高根沢町図書館/高根沢町史ほか

高根沢町史 通史編Ⅱ

第四章 昭和恐慌と戦争の時代

第二節 阿久津村事件

三 阿久津村事件の結末

 一月二〇日地主側の小作調停申請で宇都宮地裁は阿久津村大谷の鈴木清、姿川村の坪山徳弥ら四名の調停委員を選任して阿久津村小作争議の調停に当たることになった。この間、一月二三日午後六時頃から県公会堂で生産党は「阿久津村事件真相発表演説会」を開催、本部から八幡博堂、鈴木善一、津久井竜雄らがきて演説した。聴衆約九〇〇人は東京本部からの弁士の論旨に「幾分の関心を持したるものの如く」と警察は報じている。大衆党側も一月二四日同趣旨の演説会を県公会堂で聴衆九〇〇余人を集めて開催した。東京から麻生久、田原春次、平野学の三人を呼んで大日本生産党に対抗したが、演説の中で麻生は「今回の事件で支部幹部の大部分検挙されたので、今回の選挙には栃木県で立つことは出来ない。党の再建と家族の救援に当たることが先決問題だ」と述べ、聴衆に「やや、感動をあたへ」たという(『栃木県史』史料編近現代四、九八六頁)。そして、麻生は選挙区を東京五区へ移して立侯補したが、準備不足と満州事変による軍国主義の風潮の高まりもあって落選した。森恪と大日本生産党は目的を遂げたというべきであろうか。しかし、その森もこの年の一二月に病で死去してしまう。
 一月二六日には県公会堂で生産党の「殉難四士の党葬」が総裁内田良平他多数が参列して行われた。
 慌ただしく日が過ぎていく中、一月三〇日に第一回調停裁判が開かれた。調停委員、農林省小作官、県の福田小作官補が参列した中で、裁判長に意見を求められた地主代表野沢は(ア)昨年の減収は最大一割、(イ)隣接地主は小作料減額せず、他の地主も減額は五分~一割の二点を述べ、減額は一割と主張した。午後二時ごろ小作代表と補佐役の大屋が出廷して減額八割を主張した。双方妥協の意思はなく次回は二月九日となった。二月九日出廷した野沢は調停委員から小作側へ譲歩するよう再考を求められた。小作側は大屋が収監されたため延期を求めた。地主側は「譲歩」について協議を重ねた結果、二割減額の譲歩が容れられなければ調停取り下げとすることになった。
 三月五日の調停裁判で裁判長より三割減額程度まで譲歩するよう話があり、坪山徳弥調停委員、福田小作官補も同意見だったが、小作側は五割減額、地主側は全員申し合わせ通り二割減額を主張した。結局、調停は決裂し地主側が調停を取り下げた。

図15 生産党員葬に参列した内田良平(中央)(「東京日日新聞」昭和7年1月27日)