指導も大きな力となっていた。
 そうした成果が最初に現れたのが昭和三一年(一九五六)小林清三が「米作り日本一」共進会に出品して県一位になったことである。ついで昭和三三年(一九五八)西大谷の鈴木孝が農業コンクール米作部門で県一位になって農林大臣賞を受賞した。鈴木の家は水田二町二反、畑二反、梨畑一反五畝を耕作する農家であった。氏家高校卒業の昭和三〇年、農業経営をまかされた鈴木は県内の篤農家を歴訪する傍ら農業専門書を読んで農業経営について学んだ。そして、これまでの営農を反省し「営農改善五ケ年計画」(鈴木孝著「私の営農改善五ケ年計画」、広報「たかねざわ」昭和三四年七月二〇日)をたて、四年目にこの快挙をなし遂げたのである。米作りで改善した点は(一)秋落ち田への客土と暗渠排水、(二)保温折衷苗代と早期栽培の導入、(三)苗代、植付け後の田の肥料と水の管理、(四)品種の特性を考えた種子と苗作りであった。三四年時点で反収三石二斗前後、反収四石を目指して努力中と広報に記している。鈴木が当時求めていた農業の姿は「水稲と梨と家畜(養豚)」を有機的に結び付けた営農であった。
 次が昭和四二年度(一九六七)の朝日新聞社主催「米作日本一賞」で「土壌改良と肥培管理により秋落ち地帯で多収穫を実現」して技術部門の「準日本一賞」を受賞した中阿久津の野中昭吾である。県段階の審査では初めて反収五石をこえて技術部門と多収穫部門の二冠を得ていた。野中は戦時中、陸軍少年航空学校を卒業、台湾、沖縄を転戦し、復員した。米作りに熱中するようになったのは、昭和二八年の冷害とイモチ病の発生で大きな被害をうけてからだという。三一年までは水稲+酪農であったが、次第に水稲一本に絞って、東北・北陸地方の米作りを学んだが、「土地柄」に合った米作りが大切だと悟り「寝る前に、必ず一日の作業日誌と稲の生育状況の記録」をつけて研鑚した。そして、昭和三五年から「米作日本一」に参加した。当時、栃木県の反収は四石(六〇〇キログラム)をあげるのは大変だったという。四〇年には六〇〇キログラム以上とったが県二位だった。
 そのころ町では「米一割増産運動」が行われていて、各集落に「安定多収米つくり推進員」を委嘱して、各農家には栽培暦を配って多収穫技術の普及・徹底を図っていた。目標は反収・一〇俵(六〇〇キログラム)、七〇数名が多収穫共進会に参加しており、町内の米作技術研究の最盛期であった。昭和四一年、野中は六七〇キログラム以上とるが、また県二位だった。この年、野中は過去五年間に各郡で一位をとった者を有資格者とする栃木県水稲多収穫研究会の組織化を企画し参加する。ここでの学び合い、県農業試験場試、普及所、町産業課、農協などの指導や経験の交流などが、野中ばかりでなく町内の稲作技術を向上させたといわれる。
 そして四二年、野中は米の品種に短稈、強稈の「日本晴」を導入して反収五石の壁を破ることに成功した。この時の中央審査会審査報告(『昭和四二年度 米作日本一 受賞者の技術内容』朝日新聞社、鈴木源男所蔵)によると、野中の米作りの特徴は(一)秋落ち田を客土と肥培管理、深耕で土壌改良、(二)早期・早植栽培と元肥六割、追肥四割という施肥法の工夫、(三)苗代に落葉の堆肥と籾殻の堆肥を工夫して使い健苗を育て、田植えの栽植密度は一平方メートル当たり二五・二株の密植、(四)水管理の工夫、特に高温になる約一か月は井戸水による「夜間冷水灌漑」を行い好結果を得ているなどである。実地調査をした審査員は「きわめて扱いにくい土壌条件で七六三キログラムに達したのは、誠に感嘆のほかはない」と絶賛した。
 野中の成功はすぐに町の米作りに生かされ、翌四三年度の高根沢町水稲多収穫ベスト三〇には、日本晴(二〇人)、レイメイ(一〇人)と日本晴が増え、反収も野中七二四・七、阿久井邦久七二一・一、加藤彰吾七二〇、加藤芳明七〇五・八と七〇〇キログラムをこす者がでた(鈴木源男「米一割増産運動と高根沢方式安定多収米づくりを推進して」、野中昭吾「米作日本一に挑む」前掲書)。昭和四四年(一九六九)九月の農政審議会が減反など米過剰時代の総合農業対策を答申する前年のことである。