高根沢町図書館/高根沢町史ほか

高根沢町史 通史編Ⅱ

第四章 昭和恐慌と戦争の時代

第四節 戦時下の村政と村民生活

五 悲劇の終息

 塩谷郡の昭和二〇年六月町村長常会の阿久津村の提出事項は「聖戦完遂」のスローガン通りの戦争色一色であった。いまその内容を列記すると次のようである。
 
   総務課
  一、国民貯蓄ノ増強ニ関スル件
  二、国民義勇隊ニ関スル件
  三、軍事特別措置法運営ニ関スル件
 
   学務課
  一、戦時教育令及戦時教育令施行規則ニ基ヅク学徒隊ノ組織ニ関スル件
  二、昭和二一年度満蒙開拓青少年義勇軍募集ニ関スル件
  三、大日本飛行協会々員募集ニ関スル件
 
   兵事厚生課
  一、軍人援護ノ強化徹底ニ関スル件
  二、戦時罹災者ニ対スル保護援護ノ徹底ニ関スル件
  三、海軍志願兵募集対策ニ関スル件
 
   経済課
  一、調整米造成ニ関スル件
  二、食糧増産ニ関スル件(田植促進、栽植密度改善ノ徹底、麦類収穫促進、甘藷作付確保、大豆緊急増産)
  三、供出ニ関スル件(麦類ノ早期供出、馬鈴薯ノ供出)
  四、春期農繁期農作業適期完遂ニ関スル件
  五、馬鈴薯実収高、標準掘ニ関スル件
  六、春夏作綜合作付実績調査ニ関スル件
 
   林産課
  一、松根油乾溜工場全力運転ニ関スル件
  二、夏季木炭増産運転実施ニ関スル件
  三、第一次薪増産ニ関スル件
 
 特に注目されることは六月二三日公布になった義勇兵役法による国民義勇隊の結成である。国民義勇隊は一五~五〇歳の男子、一七~四〇歳の女子全員を義勇兵役に服させるもので、従来の大政翼賛会などの諸団体は解散して国民義勇隊に発展的解消を遂げた。阿久津村の大日本婦人会も六月二七日支部の解散をし、義勇隊に編成替えしている。従来の婦人会員は全員義勇隊員となり貯金も義勇隊に引き継ぎ、事業も義勇隊へ引き継ぐことになった。そして本土決戦を目前にひかえた七月八日の大詔奉戴日には国民義勇隊戦闘隊観閲式と軍民合同米英撃滅必勝祈願を実施している。しかし、現実は戦災地の跡かたづけなどの勤労奉仕に出動する程度で、軍事体制の空洞化を示すなにものでもなかった。
 七月の村常会では先月と同じ内容であったが、ただ一つ眼をひく協議事項が記されていた。「戦災者保護ノ徹底並ニ茨城県沿岸避難民収容ニ関スル件」である。
 茨城県では七月一七日の深夜から、翌一八日の未明にかけて日立・勝田地区がアメリカ軍機動部隊の艦砲射撃をうけた。一八日午後一一時一四分には五戦艦、二軽巡洋艦、九駆逐艦からなるアメリカ機動部隊の砲撃をうけた。ここで栃木県は茨城県沿岸住民を収容することになり、食糧、住宅等を考慮し、農家各戸に割り当てして適正に収容しようとした。特に茨城県に近接する那須、芳賀、下都賀、河内、塩谷の各郡町村に対し一戸当たり二名平均の人数を収容する計画であった(表33)。避難者はおおむね老幼、妊産婦、病疾者であり、収容については各部落の代表者を決め、茨城県避難指導員の誘導により入村するとなっていた。避難者の受入場所は北高根沢村の阿久津徳重宅であった。この計画も一週間もたたない間に敗戦となり、実現しなかった。現在では当時の思い出話としてしのぶのみである。
 
表33 沿岸避難者住民収容人員計画(昭和20年8月)
部落名収容部落名収容部落名収容部落名収容部落名収容部落名収容
人員人員人員人員人員人員
  上阿久津    中阿久津    宝積寺     大 谷     石末   
  上町   59    西組   64    上組   75    宮下   57    笹原   66    柳林   92  
  中町   50    東組   87    中組   64    関場   48    向原   67    赤堀   87  
  西組   34    台坪   36    下組   57    東組   75    宿上   62    籠関   03  
32    東町   64    西大谷  48    宿下   89    天神坂  29  
  本町   73    西町   57    天沼   101    原    □9    合計  1,725