高根沢町図書館/高根沢町史ほか

高根沢町史 通史編Ⅱ

第四章 昭和恐慌と戦争の時代

第二節 阿久津村事件

三 阿久津村事件の結末

 小作調停が失敗した翌日、喜連川警察署長は、民政党の県会議員で花岡で医院を経営している菅又薫医師と連絡し、調停に入った。菅又は苦学して医者になり、農村医療に献身的に尽くし、貧しい農民にも村々の有力者にも厚く信頼されていた。農民の生活を知り尽くしていた菅又医師は予てから阿久津村争議に深い関心を寄せ、流血事件の負傷者の治療にも当たっていたので、調停の労をとることに積極的であった。ことによると、争議解決が難航したときは調停を依頼されていたのではないかと想像されるほどタイミングよく調停にとりかかった。署長と菅又は六日夜、地主全員と会い意見をきいた。その席で野沢は「時局に鑑み先の条件より譲歩する」旨を述べた。菅又、署長は小作人代表と会い解決条件をまとめた。それは次のようであった。
 
  一 小作料一割減額、二割は年賦貸付
  二 小作料の七割は本年秋に必ず納付
  三 大衆党と関係を絶つため包み金四〇〇円を地主より提供する
  四 新設の愛郷会設置資金、小山、小川両君(収監中)見舞金として金四〇〇円地主より提供する事
  五 三月一〇日現金授受する事、それまでは内容発表せざる事
    尚、小作者の希望として、大衆党より(小作米)保管金領収までは発表せざる事にされ度、先方(大衆党)へは五割にて解決の事になさざれば受領困難につき諒されたき事
 
 この解決条件は小作人・地主合意で伏せられていたので、いろいろな伝わり方をしている。三月八日付の特高報告(『栃木県史』史料編近現代四・九八九頁)では、
 
  一、小作人側より地主に対し金二、一〇五円三六銭(小作米二八二俵)を支払う事
  二、解決条件として金二〇〇円地主より小作人に対し提供する事
  三、本条件の履行は昭和七年三月八日とす
         地主側代表者    菅又 薫
         小作人側代表者   根岸勝一郎
         立 会 人     岡本繁四郎(喜連川警察署長)
 
 また、新聞では、例えば三月八日の朝日新聞紙上では見出しを「小作人側の勝利、阿久津争議大団円を」として喜連川警察署長と菅又県議の仲介で折衝の結果「地主間に軟論派が優勢となり」「小作人側の要求通り五割減を認めた上、内一割五分は取立て中止し、争議費用として二〇〇円を地主側が支出することに決定」したと報道された。三月一二日付け報知新聞も「三割五分減に小作人満足、阿久津事件円満解決す」として同様の内容を報じている。
 三月一〇日、解決条件の(四)の「阿久津村石末愛郷会」発会式が午後一時、創立委員長野沢茂堯宅で行われた。式は回谷村長、阿久津農会長、檜原消防組頭、川上、黒崎青年団長、宝積寺駅長、在郷軍人会分会長、他字の地主たちを来賓に招き、小作人三五名、地主一〇名が参加して盛大に行われた。会則(史料編Ⅲ・三三七頁)によると会は石末の宿坪関係の地主と小作人で組織し、耕地の利用、厚生・福利の増進、地主・耕作人の親睦を図ることを目的とし、小作料の査定や肥料の共同購入、農業労力の配給・調節等の事業を行うとしていた。しかし、この会については大衆党・全農県連は強く反発したようで、三月二六日付の国民新聞は「タッタ三日間で消えて仕舞う阿久津村の愛郷組合」という記事で「全農側ではこれを組合として極度に排撃するところあり、二四日遂に前組合長の斉藤寅松以下の役員は全部辞職し、組合解体の声明書を発し愛郷組合は創立三日間で消え失せた」と報じている。日時におかしい点はあるが、余り続かなかったのであろう。
 争議の実際の解決条件が当初は意図的に誤って発表されたことは前に述べたが、大衆党・全農側の保管していた小作米の代金が地主へ渡されたからであろうか、三月三〇日の下野日々新聞をはじめ各新聞に「取消」として次の記事が掲載された。
 
  謹啓貴社益々御隆昌の段大賀に奉り候、のぶれば去る三月八日御紙に御掲載の「阿久津村流血大乱闘小作争議漸く手打ち」と題する記事中、解決案として(一)小作料は五割を減額し内一割五分は催促せざる事を条件として三割五分を減額する事(二)争議費用として小作人側に二〇〇円を支給する事云々の件は事実全く相違し、同事件は
  一、契約小作料の一割減額
  二、二割は貧件(年賦償還)
  三、七割は本年度に納付
  以上の条件により円満解決したるものにこれ有り候間、誠に御手数ながら右全文を掲げ至急御取消し相成たく御願申し上げ候
    昭和七年三月一九日 塩谷郡阿久津村関係地主代表  野沢茂堯
 
 これで阿久津村小作争議の解決条件が初めて明らかになったのである。野沢宅には県内の多くの地主から見舞状や励ましの手紙がきていた。当初の解決条件が大衆党・全農勝利の印象を与えていたので、地主の中にはそれが自分の小作人たちに影響することを憂慮する者もあった。野沢はそうした地主たちの心配を早く取り去りたかったに違いない。それにしても、取消し要求の日付と記事掲載日の一〇日余りのずれは何を物語るのだろうか。

図16 菅又 薫

         県会議員、第15代の(昭和7~14年)北高根沢村長