高根沢町図書館/高根沢町史ほか

高根沢町史 通史編Ⅱ

第五章 戦後改革と民主化

第三節 農地改革と農協の成立

一 第一次農地改革から第二次農地改革へ

 栃木県の在村地主の保有小作地と所有耕地面積の最高限度はそれぞれ一町三反歩、三町九反歩と農林省から告示されていたが、県はさらに公正を期すために昭和二二年七月八日市町村毎にそれぞれの限度を定め公示した。阿久津村は小作地一町四反、所有地四町歩、北高根沢村と熟田村は一町五反と四町三反で、この二村は栃木県では最大の第五類地であった。
 各村農地委員会は、第一回会議でそれぞれ委員長を選んでいるが、熟田村は鈴木峯三郎、阿久津村は永倉弥之助、北高根沢村は鈴木長寿と各村の大地主で小作層にも評判のよかった人が選ばれている。農地委員会は農地の買収・売渡し事務を行うために書記、部落補助員を採用した。阿久津村の例(史料編Ⅲ・一一八三頁)でみると、専任書記二名、兼任書記三名(役場一、農業会一、農民組合代表一)、部落補助員は一部落一名で二九名、部落で選任し履歴書提出、他に協力員三~五名と決めた。昭和二二年度の農地委員会の予算は三万七〇三七円であった。地主による小作地・賃貸地の引上げ等で紛争が生じた時は関係地区の農地委員と役場で処理することを委員たちは申し合わせている。会議は農地の所有権、耕作権に係わることだったから公開で行われ、傍聴人が多いと予想されるときは、学校を会場にしたという。しかし、二〇年一一月二三日にさかのぼっての自作地、小作地の認定、在村地主、不在地主の認定、買収地をめぐる苦情や解放する小作地の交換分合などの細かい問題については、協議会で事前に関係地区の農地委員、書記、部落補助員と当事者で話し合っておき、本会議はそれを承認する場合が多かったという。
 第一回の土地買収は二二年七月二日に行われ、各村とも二二年度に全買収面積の過半の買収を終え、二三年度にはほぼ九八パーセントくらい終わった。売渡しも同時進行だったから農地改革は二三年度末で峠を超えた。この間、北高根沢村では村農地委員会の農地認定買収決定にたいする異議申立てが、県農地委員会へ出された。その内容は自作で法定面積の四町三反歩以上の田畑耕作者一七名が法定面積をこえる分の買収決定をされたが(昭和二三年一月三一日付強制買収通告)、それは法の解釈を誤っているという申立てであった。県へ出した阿久津与市外一〇名による訴願状には法(第三条第五項第一号)は「耕作の業務が適正でないもの」の法定面積をこえる分の買収をいっているので、阿久津等は熱心に農業経営に励んでいる自分たちを「耕作の業務が適正でないもの」として強制買収するような「不法不当な処分が許されるものならば自作農創設も新憲法もなにもあったものではない」と述べている。県農地委員会は三月二〇日異議申立てを認めて村農地委員会の決定を覆した。村農地委員会は再審議請求をしたが取り上げられなかった。この訴願の影響で近隣町村の自作地の認定による強制買収はかなり緩和されたという(山本健二著「農地解放に対する訴願状の提出」、『農業改良三〇年のあゆみ』所収)。
 改革が進行する過程で各村農地委員会からは農地改革で変わった地主・小作関係を解説する農林省のパンフレットや小作地取上げ問題について不当取上げを防止するパンフレット(史料編Ⅲ・一一八五、一一八七頁)が配られた。しかし、土地買収が行われている最中でも地主の土地返還要求はかなりあったようで県内では昭和二二年、二三年の二年間で一、五八六件の土地引上げ要求があり、七〇五件が許可、六四四件が不許可になった。二四年から二七年には二、三五三件あり一、九九三件が許可になっている(『栃木県農地改革史』)。町域でも二二年三月~四月にある地主が田六反三畝歩、畑一町八畝歩を返還させた記録が残っている。
 開拓適地である未墾地の買収、売渡しについては農地改革の一環として自作農創設特別措置法に規定されていた。未墾地の買収も県農地委員会の買収計画によって行った。北高根沢村では大字太田字大沢、砂部、篠原、雨窪などの山林原野一七町歩(通称いさべ・加藤正信所有)に新規に五戸が入植、地元の一〇戸と共同で開墾するため解放を申請し、県農地委員会が買収、売渡しを決定した。阿久津村では昭和二三年二月に、大正一三年から開墾して農地と採草地に使用してきた鬼怒川河川敷・五町七反八畝余歩を、関係耕作者四五名が解放許可申請をだした。ここの払下げ申請は戦前にも数回だされたが許可にならなかった。さらに戦後は「占用料金」が値上がりして、普通農地の小作料金と変わらなくなってきた。そこで農地改革を機に昭和二三年に解放申請を県へだした。河川敷の管轄が内務省から建設省へ変わったり、河川敷の解放の例がないことなどで県の回答は延ばされていたが、昭和二六年三月阿久津村農地委員会から「廃川敷地告示願」が県にだされ許可された。熟田村でも山林の買収、開墾を計画したが、堆肥用の落葉、下草が不足すると異議申し立てがあったという(『氏家町史』下巻・四五七頁)。